甘い罠
パトカーを目立たない場所に止め、海洞と一偉は希麗たちと合流した。二人がジュースを飲んでいるのを見て、海洞たちも自動販売機から水を購入した。
「んで、そこのガキが見たって言うのは犯人なのか?」
「子供扱いしないでください。それと、俺の名前は青輝です」
「高校生以下はみんな等しくガキンチョだ。俺は一偉。このアホと同期」
言いながら一偉は海洞を顎で指した。指された本人はお腹を押さえて苦しそうにしている。胃痛がきているのかもしれない。
「で? 実際どうなんだよ」
「……小学二年生の女の子でないのは確かですよ」
青輝は窓から覗いていた目を思い出した。あれは大人の目だった。それは確かだ。
「とりあえず、聞き込み調査ってことで訪ねてみるか。その子がそこにいるのは確かなんだ。最悪、強行突入する」
「君はまた大胆なこというね。一旦落ち着こう。残念ながら証拠がないんだから」
でも、と海洞は桃がいる部屋を見上げた。
「アパートの入り口は一つだけで、今のところ桃ちゃんらしき子を連れた人も出てきていない。行けば鉢合わせにはなるだろうね」
水を飲んで胃痛が和らいだのか、少し顔色が良くなった海洞は水の入ったペットボトルを希麗に渡した。
「持っててくれない? 流石に水持ちながらいけないからさ」
「はいはい」
「あ、俺のも頼む」
「一偉は青輝に預けてよ。私もう二つ持ってるし」
「……んじゃ、頼む」
「今すごく嫌そうな顔しましたね」
結局そのまま押し付けるようにして青輝は水を渡され、警察官二人はアパートに向かって歩きだした。
「そういえば、犯人が捕まえられるかもってどういう意味ですか」
二人がアパートの中に消えた後、青輝は希麗に尋ねた。彼女は炭酸ジュースをちびちび飲みながら答えた。
「縁ってさ、それこそ目が合っただけで簡単にできるのよ。ただ、クモの糸みたいにすごく細いから、それ以上何もしなかったらあっさり切れちゃうの。そこで、君が何とか相手を思い出そうとしてくれれば、その糸は辛うじて繋がりを保つからそれを追えば捕まえられるってわけ」
もちろん、犯人が逃げた場合のはなしだけどね、と希麗は笑った。
「まぁ、今回はその必要はないかもね~」
やっと空になった缶を近くのごみ箱に捨てて、希麗は大きなあくびをした。
「後はお巡りさんに任せよう」
海洞は階段を使って五階まで上がった。階段を上がりきったところに、一偉がなぜか仁王立ちして待っていた。
「遅い」
「ひどいよ。僕階段だったのに」
「じゃんけんの女神は俺にエレベーターを選択する権利をくれた」
はぁ、と息をついば一偉が背中を叩いて喝をいれた。
「よし、行くぞ」
二人は並んで角の部屋の前に来た。表札には何の名前も書かれていなかったが、少なくともつい最近借りた、というわけではなさそうな痕跡がいくつかあった。
海洞はインターフォンを鳴らした。反応がない。もう一度押して、今度はドアを叩いてみた。
「すみませーん。どなたかいらっしゃいませんかー」
それでも、反応はなかった。
「どうする?」
「強行突入。管理人から鍵を借りよう」
「だから、無理だって。許可状ももらってないんだよ」
納得いかない一偉は、海洞を押しのけてドアを強めに叩いた。反応がないことに腹を立てたのだろう、そのままドアノブを回した。
「おい、一偉」
しかし、そこで一偉の動きが止まった。
「……一偉?」
「海洞。鍵、かかってねぇ」
その事実に、二人は最悪の可能性を考えた。無理心中の可能性を。
あくまで可能性だ。しかし、確認しないわけにはいかなかった。
一偉は海洞と目を合わせ、頷くと、勢いよくドアを開けた。
部屋から、甘い香りが溢れ出た。
まずいっ!
海洞はとっさに一偉をドアから引きはがし、肩で押すようにしてドアを閉めた。
瞬間、くらり、と体が傾いて、ドアにうっかかるようにしてズルズルと倒れた。
必死に目を開けてみれば、一偉がぐったりした状態で座っていた。それも、目が霞んで見えなくなっていく。
希麗。希麗。助けてくれ。
海洞はそのまま意識を手放した。
突然はじかれたように上を見上げた希麗は、そのまま何も言わずにアパート内へ走り出した。慌てて青輝も走り出す。
エレベーターが五階にあるのを見て小さく舌打ちをすると、希麗は階段を駆け上がった。五階にたどり着くと、角の部屋の前で警察官二人が倒れているのを見つけた。
「海洞! 一偉!」
希麗は彼らを呼びながら体をゆすってみた。次に脈が動いているか確認し、大きな傷がないか確認した。
「海兄!? 一偉さんも!」
青輝が驚きながら近づいてきた。しかし何をしたらいいかわからないのか、希麗の行動をずっと見ていた。
「二人とも、どうしたんですか?」
「わからないわ。でも特に大きな傷はないし、ただ寝ているだけに見えるわね」
「寝てるだけ? どうして」
希麗はしばらく考えた後、海洞から預かっていた水を持ち主の顔へ勢いよくかけた。
「わっ」
青輝が声をあげていた間に水はみるみる減っていき、ペットボトルの水がなくなったとほぼ同時に海洞がうめき声をあげた。
「海洞。海洞。しっかりして」
希麗が軽く頬を叩くと、彼はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「海洞。私がわかる?」
「………き…り…」
「何があったの」
海洞が小さな声でぼそぼそと話し始めたので、希麗は耳を彼の口元へ近づけた。
それを見て、青輝は一偉に同じように水を全部かけた。しかし、一偉は起きるどころかうめき声すらあげなかった。
「希麗さんっ。一偉さんが起きませんっ」
「うん。今海洞から全部聞いた。部屋から甘い香りがして、それを吸ったらこうなったって。たぶん海洞の方がその量が少なかったんだと思う」
「甘い香り?」
「そういうにおいがするかはわからないけど、二人の状態からして、睡眠薬の一種かも」
青輝は目を見開いた。
「じゃあ、中にいる桃ちゃんは?」
それを聞いて、希麗も目を見開いた。大人が少し吸っただけでこうなるのだ。小さな子供がまだ吸い続けているとしたら、大変なことになるかもしれない。
海洞は足に力を込めて立ち上がった。まだ少しふらついているが、一人で立てるようだ。
「海洞無理よ。そんな状態で」
希麗の言葉を聞かず、彼は両手で自分の頬を叩いた。それでもあまり変わらないようだったが。
「青輝、救急車、呼んで。警察、にも、連絡を。二人で、一偉、連れて、離れて」
どうしても一人で行く気らしい。おそらく、これ以上一般人を巻き込まないための、警察官としてのプライドだ。
「……わかったわ」
希麗がそう言い、海洞がほっとした、その瞬間。
海洞の頬に、鋭い痛みが走った。
「いっ!?」
思わず声を出して見ると、希麗が手をひらひらさせながら笑っていた。ビンタされた、と気づいたのはその時だ。
「どう?目が冴えた?」
ぽかん、としていたが、やがて海洞はふにゃりと笑った。
「ありがとう」