追跡、再び
車から降りると、潮を含んだ生ぬるい風が体にまとわりついた。
目の前には真っ黒な海。その先に青輝がいることを知って、海洞は絶句した。
真夜中に、船で逃亡だなんて無茶がある。犯人がなにを考えているのか、まるで理解ができなかった。
「今、海上自衛隊に連絡とったぞ。後は任せるしかねぇ」
一偉が悔しそうに呟いた。犯人が海にいるのであれば、その専門に応援を頼んだ方がいい。海洞たちにできることはなくなってしまった。
「もし、このまま青輝がどこか遠いところに行ってしまったら」
「言うな」
海洞の言葉を一偉はさえぎった。
「今は待つ時だ。〝もし”とか、そういうの考えるのは未来に期待が持てるときだけにしとけ」
海洞は唇をかんで頷いた。最悪な事態を想定している場合じゃない。
すると、一人周りを調べていた希麗が驚きの声を上げた。
「トウジュロ!?」
予想外の名前が出てきたので、慌てて彼らは希麗のもとへ駆けつけた。彼女の目線の先には、自分たちが来る前から駐車されていた車のボンネットの上に座っている、見慣れた灰色の猫の姿があった。
トウジュロの足元には、見知らぬキーケースが置かれていた。
「なんでこんなところにっていうか、それは……?」
希麗がキーケースを手に取って中を見ると、二つの鍵が入っていた。トウジュロが目を細めて尻尾でボンネットを叩いたのをみて、希麗はおお、と感心した。
「一つはこの車の鍵なのね。まさかこれに乗ってきたの? 青輝君と一緒に?」
なうぅ。
トウジュロは肯定すると、ボンネットから降りて歩き出した。希麗は静かにその後についていく。
その間に、海洞は車内を調べた。特に目立ったものは見当たらない。気になる点があるとすれば、後部座席に濡れた後があることだ。
ここに、青輝がいたのか。海洞はそれを撫でて目を閉じた。怖かっただろう。寂しかっただろう。拳を固めて彼は立ち上がった。
希麗を探すと、他の漁船とは似ても似つかない船に乗っていた。どうやらもう一つの鍵は船のものだったようだ。
「トウジュロ嬢!! あなた最高よ!」
そういって抱き上げようとした希麗の手から、トウジュロは全力で逃げ出した。
「お嬢さん抱かせてくださいよ! そしたら高級猫缶買ってあげるから! マグロの刺身もあげちゃうよ!」
じりじりと、眉間にしわを寄せながらトウジュロが戻ってきた。それを抱き上げて、希麗は幸せそうに頬ずりした。
「おい、これが犯人の船だとしたら、どうやって海に出てんだよ」
一偉の問いはもっともだ。本当はこの船で出るつもりだったのだろう。
しかし、実際にはトウジュロが鍵を持っていた。船どころか、車での逃亡も阻まれたのだ。
「別の船に乗ったと考えるのが妥当なんだろうけども」
「おいっ! あんたっ!」
考えを巡らせていると、白髪交じりの男性がこちらにやってきた。彼は希麗に近づくと、突然腕を掴んだ。
「このコソ泥めっ! さっさと鍵を返せっ!」
「えっ!?」
希麗は慌てて腕から逃げ出したトウジュロに視線を向けた。鍵を持っていた本人は素知らぬ顔だ。
「ただで済むと思うなよっ! 警察に突き出してやるっ!」
「警察です。その話、詳しく聞かせてください」
いつの間にか横に来ていた海洞が警察手帳を取り出すと、男は一瞬目を丸くした。それが本物であるとわかると、男は希麗を指さしながら言った。
「この女が、ワシの船の鍵を取っていったんだっ! 早く手錠をかけてくれっ!」
「……失礼ですが、本当にこの女性でしたか?」
「ワシを疑っておるのか? 間違いなく、この女だっ!」
そう抗議していた男性は、改めて希麗を見てぴたりと動きをとめた。目を点にしたまま、彼女の頭の先からつま先までをじっくりと見て呟いた。
「間違えた」
「だろうな」
一偉が呆れたように呟いた。彼は手を放して慌てて海洞に向き直った。
「間違えて悪かった。しかし、本当に鍵を女から盗まれたんだっ。あれがないと魚を捕りにいけねぇっ」
「おじさん、因みに、この鍵ではないよね?」
希麗が持っていた鍵を差し出すと、彼はすぐに首を振った。
「ワシは鍵を別々に分けている。二つをつなげて持ち歩いたりせんぞ」
そうなると、青輝を連れた犯人が彼の船に乗っていった可能性が高い。
「因みに、その犯人はどのような方でしたか?」
ところが、その質問に男は口ごもった。
「実は、女とわかっているんだがうまく顔を思い出せないんだ。確かに、見たはずなんだが」
「では、他に気になったことはありませんか?」
「そうだな……。そういえば、変な甘い匂いがしたような」
甘い匂い。そのキーワードに、海洞と一偉は思わず目を合わせた。こんな偶然があるのかと。
「ちょっと失礼しますよ」
一偉はそういうと、男性の手の甲を思いっきりつねった。彼は驚いて手を払うと同時に、目を見開いた。ぶわりと一気に汗が噴き出た。
「なんだっ? 今、はっきりと顔が浮かんできたぞ。あんた、何をしたんだっ」
間違いない。海洞と一偉は確信した。
「桃ちゃんと青輝を攫ったのは、同じ人だ」
「同一犯ってこと? なんでそう思うのよ」
後で説明する、と言って、海洞は男性に向き直った。
「すみませんが、あなたはあれを動かせますか?」
あれ、というのは犯人のであろう船だ。しかしその発言に一偉は慌てた。
「おいアホ! まさか追わせるつもりじゃねぇだろうな!」
「犯人が同じなのは間違いないんだ。早く青輝を助けないとっ」
「いい加減にしろ! 何人一般人を巻き込めば気が済むんだ!」
「でも」
「〝でも”じゃねぇ! 守るのが俺たちの役目だろうが! 変に事件に首突っ込ませるな!」
その時、不意にエンジン音が聞こえた。振り返ると、そこには船に乗っている男性と希麗の姿があった。
「おい、そこの兄ちゃん。いつでも出せるぜ」
「ちょ、何してんですか!」
「悪いね。そっちの兄ちゃんはワシを案じてくれてるんだろうけど、ワシの船を使われたってんならもう部外者じゃないわな」
「だからって」
「二人とも、早く!」
一偉の声をさえぎったのは希麗だ。
「青輝君、覚悟決めたみたいだよ。応えなきゃ」
それを聞いて、海洞は素早く船に乗った。一偉は苛立ちを隠そうともせずに、大きな舌打ちをしてから船に乗った。
「トウジュロ! ここで待ってて!」
希麗がそういうと同時に、船は発進した。
トウジュロは、車のボンネットの上でそれを見送った。