ファクトシート
もうすぐ任期が終わり、一週間後には、フランスの家族のもとへ帰る予定だった。すでに『国境なき医師団』が推薦する、交代の医師がやってきている。シモーヌは引き継ぎの最中だった。
後任は、どういう縁か日本人の若者だった。イツキとは似ても似つかない太めの青年だったけれど、同じ国からやってきたというだけで、なぜだか、その青年のことを近しく感じた。
ぬいぐるみのような外観に似合わず、頭のいい若者だったので、シモーヌは大事な情報――難民キャンプとの距離感。米軍の立ち位置、解体された自警団のこと――を、教えるのに、さほど苦労をせずに済んでいた。
部屋を明け渡すのは来週のことで、シモーヌは少しずつ荷物をまとめている最中だった。取り敢えずは日常の生活には必要がない物から、ダンボールに梱包した。
カーテンは、もともとキャンプにあったものと交換した。緑がかったグレーの味気ないカーテンだ。灰皿も空き缶で代用できるし、石鹸皿やボディブラシも、なければ絶対に暮らせないといった物ではない。
そういった物をかき集めて、シモーヌはコーヒーメーカー――これは最後の瞬間にまで必要だ――にカートリッジをセットし、抽出ボタンを押した。一息いれる頃合いだった。
ベッドの端に腰かけてデスクに向かうと、開いたままのノートパソコンの画面は、少し前に見ていた記事を表示したままだった。
記事は、国連情報センターの『ハタイ危機』にコメントする、ファクトシートだった。
原文のままだと、こんな感じだ。
――ハタイ脳炎の流行は、規模こそ限定的ではありますが、人類がかつて経験したことのないほどの危機的状況だと言えます。
それは、世界的な感染の流行の前夜段階であると表現しても、過言ではありません。
もはや公衆衛生を脅かす危機であるだけではなく、社会、経済、人道、政治、安全保障に大きく影響を与える、複雑な緊急事態です。ハタイ脳炎の流行は、対岸の火事ではなく、世界の国々の全てが直面する、差し迫った問題なのです。
我々は、不完全ながらも築き上げてきた人類の文明を、歴史発祥以前の状態に戻すわけにはゆきません。




