ぜんぶわたしの意思
ミーティングルームで待機する「コディ」から、レヴィーンが部屋に向かっていると連絡があった。
これから起こることを考えると、なんだか気分が重かったけれど、こういう事こそが樹の仕事だ。
誰かの意思を――思想や、モラルや、祈り、といった人間の感情を曲げて、必要な成果を得ること、そのように世界を操作すること、それが樹の仕事だ。
レヴィーンの一途な思いを利用して、樹を憎むようにすることなんて、樹にとっては朝食を作るより簡単なことだった。
それでレヴィーンのリスクは桁違いに下がる。正しいことだし、必要なことだ。だってレヴィーンは樹にとって、誰にも代えがたい大事な女性だから。
なのに、どうしてこんなにも、レヴィーンがやってくるのが、恐いんだろう?
山賊もどきの傭兵たちを、たった一人で相手したって、恐怖を感じたことなんか一度もなかったのに。
やがて、樹の部屋の扉が開き、現れたレヴィーンは、青ざめた顔で、目を赤くしていた。既に、ずいぶんと泣いたのだろう。
ベッドに座る樹に飛びついて、そのままベッドに倒れこんだ。
レヴィーンは、樹の胸に顔を押し付けたままで言った。
「イツキ、わたし暇を出されたの。一週間以内に退去してほしいって、なにか知ってる?」
「……いや。聞いてないよ」
その返事に、レヴィーンははっとしたように、樹から体を離した。鳶色の深い瞳で、樹の目をのぞき込んだ。
「知っているのね。教えて。どういうことなの?」
「レヴィーン……きみはこの仕事から離れた方がいい」
レヴィーンは体を固くした。その言葉が、どういう意味なのか考えているようだった。やがて立ち上がり、こわばった顔でベッドの樹を見下ろした。
「ふーん。イツキはもう、面倒くさくなっちゃったんだ。ずいぶん早かったね。こんなことしなくても、言ってくれればそれで良かったのに。わたし、都合のいい女になってあげたわ」
「レヴィーン――」
「触らないで。ショックだわ、イツキ。なんでも話してくれると信じていたのに。そう言ったわよね、わたし」
「こんな危険な場所じゃなくても、他に仕事は有るはずだ」
レヴィーンの瞳が、暗い光を帯びた。年頃からは考えられないような、深く冷え切った光だった。
「わたしみたいな女に、他にどんな仕事があるっていうの? わたしみたいな、難民の、なにも出来ない、ちょっとだけ見た目のいい女が、どんな仕事に就くか、イツキは知っているの? わたし、説明した方がいい?」
「レヴィーン。きみを傷つける気は――」
「――黙ってて。昔話をしてあげるわ、イツキ。わたしは子供じゃないし、イツキが思っているみたいに純情な女の子でもない。ほんの二年ほど前の話よ。ある日、過激派の人たちが大勢で町にやってきて、今から、この町を管理するって言ったの。大きな銃やナイフを持った人たちよ」
傷つける気はあった。というか傷つける事こそ目的だった。こんなに、自分の方が傷つくと思っていなかっただけだ。
「抵抗しなければ、手荒なことはしないって言ったわ。町の人はみんなそれを信じたの。いまさら逃げ切ることも出来なかったし。過激派の人達は、わたし達を男の人と女の人を分けて、男の人だけ、道路脇に並ばせたの。その中には、わたしのお父さんもいたのよ」
こわばった顔のまま、レヴィーンは笑みを作った。
「わたし、運ばれてゆくバスの中で見たの。動物を殺すのと同じ。順番に一発ずつ。首の後ろを狙って、あまり汚れないようにするのよ。お父さんの姿を見たのは、それが最後」
レヴィーンはゆっくりと下がって、樹から離れていた。どこか、遠い異世界に消えて行ってしまうような気がした。
「それから、わたしと母はどこかへ学校みたいな大きな建物に連れていかれて、競りにかけられたのよ。そこは奴隷の市場だったの。わたし、市場で一番の高値がつく商品だった。すごいでしょ」
「……やめるんだレヴィーン」
「やめないわ。まだ大事なことを話してないもの。イスラム教って道徳観がとても厳しいのよ。結婚せずに女の人とするとか考えられないの。でも、もし男の人が、どうしてもそういうことをしたかったら、方法はあるのよ……臨時婚っていうの」
臨時婚――イスラム教の厳しい戒律と人間の欲望の狭間で生まれた言葉だ。教義に反しない売春を、もしくは一方的な行為の強要をする為に利用される制度。
儀式も必要ないし、一晩だけでも、一年でも構わない。臨時婚をした女性は、時には牛や馬のように扱われる。
「母を守って、生き残るために、わたしはどんな事でもした。わたしは気に入って貰うために笑顔をつくったのよ。イツキ、わたしの気持ちわかる?」
腕を伸ばして、レヴィーンを抱き締めたかったけれど、たぶん、もうそれを許してはくれないだろう。
もしかして、なにもかもが終わって、樹がレヴィーンを迎えに行ったら、レヴィーンは樹を許してくれるだろうか? そんな奇跡みたいなことが起こるだろうか?
「だから、こんなことべつに平気なの。がっかりさせちゃってごめんね」
そう微笑んで、レヴィーンは樹と視線を合わせた。
イツキの表情を確認した途端、レヴィーンは怯えたように下がって、背中にドアが当たった。自分がどんな表情していたか、ぜんぜん気がついてはいなかったけれど、レヴィーンが言葉でそれを教えてくれた。
「その顔、最悪よイツキ。唾でも吐きかけてくれた方がマシ。わたしはこんな女だけど――自分のことを憐れだと思ったことは一度もないの。ぜんぶわたしが自分の意思で選んだんだから」
そう言って、逃げるようにレヴィーンは部屋を出て行った。




