感染源の全てを
「このマニュアルが本物だ、という確証はどこにもないわ」
「本物だと主張する気はありません」
偽物であれば、誰の心配をする必要もなかった。ただ、利用するだけでよかった。樹の専門分野は、どちらかというと、そういう薄っぺらな虚言の方だから。
「ありえないことだと、考えますか?」
「荒唐無稽……にわかには信じられないけれど……そうね、存在を否定するのは、ナイーブすぎるわね。もちろん選択肢の一つだわ。わたしもその可能性を考えた」
タバコの火をもみ消す指が、かすかに震えていた。
「実行可能だと思いますか?」
「可能かどうか? もちろん可能よ。むしろウィルスと闘うよりはずっと簡単。患者もスタッフも目に見える存在だもの。包囲して皆殺しにし、焼き払って灰にする。なにか、不可能な要素があって?」
それは、樹が狙った通りの反応だった。シモーヌ医師は、傷ついて取り乱していた。人の世界に絶望するあまり、これ以上ないくらいに、平静で落ち着いていた。
この志の高い立派な人物を苦しめているのは樹だ。これが樹の仕事だ。どの情報を渡し、どの情報を渡さないようにするか、それだけの事で、人の心は簡単に操作できる。
「簡単なことよ……世界のすべてを敵に回す覚悟さえあれば。その覚悟が出来ていると、そこにサインがあるわ」
コーヒーメーカーが、作業完了を知らせていた。紙でできたカップを樹が取ると、すぐに次の抽出が始まった。樹は熱いコーヒーをシモーヌ医師の手に渡した。
「要領を定めたのは、合衆国政府とトルコ内務省です。協力部署はおそらく数え切れないほど」
「もしも、飛沫感染が確認されたら、の話だわ。ウィルスの性質上、考えにくい事態よ」
「厳密には、違います。消毒が行われるのは、感染拡大の収束が不可能、と判断された場合です。対象も防疫キャンプに限定されません。文面通りで言えば――感染源の全てを――です」
「ほかに添付資料があったのね?」
シモーヌ医師は、コーヒーをすすった。少しだけ落ち着いてきたようだった。
「具体的には、「防疫キャンプ」「難民キャンプ」「郊外の野犬コロニー」「その他、必要なすべての接触者」と表現されています。地理的な封じ込めを『軽機動戦闘車部隊』が行い、消毒は『トルコ、インジルリク空軍基地からの空爆』が行うとも」
「……そして、誰もいなくなった」
シモーヌ医師はかすかに笑った。
「それで、樹。あなたはわたしに何を期待しているの? マスコミへの漏洩? 本国でのロビー活動? 買い被りよ。わたしは、ただの、無力な、医療従事者なの」
「なにも期待はしていません。ただ知らせておく必要があると思っただけです」
シモーヌ医師は、時間をかけてコーヒーを味わった。飲み終えると、シモーヌ医師はもう立ち直ったようだった。
「――スタッフの数を最小限に減らします。現地スタッフは解雇。ボランティアはべつの現場に行ってもらうわ。でも、いいの? イツキ。レヴィーンも難民キャンプに帰すことになる」
「それで、彼女の安全が保障されるなら」
「……きっと憎まれるわよ」
「ここで働き続けたら、遅かれ早かれ、レヴィーンは死者の仲間入りです」
「……辛い決断をしたわね、イツキ」
シモーヌ医師は、樹の手を、母親のように、そっと握った。
「でも、あなたは、正しいことをしたわ」




