ルドヴィコ療法
吐き気がするほど穏やかな顔をしたその男は、「オリゾン」が用意したカウンセラーだ。コーディネーターとも呼ばれるし、インスティゲーターと呼ぶ時もある。どれもろくな意味じゃない。
ゆったりとした白衣をリクライニングチェアに横たえて、その男は、樹にもくつろぐように言った。
カウンセラーは、普段は心療内科の開業医かなにかで、診療所はテナントが並ぶビルディングの二階だった。ミルク色の大きな窓をとって、降り注ぐ光に満ち溢れた、立派な、脳みその病院だ。
「イツキ、わたしたちは心配している。きみはすごく傷つきやすい。わたしたちは君を苦しめているのではないかと、そう思うんだ」
その男の、青い髭の剃り跡が気になった。今朝剃って、もうこんな感じなのか? もっといい剃刀を使わないのか? ジレットの極薄五枚刃とか。ぼくが買ってあげようか?
「じつは、手助けをする方法がある。いくつかの薬と、ちょっとした暗示で、君を少しだけ楽にしてあげられるかもしれない」
「ぼくを楽に?」
樹は笑った。すごく滑稽だった。なんなんだこの道化は。ぼくを笑わせる為にやってきたのか?
「ぼくが苦しんでいるのは前提条件かい? たぶん調べて来たんだろうね。ぼくもどうすれば楽になるのかは知ってるよ、こうだ――」
樹は、腰のホルダーから拳銃を抜き、スライドを引いて初段を装填した。銃口を自分のこめかみに押し付ける。
この頃、愛用しているスイス製の銃だ。樹脂フレームに高力アルミのスライド、すごく軽くて時計みたいに高精度だった。
「簡単だろ。清潔で、誰にも迷惑がかからない。いや、待ってくれ、あんたの白衣を汚しちゃうな。クリーニング代は、これを使ってくれ」
樹はポケットからマネークリップを取り出し、コーディネーターの足元に投げた。
コーディネーターはうろたえて逃げ出そうとしていた。慌てたので自分のチェアで転び、床に顔をぶつけていた。
すごいな。爆笑の渦だ。プロの仕事ぶりだよ。ん、コメディアンだっけ?
「座れよ。冗談だ。本気で死ぬ気なら側頭部なんか狙わない」
樹は銃を下ろして、コーディネーターの足元に投げた。男は、へっぴり腰で飛びついて、銃を懐の中に隠した。
馬鹿だ、こいつ。そんなことしたって三秒で取り上げることが出来るのに。
安全を確保したいのなら、今すぐ、その銃でぼくの目と目の間を撃ち抜くべきだ。今なら抵抗する気はないから。
「で、あんたは、どんなふうにぼくを調整してくれるんだい? 脳梁切除? 薬物投与? それともルドヴィコ療法?」
「ルドヴィコ?」
コーディネーターは、怪訝そうに眉をひそめた。こいつはきっと思考が合理的過ぎて、古い難解な映画なんか見ないんだ。
「ルドヴィコ療法」とは「時計仕掛けのオレンジ」という古い映画に出てくる、「暴力に拒絶反応を示す」ようにさせる条件付けだ。
目を閉じさせないようにして、乾燥しないように目薬を差し、延々と残虐行為の映像を見せ続けるのだ。
「さあ、やってくれよ。それがあんたの仕事だろ? べつに構わない。感動も喜びも、絶望や悲しみと同じくらい、ぼくには必要ない。ぼくは、ゲームを楽しめれば、それでいいんだ」
「しっかりして、イツキ!」
樹は、清潔で暖かなベッドの上で、溺れそうになっていた。
小さな体にすがって、波が過ぎるのを待っていた。
レヴィーンに、なにもかも話したかったけれど、話すことができなかった。そのように訓練されたから。
「イツキ。大丈夫だよ。わたしがそばにいるから。なにも恐くない。平気だよ」
レヴィーンは赤ん坊を守るように、樹を抱きすくめていた。心臓の鼓動を聞いて、少しだけ安心した。
「いいんだよ。話したくなかったら……イツキが話したくなった時に、教えてくれればいいわ。わたしにだって、イツキに話せない昔話はあるもの」
「みっともないとこ、見せちゃったな」
「うれしいよイツキ。だって他の誰も。イツキのそんなところ、見たことないんでしょ? わたしだって、ちょっと信じられない」
そう言いながら、レヴィーンは樹の髪を撫でていた。
優しい手の感触に、樹は安心した。足元を洗うさざ波のように、眠りがやってくるのを感じた。
その夜、樹は、夢を見ないで眠ることが出来た。




