雲の上の国
月がとても大きく見えた。他に比べるものがないせいかもしれない。
岩だらけの丘陵が青い光を浴びていた。ずっと遠くにも同じような低い丘陵が連なっていて、さらに遠く、横長のなだらかな山脈には雪が積もっていた。この場所は広大な大地であることが分かる。
丘のふもとが木々に覆われているのが見えるけれど、緑はほんの僅かで、ここを支配しているのは、岩と枯れた色の灌木だ。
アリシアたち『ハルシオン』は、米軍と協力して、三時間ずつの八チームで警戒任務に当たっている。予備を含めると十二チームで、その内の四チームは米軍がシフトを負担してくれていた。
五機の【ピクシー】で周囲を監視するけれど、敷設したセンサ網が油断なく目を配っているので、実際に目撃するのはネズミやコウモリくらいだ。有事の為の待機、というのがもっとも現状に近い。
リスクが高い時間帯はトップチームが担当し、そうでもない時間帯は下位チームが参加するようになっていた。
とは言っても、『ハルシオン』の体制で、チームの人員すべてを常時そろえるのは、かなり難しい。
欠員は予備チームから、それでも足りない場合は、他のチームから人員を当てることになる。
今回、アリシアと唯斗が参加したのは、下位チームの警戒任務だ。
アリシアと唯斗は比較的時間に融通がきくので、他のチームにも快く協力するようにしている。
アリシアはパッドを操作して、【ピクシー】の状態を点検した。操作自体はゲームパッドで行うけれど、視覚も聴覚も直接脳の感覚野に投影されている。戦闘情報の一つとして嗅覚やレートを落とした加速度も再現されているし、車輪や装甲への圧力は皮膚感覚や骨格への負荷感覚として表現されていた。
だから、ピクシードライバー達は【ピクシー】への搭乗を、ピクシーを着る、と表現する。
操作をパッドで行うのは、確実性の為だ。なにしろ高性能な兵装を扱うので、誤動作は避けなければならない。普通のゲームと違って、いつでもやり直せるわけじゃない。
手がふさがっているので、パソコンで言えばマウスでするような操作は、眼筋への電位や眼球運動で行うようになっていた。そういう操作はたいていの場合、攻撃目標指示する場合なので、視線を使うのは、ある意味都合がいい。
伝説の妖精女王――断っておくが、この恥ずかしい二つ名はアリシアが自分で名乗っているわけではない――と任務を共にして、他のプレーヤーは緊張しているようだった。さっきから、なにか言いたげにするだけで、一言も喋らない。
あまり退屈なので、アリシアは、丘陵の反対側、千メートルほど離れた尾根にいる唯斗にプライベート回線を開いた。
笑われるかもしないけれど、声が聞きたかった。レヴィーンのことを考えて、切ない気分だったから。
「アリー? どうしたのさ」
「べつに……なによ、用がなかったら話しちゃいけないの。だいたいヌエは優しくないのよ。忘れているのかもしれないけれど、あたし女の子なのよ、ヌエ」
笑う声が聞こえた。笑い声は、日本に住む、普通のナイーブな少年の声だ。闘争とも流血とも縁がない少年の声。アリシアは少しだけ安心をした。
「アリーは優しいね。昨日もレヴィーンと話してた。元気になったみたいだった?」
「あの子はタフよ。あたし達よりもずっと。だから可哀想なの。想像だけど、あたしなんかには想像も出来ないような修羅場を経験してきたんだと思う。落ち込んだり、泣いたり、人に当たったりするのが、ほんとうなら普通でしょ」
「そうだね。それが普通だ。普通で生き残れるのなら、それが一番だけど」
「世界が、あの子に普通でいることを許さなかった、そう言いたいの?」
ちょっとだけ沈黙があって、それから唯斗は優しい声で言った。
「アリーは、どうしてあげたいのさ?」
「……日本のショッピングモールに連れて行ってあげたい。可愛い服を買ってあげたい。お腹一杯にしてあげたい。ラーメンとか、ハンバーガーとか」
「妹みたいだね。そうすればいいよ。ぼくも手伝う」
「だって――」
アリシアは、思わず声を大きくしてしまった。苛立っていたのは無力感のせいだ。世界は理不尽に出来ているけれど、アリシアに出来ることはあまりない。
結局、なにをしたって、世界を変えることなんか出来ないのだ。
「――レヴィーン自身が望んでいないのに、どうやって?」
ちょっと待って、あたし泣いてるの?
アリシアは濡れた頬に指を触れて、驚いていた。
「……悪かったわ、ヌエ。あんたに当たってもしょうがないのにね」
「いいよ、アリー。今度日本に来る時は、一緒に買い物に行こう。レヴィーンにプレゼントを買ってあげよう」
「いいわね……でも、大丈夫なの?」
唯斗は極度の人ごみ恐怖症だ。ショッピングモールなんて、閉所恐怖所の人にとっての洞窟みたいなものだと思う。
「努力するよ。ちょっとずつ訓練することにする」
「相変わらず、変なとこだけ前向きね」
月が雲にかげって、丘陵が少しだけ色を変えた。雲の間からの光は、奇妙な形の岩をスポットライトみたいに照らして、幻想的に浮き上がらせていた。この丘陵全部が、浮かんで、空を漂ってるみたいだった。
まるで争いなんてない、雲の上の国みたいに見えた。
「ね、ヌエ……ちょっとだけ泣いてもいい?」
「……手を握ろうか?」
「ばか、届くわけないじゃない」
身体は、お互いに地球の反対側にいるくらい離れているけれど、ヌエが――唯斗がそばにいてくれるのが、アリシアにはわかった。
 




