どうして、世界は、こんなにも残酷に
今日は学校の行事とか、いろいろあってあまり時間が取れないので、アリシアは、トルコ時間での早朝に奉仕活動を済ますことにした。
唯斗と一緒に過ごすことが出来なくなるけれど、まあ、仕方がない事というのはある。
自分の仕事が割り当てられていて、その作業を必要とする人がいる以上、いい加減なことをするつもりはなかった。
時間がないのなら時間を作ってでも、約束したことはやり遂げるつもりだった。
スタッフ棟のゴミを集めて通路を運んでいると、まだ誰も起きてくる時間ではないのに、私室の扉が開いた。
ぎょっとして少し下がると、出てきたのは、やや、髪が乱れた感じのレヴィーンだった。裸足で、手に室内履きを提げていた。足音を殺しているのだ。
「きゃっ……アリーなの?」
レヴィーンは、アリシアの操作する強化外骨格を見て、そう言った。それから顔を赤くした。
アリシアが扉のネームプレートを確認すると、部屋の主は"ITSUKI KUSAKABE"となっていた。
「えへへ……見られちゃった」
朝チュンだ……初めて見た。ジャパニーズ朝チュンだ。
「ふぅうん、うまくやったみたいね。よかったじゃない」
……なんか、うらやましい。
アリシアも『朝チュン』の経験はあるけれど、唯斗の場合、本当になにもしないので、なんだか屈辱的な『朝チュン』だった。眠れなかったので、太陽が黄色かったのを憶えている。
「アリーのおかげだよ。わたし、もうこの思い出だけで生きていけるかも」
煽ったのはアリシアなのだから今更ではあるのだけれど、レヴィーンの境遇を思うと、これでよかったのだろうか、という思いがしないでもなかった。今の言葉を聞くと、なおさら、その思いは強くなった。
レヴィーンは、IDも明らかになりかねる難民だった。シリア人からも、イスラム過激派からも、トルコ政府にも、同じクルドの人達からさえ疎んじられる少数民族の生まれで、病気の母親を抱えていた。
高い教育があるわけでもなく、特別な技能を身につけているわけでもなく、財産もなく……いつも笑顔だけれど、たぶん、つらい過去に苦しめられている。
でも、アリシアは基本的には楽観的なアメリカ人で、起こってしまったことよりは、これから出来ることを考える人間だった。
それでも、レヴィーンは幸せになるべきだ、とアリシアは思った。そして、それが叶うようにすることこそ、『ハルシオン』の使命だと。
「あんた、まだよく理解してないみたいだから、教えてあげる。あんたは母親の奴隷じゃないし、自分を犠牲にするのが偉いわけでもない。偉いのは、『誰かを幸せにした人』よ。あんたなんか、まだ、ほんの入り口だから。ちなみに自分で不幸を選ぶ奴は、あたしに言わせれば、ただの低能。諦める方が楽なのよ。せいぜい浸ってればいいわ」
「……アリー、怒ってるの?」
「怒ってないわよ! いい、あなたはアメリカの市民権だって手に入れられる。自分次第で、いつだってこんな場所出ていけるの。必要であればあたしが手助けできるし、イツキだっているわ」
「そうね……そうなのかも……考えたこともなかった」
「日本へだって行けるのよ? お風呂だって入れるわ。成人病まっしぐらのジャンクフードも、安っぽいファストファッションも、くだらないジャパニメーションも、そういった素敵な物は、レヴィーンが望みさえすれば、ぜんぶ、あなたの物なの。あたしの言ってることわかる?」
レヴィーンの目は、アリシアを通り過ぎて、どこか遠いところを見ていたので、アリシアは、もしかして話を聞いていなかったのか、とレヴィーンの顔の前で義手をひらひらと振った。
「レヴィーン?」
でも、我に返ったレヴィーンはとても悲し気な顔をしていて、ちゃんとアリシアの話を――もしかしたら、アリシア自身よりも――深く理解していることがわかった。
アリシアは『ハルシオン』の任務で何度もこんな光景を見た。もう解っている筈なのに、こんな時アリシアは、こう思わずにはいられない。
――どうして、世界は、こんなにも残酷にできているのだろう、と。




