SEXをしないだけの娼婦
アルファ病棟は、感染の疑いがある人物を、保護し観察するためにも使用される。隔離観察の病室は、病棟のもっとも東側の一棟が当てられていた。
アリシアが、ここに足を向けるのは五度目だった。レヴィーンが徹底洗浄を受け、隔離病棟に収容されてから、数えて十日目になる。
『ハタイ脳炎』の潜伏期間は、噛みつかれた部位によって異なる。ウィルスは神経組織をたどって脳を目指すため、脳に近い部分を噛まれるほど、発症までの期間は短くなる。もっと長い期間潜伏した事例もあるけれど、おおむね最長で二週間程度だ。
観察期間は、最長の場合を想定して設定されていた。感染して何日か後には、ウィルス遺伝子の検出や抗原の検出で、「感染した事」を判定することは出来た。だけど「感染していない事」を判定は出来ないので、念の為の観察、ということになる。
どちらにしてもレヴィーンに目立った外傷はないので、隔離観察は形式的なもので、感染の心配はなかった。
病状を観察する窓の前に立ち、自分の名前を告げると、濃い紫の窓が、透明になった。ポリカーボネートの分厚い窓を間に挟んで、なんだか犯罪者の面会みたいだ。
「アリー! 来てくれたの?」
「そりゃ、来るわよ。約束したもの。はい、例のやつ」
レヴィーンは元気に笑ったけど、泣いていたみたいだ。目が赤くて、瞼が腫れていた。
そう言えば、途中でイツキとすれ違った。
なんだあいつ、女の子を泣かして。ほんっとに鈍感で無神経な馬鹿だ。唯斗と一緒だ。
アリシアが紙袋から出したのは、日本の雑誌だった。ティーン向けのファッション誌とか。レヴィーンが日本のことを知りたいというので取り寄せた。
「すごい……貰ってもいいの?」
「もちろん。そのために買ったんだから」
レヴィーンの気が引けるといけないので、アリシアはなんでもないことのように言ったけれど、実は、この雑誌を持ち込むのには、大変な手間とお金がかかっていた。
概ねはアマゾンの配送システムを使用したのだけれど、難民キャンプ付近でどうしても先へ進めなくなり、やむを得ずキオミの手を借りた。
ちなみにこの雑誌は、『ハルシオン』の支援物資として小麦粉と一緒に持ち込まれた。公私混同と言われてしまいそうだけれど、重量は一キロ以下だ。支援ルートへの負荷は最小限だった。
難民キャンプから防疫キャンプまでは、札びらで顔を叩いてポーターを雇った。アリシアが言うと嫌みに聞こえるかも知れないが、現金の力は素晴らしい。
レヴィーンに渡せるように、アリシアは、食事を運ぶための小さなエアロックに雑誌を入れた。けれど、レヴィーンは受け取りのボタンに手をかざすのを躊躇っていた。
「どうしたの? 手に取って見てみたら?」
「でも、中に持ち込んだら、もう二度と出せないし……」
確かに、病室は持ち込んだ荷物は、たとえ感染していなかった場合でも、すべて焼却する決まりになっている。衣服だろうと食器だろうと例外はない。
「ばかね。こんな物、また何回だって、取り寄せてあげるわ。退屈なんでしょ?」
レヴィーンは決心して、雑誌を手に取った。
何枚か繰って、目を丸くしていた。確かに、レヴィーンが住む世界とはずいぶんと違う。ここにはショッピングモールも、カフェも、ファストフードのレストランもない。
「うわぁああ、すごい」
レヴィーンが驚いているのは、雑誌に載っている、話題のスポットを紹介する記事だ。スイーツとか、ポップなアクセサリとか、アリシアも気になるような女の子らしい記事だった。
「アリーは日本にも行くんでしょ。こういうお店、行ったことってあるの?」
「ま、まあね。でも、ちょっと飽きちゃったかな。最近の流行は、もうよくわからないわ」
考えてみればアリシアは、そういった店に一度も行ったことがない。
というより、最寄りの空港と唯斗の部屋、日本ではそれ以外の場所を知らない。学校に行くとき以外、唯斗は相変わらず自分の部屋から出られない。目立ちすぎるので一人では行きたくないし、行ってもつまらない。
だいたい声をかけられたら、いつでもほいほいと部屋まで行って、ヌエのしたいことだけを一緒にして帰るなんて、なんだか、あたし……SEXをしないだけの娼婦みたいじゃない。
アリシアは今更ながら、自分の置かれた境遇にがくぜんとした。
「日本って素敵なところね。みんなにこんな綺麗な服を着ていて、だれもお腹を空かせた人がいなくて、どこでも水を飲むことができるなんて……お風呂とか、夢みたい」
「べつに天国じゃないわ。お腹一杯で、喉が渇いてなくて、毎晩安全なベッドで眠っていても、やっぱり苦しんでいる人はいるのよ」
「アリー……それって、よくわからないわ」
「そりゃそうね。でもお風呂は天国よ」あたしも、銭湯行ってみたい。
「たぶん、地上で天国にいちばん近いと思う」
「一緒に、お風呂に入れたらいいな……」
「あたしは、イツキとかと一緒には入らないわよ」
レヴィーンは、耳を赤くした。
「な、なにを言うのよアリー。イツキの話なんかしてないでしょ」
「なんで、ああいう変わった奴を好きになったの?」
ま、あたしも人のこと言えないけど。




