人の気持ちなんか
樹が初めて防疫キャンプにやってきた時、スタッフはみな忙しくて、誰も出迎えてはくれなかった。
コディはキャンプの外に置いてきた。UNカラーの白に塗装してあるので、誰かが怯えて騒ぎになることもないだろう。コディは寂しがるだろうけど、そこはロボットなので、必要であれば、一週間でも十日でも、動かず待機することは可能だった。
エアロックの外で出迎えてくれたのは、クルド人の少女だった。防護服のシールド越しに見える顔は、まだ幼さが残りあどけないような感じだったけれど、しっかりとした眉は、表情に気丈な印象を与えていた。
――子供っぽい顔だから、よく患者と間違われるけれど、これでも、ちゃんとお給料をもらってるスタッフなのよ。
と、その少女は笑った。
エアロックの使い方や部屋の場所、食事や休憩に使うミーティングルームなど、防疫キャンプについて一通りの説明をした少女は、振り返って、手を後ろでつなぎ、樹の目をのぞき込んだ。
樹も、その少女も、スタッフ棟の中では、同じ青い不織布の室内着だった。その服は薄手で、面積も必要な最小限しかなくて、透けて見える体の輪郭や、短い袖から突き出した細い腕に、樹はどぎまぎした。
――思ったより若いんだね。製薬会社の偉い人って言ってたから、もっとおじさんなのかと思ってた。病気を退治してくれるんでしょ?
違うよ。それは思い違いだ。ぼくはそんなんじゃない。
樹の思いなど知らずに、少女は樹の手を取った。
――食事の時間は説明したわね。料理はわたしたちの仕事なの。たくさん食べてね。男の人なのに、そんなやせっぽちで、みっともないわ。わたしの名前はレヴィーン。さあ、あなたの名前を教えて。
今にして思えば、その時にはもう、樹はレヴィーンに目を奪われていたのかもしれない。
物思いから覚めて、樹はレヴィーンがいる筈の、隔離病室の窓に目をやった。この向こう側でレヴィーンは一人きりでいるのだ。
窓が突然、濃い紫でいることをやめて、やや黄色の残る透明なガラスに戻った。
きちんとシーツの畳まれたベッドがあって、一冊だけ本が置かれた机があった。部屋はとても狭くて、殺風景で、そこで暮らすレヴィーンを思うと、樹は胸が痛んだ。
目の前には、ポリカーボネートのガラスに両手を当てたレヴィーンが立っていて、樹と視線を合わせて、驚いていた。
もしかして、いつも樹がいなくなってから、こうして偏光を解除して、見送ってくれていたのだろうか?
レヴィーンは元気そうだったけれど、いつも聞く明るい声とは違って、浮かない表情だった。少しやつれた感じもする。また少しだけ、大人になってしまったような印象があった。
顔を見ただけで、甘いような気持ちが胸を満たした。なんだこれは、まるで片思いの中学生みたいじゃないか。
「レヴィーン――」
歩き寄ろうとする樹を目にして、レヴィーンは怯えたように窓を閉ざした。
言葉を交わすことも出来なかった。
窓は濃い紫色の、平らな板に戻って、樹は一人で通路に取り残された。
――お前には、これがお似合いじゃないか? お前には人の気持ちなんか分からないんだから。
頭の中で声が聞こえた。
ぼくだって、人の気持ちは理解できるよ。
――そうだ、お前は人の感情を、その作用を理解している。だがお前は本当の意味で、感情を知ってはいない。それはもともとお前の中に無い物だからだ。知識として知っているだけだ。おまえは彼女にはふさわしくないんだよ。
その声の言う通りだった。それでいいのかも知れない。むしろ、その方がいいのかも知れない。
樹は、窓に背中を向けて、歩き出した。スタッフ棟に戻れば、いくつかの書類仕事が残っていた。




