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絶滅しかけた生き物

 いくつかの民間軍人訓練施設(タクティカルスクール)をめぐる樹の身分は、研修でやってきた日本の警察官という物だった。オリゾンの用意したIDは完璧で、スクールがどのような確認を取っても、決して怪しまれることはなかった。

 日本の官公庁が嘘に協力するとは思えないので、樹は、このIDの本当の持ち主は、すでに死んでいるのではないかと疑った。


 銃器メーカーが主催する物もあれば、テレビに出るような有名人のスクールもあった。

 法執行関係者のスクールは密度が濃くて、希望すればカリキュラムは爆発物の取り扱いまでも含んでいた。

 

 途中、不幸な事故が起こったくらいで、スクールの参加者が二人減り、警察による少々の取り調べは有ったけれど、スクール自体は滞りなく終了した。

 たんたんと訓練をこなす樹は、普通の目立たない成績で、スクールを卒業した。


 目的は良い成績を治めることではなく、現実的な技術を手に入れることだった。あまり目立たないように、とオーダーもされていた。


 戦闘技術以外の部分は、胡散臭い特殊部隊上がりのインストラクターに頼った。ほとんどは偽物だけど、中には本物もいて、彼らは快く「工作技術」や「防諜技術」を教えてくれた。専門家である彼らは、技術を継承してくれる誰かを潜在的に必要としていたのだろう。

 素材としての樹は、彼らを喜ばせた。少なくとも、がっかりさせはしなかった。


 訓練を終えた樹を待っていたのは、いつかの名前も知らない面接官で、面接の場所は、ボストンにある赤いレンガのカフェだった。絵本が置いてある物静かなカフェで、知的な年輩の客が多かった。オイル仕上げの古びた床が、長い歴史を感じさせる店だった。


 赤毛の面接官は、いつかの裸身が想像もつかないような、真面目そのもののグレイスーツを身につけていて、樹と同じような黒縁の眼鏡をかけていた。

 面接官は、手に子供向けの絵本を持っていて、これも擬態なのだろうか? それともただのきまぐれなんだろうか? と樹を悩ませた。


「久しぶりですね、日下部樹。今は河本明ですか?」


 面接官の擬態は完璧で、いつかの自信にあふれた大人の女は完全になりを潜めて、今は、自分に自信のない、地味なしょぼくれた女そのものだった。どちらが本当の姿なのか樹には分らなかった。どちらも本当の姿ではないのかも知れない。そもそも、本当の姿なんてどこにも存在しないのかもしれないし。

 彼女からは、少々の親しみのような物を感じた。それで思った。樹は、彼女の生徒なのだと。


「久しぶりですね。名前は知らないけど。なんとお呼びすれば?」

「採用官、でいいですよ。お互いのことは知らない方がいいんです。いつか私たちのどちらかが拷問を受けるかもしれません。あなたの自由ですが、今からは、あなたも偽名を使った方がいいですね。どこかで、私があなたのIDを白状してしまうかも知れませんから」


 今にして思うけれど、結局、樹は彼女の勧めを採用しなかった。この名前が樹のゲームIDだ。もし名前が原因でゲームオーバーなら、それが樹のプレイ履歴だ。

 べつに、それで構わない。


「あなたの訓練は終わりです。私達はあなたに何も要求しません。このまま姿を消して構わないし、そうしたければ、この足で警察へ知らせてくれても構いません。オリゾンは、わたしの存在など知りませんから」


「……まさか。そんなのぼくにとっても割が合いませんよ。だって、『獲物』をくれるんでしょう?」


 ぼくの声は、今、獰猛じゃなかったろうか? ちゃんと教育を受けた文明人のようだったろうか? ぼくは野蛮じゃなかった? そんなことが気になった。


 返事をせずに、採用官がテーブルに取り出したのは、一枚のクレジットカードだった。


「これが、あなたに支給する装備です」

「……これだけ?」

「そう、そのカードは違法な物ではありませんが、事実上、金額的な上限はありません。それをどのような形で使うのかは、あなたの自由です。想像力次第で、そのカードはどのような武器にもなり得ます。携帯武器にも、パスポートにも、協力者にも、もちろん使い方を誤れば墓石にだって」


 もしかして、このカードを持っているのは、旅団規模の軍隊をポケットに入れているのと同じことになるんじゃないだろうか? そう樹は考えた。なんだかおかしかった。


「そのカードとオリゾンの関係を立証しようとするのは無駄な努力です。原理的に追跡不可能な方法で、資金は投入されています。その力をあなたに与える見返りとして、我々はあなたにささやかなお願いをします。時間がかかるお願いもあれば、時には達成がほとんど不可能なお願いもあるかもしれません。でも日下部樹――」


 採用官は、腕を伸ばし、悪戯っ子に諭すように、指で唇に触れた。


「あなたに必要なのは、カードではなくて、この『お願い』のほうでしょ」


 痺れるような感覚があった。この女性は樹と同じ種類の人間だった。なにも望みがなく、なにも欲しがらず、なにも愛さずに、憎まず、それ故に、底の知れない退屈に追われ続けているのだ。


 夢見るような気分のまま、樹はずっと尋ねてみたかった質問をした。


「あんなテストで、いったいなにがわかるんです? ぼくよりIQの高い人間は、うんざりするほどたくさんいるでしょう? ぼくの、いったい、何が採用されたんですか?」

 

 自信のない様子は、この女性の仮面のようだった。採用官は、別人のような艶やかな笑みを見せた。

 妖女とか淫婦とかいう表現は、たぶん、こういう笑みのことを言うのだろう。


「知性の問題だけじゃないの、誰もあなたのように考えることはできないのよ。日下部樹。人の思考には、常に倫理とか、感情とかいったノイズがつきまとう。ありのままに世界を見られる人間は、異常なの。私が適性と表現したのは方便よ。本当は「適性がない」の。あなたは恐いくらいに異常で、不適格なの。人の作った社会にとってはね」

「……ちょっと、傷つくな……ぼくは自分を異常者だと思ったことはないんだ」


 採用官は、テーブルの下でヒールを脱ぎ、足先で樹の太腿に触れていた。まるで媚薬のように、彼女の爪先は、樹の皮膚を、裏側から引っかいた。


「胸を張りなさい。あなたは私の『お気に入り』よ。よければ、ご褒美を受け取って貰えるかしら? この街を出たら、もう二度と会うことはないの。私はそれが寂しいわ」


 この女性も、樹と同じように孤独なのだろうか? 絶滅しかけた生き物のように、同じ仲間に出合える機会は、めったにない貴重な出来事なのだろうか?

 樹は採用官の手を取った。

 テーブルに驚くような額のチップを置いて、彼女は、性急に樹の手を引いた。


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