色あせた遠い過去
隔離病室の未感染者は、二十四時間体制のテレビカメラで状態を確認されている。けれど、その映像を確認するのは担当の医師だけだ。
プライバシーを考えて、病室の窓ガラスは偏光して視界を遮るようになっていた。
普通の病室で言えばカーテンみたいな物だ。感染の疑いがある人でも、あるいは患者でも、着替えをしたり、人目を忘れてのびのびとしたい時はある。レヴィーンは年頃の女の子なんだからなおさらの事だ。
面会する人やスタッフは、音声で来訪を告げ、それから患者が判断して、窓ガラスの偏光を解除するようになっていた。もちろん面会を断ることも出来る。体調が悪かったり、不愉快な相手だったりしたら、べつに無理をして神経をすり減らす必要はない。
レヴィーンが隔離されている病室の窓は、液晶の偏光で、濃い紫色に光を閉ざしていた。
病室の前に立てば、センサが反応して、自動的に音声がつながる仕組みになっている。樹が視線を上げると、窓の上のランプは、通話状態であることを示していた。
一瞬、なにを言っていいのか分からなくて、逃げ出しそうになったけれど、このまま居なくなったら子供の悪戯のようなので、樹はなんとか踏みとどまって、ありきたりな言葉を口にした。
「レヴィーン……体はどう? どこも悪くない?」
返事が届くまで、ずいぶんかかった。戻ってきたのは、無理に作ったような明るい声だった。レヴィーンは偏光を解除してくれなかった。
「ぜんぜん元気よイツキ」
「よかった……」
「あの、ごめんね……わたし、寝起きでひどい顔してるから、ちょっと、今は見られたくないかな……ブラインドしたままで」
「うん、大丈夫だ」
レヴィーンを訪ねるのは、もう数え切れないくらいだけれど、いつもなにかの理由で、顔を見せてはもらえなかった。
避けられているのかな、とは思ったけれど、一日に数度、病室を訪れるのは、樹の日課になった。
そっけなかったけれど、レヴィーンも、べつに嫌がってはいない。たぶん、そうだと思う。そうだといいんだけれど。
「レヴィーンがいないから、みんな困ってるよ。特に食事とか」
笑う声が聞こえた。体が元気なのは本当らしい。
「イツキはカップメンだ。体壊しちゃうね」
「レヴィーン、あの……」
「もう行った方がいいよ、イツキ。イツキは忙しいんだから。あたしなんか、そんなに気にしなくても」
「……じゃあ、もう行くよ」
「もう、無理しないでね、イツキ」
いつも、話を終わりにするのはレヴィーンだった。
しつこくしたくはないので、イツキは窓ガラスの前から下がった。通話のランプが消えたので、レヴィーンはもう居なくなったと思っている。
でも、部屋の前からいなくなる事は出来なくて、イツキは壁にもたれて紫色の窓ガラスを見つめた。このガラスの向こう側にレヴィーンがいると思うと、どうしてかは分からないけれど、胸がつかえる感じがした。
いったい、なにをやっているんだ、ぼくは。
レヴィーンは、まだ少女と表現してもぜんぜんおかしくない年齢だったし、ここはレヴィーンの職場で、樹の職場でもある。
なにやってんだ、ぼくは。
そもそも樹は、自分のことを恋愛とか、仲間意識とか、そういう人間らしい感情とはまったく無縁の人間だと思っていた。このキャンプにやってきた理由だって……とても人に話せるような物ではなかった。
オリゾンは利潤の為には手段を択ばない、世間の言うとおりで、それは樹に言わせても、的外れとは思えない評価だった。
もちろん、レヴィーンに打ち明けられるはずなど、なかった。
いったいどこで間違えたのだろう、と日下部樹は思う。特別であろうとしたことなどなかった。ただ、気が狂ってしまいそうなほどの退屈から逃げ出したかっただけだ。
樹は、自分自身の目的を持たない人間だった。叶えたい夢もないし、譲れないような欲望も、理想も知らない。
今にして思えば、犬でも飼えばよかったのかもしれない。ペットはその日の命をつなぐ理由を与えてくれる。彼らはちゃんと毎日餌を与えてないと、生きていけない生き物だから。
実際に息をする理由を与えてくれたのは、ペットじゃなくてオリゾンだった。
オリゾンは、「理由」を与えてくれた。オリゾンが提示する「課題」は、樹にとってはゲームだった。自分にやれるかどうか、それを試すだけで、驚く速さで月日は過ぎて行った。
樹は、なにがいけなかったのだろう、と記憶の中を探った。最初の間違いは、たぶん大学四年生の秋だ。
まだ、それほど昔というわけではないのだけれど、その記憶は、もう色あせた遠い過去の出来事のようだった。




