安全保障上の情報漏洩
『ハタイ脳炎』についての解説を求められているのだと気がついて、ミラー中尉は慌ててタブレットを取り上げた。
確か部隊受け入れ時の安全教育資料があった筈だ。イライラと杖を叩くカーネルサンダースの前で、ミラー中尉はどうにか目的の資料を探し当てた。
資料は、ウィルスの姿を映す電子顕微鏡写真から始まった。
「ハタイ脳炎は、ラブドウイルス科リッサウィルス属のウィルスが引き起こす、狂犬病によく似た病気です。姿も似ていますが、症状もよく似ています――」
話しつつ中尉が顔色を見ていると、カーネルサンダースは片眉を上げ、先をうながした。
「どうした、続けたまえ」
「イエスサー。あー、えーっと、『ハタイ脳炎』は狂犬病と同じく、熱、食欲不振、倦怠感といった初期症状で始まります。やがて感染部位から神経線維をたどったウィルスは運動を司る中枢へ達し、嚥下困難、発声困難、筋痙縮などの神経症状が見られるようになります。」
タブレットの資料は、ベッドにベルトで縛り付けられた患者を映した。患者の皮膚は重度のやけどを負ったように爛れていた。
「その頃、耐え難い痒みが患者を襲います。気が狂ったように全身をかきむしった患者は、時にはその傷が原因の感染症で、命を落とします。たとえ拘束したとしても、錯乱状態となり、水や音に怯え、獰猛に、非常に攻撃的になります」
「狂犬病は、人から人へは感染しない伝染病の筈だが?」
「難民キャンプで『ハタイ脳炎』が大流行した要因は三つあります」
次に映し出されたのは、群れを成す野犬の姿と、ウイルスを包む鞘の様子、そして唇をめくれ上がらせ犬歯を剥いた患者の姿だ。
「要因の一つは、キャンプの付近の荒野で野生化した犬です。この犬たちは、キャンプに援助物資として持ち込まれた物です。可愛い子犬は、避難民の心を和ませましたが、そのうちのいくつかは荒野に捨てられ、野生化し、コロニーを作りました。今回の流行を媒介したのは、この野犬たちだとDNA鑑定で判明しています。ウィルスは、野犬の遺伝子の一部を引き継いでいます」
「なんと、皮肉なことだな」
現在、PKOの兵士は、小銃と火炎放射器で定期的に野犬狩りを行っている。地上に棲み処を見つけた生き物を根絶するのは簡単なことではない。いまだに野犬のすべてを駆逐することは出来ないでいる。
「流行のもう一つの要因は、ウィルスの乾燥耐性です。通常、リッサウイルスの鞘は機械的強度が低く、石鹸基やアルコール、もしくは熱や乾燥などで簡単に不活性化されます。ですが『ハタイ脳炎』は――おそらく砂漠に適応したなんらかの生物の細胞膜形質を獲得したのだと思われますが――乾燥に対して強く、生物の体内から出ても比較的長い間、活性を維持します」
「それが、なにを意味するのかね?」
「体液や死体、手で触れた器具、衣服、これまで気に留める必要がなかった物に対しても、注意を払う必要があるということです。傷や粘膜を通してでなければ人体に侵入することができないウィルスですが、活性が長く続けば、ウィルスにとってのチャンスは増えます。最後ですが、流行の決定打になったのは、その特殊な症状です」
「資料は見たが、噛みつくのかね? 人が、犬のように?」
「そうです。このウィルスは人を凶暴にし、その効果は患者が他の誰かに噛みつく、という奇妙な行動を引き起こしました。たいていは家族など、患者に近縁の者が犠牲に成りました」
次の画像は、患者の噛まれた傷跡、血に汚れた口。滴る唾液。兵士の警戒心を誘うため、恐怖心を煽るように作ったスライドだ。その目的は十分果たしているとミラー中尉は思った。
新種であることとその奇妙な病理から、ハタイウイルスは誰かが開発した生物兵器ではないか、などという噂も流れたが、ミラー中尉の見解で言うと、その線は限りなく薄い。無力な難民を駆逐するために生物兵器を開発するなんて、コストが見合わない。
これは、ただの、残酷な、いつもの、神様の悪戯だ。
「最終的に、患者は昏睡状態となり、二日から七日くらいで呼吸停止と共に死亡します。致死率は99.9パーセント。2014年に西アフリカで流行したエボラ出血熱の致死率はおおむね55パーセントです」
「なるほど聞いていた通りの惨禍というわけだ。君はこの事態をどう思っている? 運の無い難民を襲った台風かね? それとも、これは人類が直面する危機なのかね」
『パンデミック』。疫病の世界的流行を意味する言葉だ。エボラ禍の真っ只中でも、この言葉はたびたび口にされた。
スペイン風邪では、人類の約半数が感染した。
感染メカニズムが違うのでそうはならないが、もしその百分の一の感染者でも、死者は三千六百万人を数えることになる。
「わたしは……可能性を頭に置くべきだと思っています。『ハタイ脳炎』の場合、接触感染では説明のつかない感染が数例、報告されています。ワクチンの効果が低いのも問題です。発症率が一割減ずる程度、気休めでしかありません」
「なるほど、君が事態を正確に理解しているのはよく分かった。では本題に入ろうか。わたしの身分については今から説明する。実は、これは君にアクセスする権限がない事柄なのだが、まあそれ、上の方で、現場指揮官である以上君にも説明をしておくべきだ、という声が上がってね」
カーネルサンダースは、小動物を憐れむような目で、ネイサンを見ていた。物凄く嫌な雰囲気だった。
「それからの話だが、君にはその話を聞く権利と聞かない権利の両方が与えられている。耳にしない、と決めたとしても、君にペナルティはない。特別報酬と共に本国へ帰れる。それも、今すぐにだ」
聞きたくありません。どうか、そういう話は、野心と欲望に溢れた戦争馬鹿にして下さい。わたしは研究者どころか、頭で汗をかくだけのただの労働者で、目先の給与以外に大事なものなんてなにもないんです。
どうか――
「もしも耳にすると決めた場合、君の身分はただちに『少佐』となる。実質的な権限は何もないが、君の事だから給与等級については熟知しているな? まあ、そういうことだ」
ああ、なんでそこなの? そうじゃなければ無関心でいられたのに……。
「ま、それはいいニュースの方だが、この場合、悪いニュースも知らせておかないとフェアとは言えないな」
「は、はあ……」
「今から君が聞く事柄を口外した場合、重大な安全保障上の情報漏洩を咎として、五十年の禁固刑が申し渡される場合がある。これは君が妥当な法的保護を受けられないという意味ではない。君には依然として裁判を受ける権利はある。ただし、その審理の内容は安全保障上の理由で非公開となる――」
ああ……神様……。




