一九六八年一月三十日2350
いつの間にか眠ってしまったらしい。
残照が消え、闇が俄か陣地を包み込むと、文庫本をしまったカメラマンは塹壕の荒い土壁に凭れて夜空を眺めた。
そこまでは覚えていたが、カメラマンがふと目を覚ますと、既に辺りはひっそりと静まり返っている。
カメラマンは自分も掘るのを手伝った塹壕の中、膝を抱えて地面に座り直し、再び夜空を見上げた。目が冴えるに従って、夜空は深い藍色から濃い青紫色へと変わって行く。すると空の瞬きは信じられないほどの数になって行った。この地へやって来て三ヶ月、もうすっかり馴染んだ光景のはずだった。しかし……
(最近は空なんか見上げた事はなかったな)
彼はぼんやりと星々を眼で追い、南十字を見つけ、続いて南天の星座を眼で追った。
星空は益々深みを増し、星は輝きを増して行く。やがて靄のような銀河を見つめる彼は何か違和感があることに気付くのだった。
最初はそれが何か気付けなかった。
騙し絵を眺めている時に感じる、あの何か大きな違いがあるのに気付かないもどかしさ。
すると突然、それが何か彼は気付いた。
(音が……ない)
熱帯の夜に付き物の背景音。虫の音や風に揺れる樹木の音。夜を徘徊する獣の足音や遠吠え。得体の知れぬ様々な音。それらの一切が消えていた。
(何だ、これは)
不気味に静まり返った焼畑の跡地。次第に効いて来た夜目に映る辺りの光景は、何の変哲もないジャングルの中にある空き地の風景。
(人の気配がない)
「イェーガー」たちが米軍の精鋭だということは分かる。しかし、直ぐ近くにいる二十数名の気配すら感じられぬほどだろうか?
彼は一瞬、置き去りにされたのではないか、とパニックに襲われ掛けた。自然立ち上がると壕の中を用心深く進む。確か数メートル先に数人待機していたはず……
「うっ!」
思わず声が漏れる。何かぐにゃりとしたものに右手が触れ、屈めていた身体を思わず伸ばした。
壕のでこぼこした土床に黒々とした塊が見えた。恐る恐る右足の先でそのものを突いてみる。それは爪先に柔らかい感触を残したまま、ごろりと半回転する。塊から何かが外れて……
思わず飛び退った彼は何かに蹴躓き、もんどり打って塹壕の土壁に強か頭をぶつけた。途端に視野が広がったように感じ、そこかしこの闇の中に黒い塊が見え出した。
人が、人と思えぬ形になっていた。
散乱した武器や資材。ひしゃげたシャベルは墓標のように地面に突き刺さっている。そこは凄惨な戦闘の跡としか思えない場所へと様変わりしている。
放心したせいだろうか。心臓は飛び出さんばかりに脈打っていたが、彼は冷静に辺りの光景を見つめていた。
そこに先任軍曹の変わり果てた姿が見える。その手前、先程つま先で突いたのは、彼の隣で寝息を立てていた兵士の頭だった。
「It's there.」
突然、闇の中で声がする。彼は凍りついたように動けない。呼吸も止まってしまったかのようだ。
「Can you understand? 」
場違いな声は若い女のようだ。彼は恐る恐る辺りを見渡したが、満天の星が瞬く空の下、荒地は静まり返ったまま生物の気配はない。
「Tee hee hee」
息詰まる数秒の後、女が忍び笑う。十数メートル向こうの荒地に、星空を背景にして声の主が立ち上がる。
「Who are you?」
ふざけたように問う声が彼に向けたものであることを理解し、カメラマンは塹壕の壁に背中を押し付け更に息を押し殺す。数秒後、突然彼は肩を叩かれ、正に飛び上がった。
彼の塹壕の縁から、夜空に影となった人物が覗き込んでいる。服装は場違いな白いワンピース。夜光にぼうっと浮かび上がっている。ベトコンのパジャマでも『北』の防暑服でもない街中の洋装がカメラマンの恐怖を煽る。その顔貌は黒々として良く分からない。
「Found. By this language about which I speak. Do you permit it?」
思考が殆ど停止してしまった彼は、辛うじて声が英語である事に気が付いた。