一九六八年一月三十日 ベトナム 旧正月
ベトナムの戦いは、従来のどんなタイプの戦争とも違っていた。
―― 不正規戦・古くはナポレオンの半島戦争、スペイン人によって行われた戦い、後に弱き者の戦いの規範となるゲリラ戦の登場から、各植民地での紛争、第二次大戦における中国やロシア、バルカンでの戦いを経て、このベトナムで完結した。この戦いは大国と戦う小国のマスターピースと呼ばれるであろう。
ある軍事評論家はそんなことを言ったが、事実はそんな単純明快な代物ではなかった。
一見、第二次大戦における中国やロシアの戦場に図式は似ていた。
面ではなく線や点をめぐる戦い、占領する面積ではなく、道路・鉄道の線、都市・駅などの点を確保する戦いだったからだ。
しかし、地勢が全く違った。
そこは遮蔽物の少ない、広大で見通しのよい大陸ではない。敵はおろか味方すら何処にいるのか分からなくなる、深い緑の地獄だった。
攻勢に出ている方が負け、後退する方が勝利する。そんなことが繰り返され、お互いに勝利は宣言するものの、何を以て勝利と呼ぶのすら分からなくなっていた。
八年前に、フランスがこの土地を放棄して以来、アメリカは資本主義陣営の南側への援助として数千人規模の『軍事顧問』団を送り込み、その仮面をかなぐり棄てた今では、三軍合わせて五十万人規模にまで膨れ上がっている。
ここには戦線と呼べる物はなく、農村部、都市部に関係なく浸透するベトコンと呼ばれるゲリラ兵、慣れた密林の中を驚異的な機動力で南下、有力な陣地や都市を奇襲しては撤退を繰り返す北の正規兵が、南側支配圏のあちらこちらで騒乱を起こしている。もはや南の国に状況を改善する力もなく、アメリカと各国の派遣軍は、瀕死の重傷者に打つカンフル剤と化していた。
いつこの泥沼から撤退するのか。今日ではこれ以上、面子を損なわない内に足抜けするタイミングを計る段階に来ていた。
しかし、末端で戦う兵士たちには、お上の思惑など薬にもならない。
変わらない毎日の遭遇戦に生き残れるか、また一日が確実に過ぎ、個人的な交替日がじわじわとやってくるのを、息を潜めて待つ。
兵士たちが持つ銃の台尻に刻んだ傷や、ボロボロの手帳に印されたバツ印。それが倒した敵のカウントアップではなく、祖国へ生還する日までのカウントダウンになった事からも、この戦争が戦う者にとって、不毛なものとなったのがよく分かって来ていた。
米海兵隊のフォースレコン(強襲偵察部隊)に属するチームチャーリー(C中隊)、コールサイン『イェーガー』にとって、その日の戦闘は何時もの迎撃戦になるはずだった。ところが、その日は最初から全てがうまく機能しなかった。
68年1月末、テト(旧暦の正月)、乾季の夜明け。
土埃が舞う荒れ地のコンバットベース(駐屯基地)から飛び立つ輸送ヘリ二機が立て続けに故障、中隊が半分しか機動出来なくなる。
本日も快晴。しかも昨夜半、南下するベトコンの補給段列と、それを追う様に南下する北軍の部隊四千人余りが高高度夜間偵察機とモーションセンサーによってキャッチされていた。
最近はこの手の情報には敵の欺瞞も多かった。駆け付けて見ればそこは、野糞を塗り付けた竹槍を底にびっしり立てた落し穴だらけの無人地帯だったりする。ベトコンお得意の、刺さった者に大怪我だけでなく破傷風などの感染症を与えるトラップだった。
しかしこの日は偵察機が珍しくも不注意なベトコンのタバコの火をキャッチしており、高感度のフィルムには、その火の周りに荷を担いだ男数名の影が写り込んでいた。
こんなチャンスは滅多にない。ヘリさえまともに飛びさえすれば、グリーンベレーを例外に米軍随一の精強さとの評価を得ているフォースレコンが、夜間に行動し昼間に休む敵の寝込みを襲う事が出来る。
しかし運のない事にイェーガーチームに割り当てられた八機のヘリの内、整備中や故障のため動けるものがたった二機、これでは二十名を運ぶのが精一杯だったのだ。
いくら精鋭とは言え相手は四千名を超えている。元々中隊全体で出動しても嫌がらせを行って敵の就寝を妨害、悩ませる事が主目的なのだ。
不運は重なる。この日、中隊長の大尉は不在だった。出張中で昨日からサイゴン入りしていたのだ。
偵察部隊から入った報告を受けたベースでは、大尉に宛てた連絡を直ちに入れたが、サイゴンの暗号通信所は混んでおり、大尉への連絡も受付はされたが本人に手渡されたのか不明で、無論連絡も来なかった。
次席は三十代の中尉だったが、この男は最前線では勇気と胆力に優れた指揮官との評価はあるものの、深く思案するのを苦手としており即断即決がモットー、賽の目がうまく出ている限りは名指揮官だが外れたのなら、と疑問符が付くという男だった。
中尉はこの日も本領を発揮し、連絡を入れてから一時間待っても大尉から返事がないのを受け、待機するチームに進発を命じた。
実戦指揮を取るベトナムにやって来て一年が過ぎたベテランの少尉には、通常の小隊規模でなく半個小隊、約二個分隊での作戦である事を鑑み、敵との接触を極力避け、偵察と情報収集のみ実施するよう命じた。敵の処置は、最近、携帯型地対空ミサイルにより損害が増大しているため、確実な情報がなければ出動しない空軍に頼もうと考えていた。
この時点での中尉の判断は、ほぼ正しいと言えた。しかしここはベトナムだった。一見正しい常識的判断が、非常識な行動や思いも依らない突発事態にとって喰われる世界だったのだ。
敵は恐るべき情報収集力で海兵隊の行動を観察していた。彼らは飛んで火に入る夏の虫、を待っていた。後に歴史は、彼らが駐屯していたベースの一帯、海兵隊や空挺隊、グリーンベレー(特殊作戦部隊)などの先鋭が点在していたこの場所に近い町の名を人々の頭に刻む事になる。
町の名はダナンと言った。