一九六八年一月三十一日0200
彼は羽ばたき、ジャングルを越え高みに飛び出し、醒め醒めと、全てを深い藍の世界に変えている半月を見上げていた。
「男が見えるか」
十五号の声が耳元でする。しかし姿はなかった。彼はそれを不思議とは思わなかった。ただ肯定の印に頷いた。
男のいる場所はすぐに分かる。この荒涼とした光景の中、初めは漁り火のようにぼうっと浮かんで見えた。
そこは山岳部族の村はずれだった。
ベトナム人に虐げられた少数民族の村。
彼らは自らの意志で自由主義国家に協調し行動した。アメリカは決して強要した訳でなく、彼らは彼らの自由のために戦っていた。アメリカは武器と戦術を教え、部族を尊重したが本腰を入れてまで保護はしなかった。彼らと相互援助条約を結んだ訳でもないので、自ずと限度もあった。
「自由には義務とリスクも伴う」
それがアメリカの言う自由。その自由のために戦った部族はほとんど全滅に近い状態となっていた。
村はそんな見捨てられた部族の生き残りだった。彼らは一部のアメリカの友人以外、迷い込む兵士を全て敵と看做し、戦っている。ベトミンや北の兵士も、どうしても通行する必要がある時だけ、この山に近付いた。部族はジャングルの中、動物の様に暮し、テリトリーに入る者を手当たり次第に殺すと言われていた。音もなく忍び寄り、毒を塗った吹き矢や槍で襲う、と。
男の「意識」は高みにいる彼にとって暗闇に揺らめく蝋燭の炎だった。 彼は淡く光る男の方へ降りて行く。すると炎は、複雑に絡み合った巨大な樹木の間に蹲った人の形になった。彼はその人型の脇に降り立つと、足先をその肩の部分に乗せた。すると人型は輝きを増して、たちまちにして彼を呑み込んだのだ。
その男は退屈な夜の見張りを、油断すればあっと言う間に誘われる眠気と戦いながら、身動き一つせずに勤めていた。七日に一度巡ってくるこの役目は、一年ほど前まではとても大事な役で、疎かにする者たちに死を招いた。
このすぐ後背地にある集落から、歩いて半日の場所にある隣の集落など、たまたま不寝番の男が恋人と密会するため持ち場を離れたところ、集落は全身黒ずくめの集団に襲われた。後から異変に気付いた二人が、集落に恐る恐る近付いて見ると、三十人ほどいた人間は女、老人、子供を含め皆殺しにされ、集落は荒らされ、食料は盗まれ、見るも無残な有様だったという。
しかし最近では戦争の焦点はもっと南側に移って行き、この辺りは静かなもので、時折、北の部隊がかなり離れた場所を密かに移動して行くだけだった。
今年三十になる男は、自分の集落をそんな目に会わせはしないと固く誓っていた。男は集落の壮年層でも目端の利くことで信頼を得ている男だった。男はひとり深夜のジャングルの中、吹き矢の筒を握りしめている。
夜の風は気持ちが良く涼しい位だった。深夜になって昇った月の光が、彼の潜む草むらの前に複雑な模様を描いている。
すると、その模様がゆっくりと渦を巻き、男を中心に回り出す。しかし男は焦らなかった。自分が夢に入り込んだのが分かったからだ。
こんな半月夜は、ジャングルに棲む精霊たちが騒ぎ出す、と言う。夜は彼らのもので、自分たち人間は決して邪魔をしてはならない。止む無く、こうして静かに潜んでいても、精霊たちにとっては邪魔者なのだ。
これは悪意のある精霊が悪さを企んでいるのだろう。男は吹き矢を吹き筒から取り出すと、それで自分の左腕を軽く突く。今夜は毒を塗っていない。チクリとした痛みで、はっと目が覚める。月の模様は動きを止め、いつもの静かなジャングルに戻っていた。男は大きく溜息を付き、木の根に寄り掛かって、不寝番を続けた。そのつもりだった。
「さあ、いいぞ。行くんだ」
十五号の声がする。
「この男はよく眠っている。男の体を借りて歩くんだ。行く先は男が知っている」
彼は頷くと「歩け」と念じた。すると男の目が彼の目となり、真っ暗なジャングルが直ぐに青白い世界に変わり、彼の足では決して歩けないであろうスピードで鬱蒼としたジャングルに踏み行った。
長い夜が明け、赤い半月が西のジャングルに沈み、赤みを急速に失いつつ朝日が昇る。この時期のジャングルの夜明けは一際美しく感じられる。 気温が寒さを感じるほどに下がり、空気が程よい湿度と爽やかな海風のお陰で澄んでいるせいで、晴れ渡った空は高く、日の出は風景を薄いピンク色に染め上げる。彼は立ち止まり辺りを見晴るかした。そうしたと思っていた。