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トカゲのしっぽ  作者: 蓮華
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「とかげのしっぽ 後編」

S「先生、お久しぶりですね。遠慮はるばるご苦労様です」

 らっぱ飲み「おおっ。元気にしてたか、ギリギリ」

 侍「某、ものすごおく、心配していたでござる。再会できて、あな、うれし」

 ギリギリ「すいません。外の世界が色々込み合っていて、ここに来るのが、随分久しぶりになってしまいました、ちゃは」

 キリンさん「アッキーがいなくなっちゃったの、気づいていますか?」

 らっぱ飲み「そんないきなり爆弾発言して……」

 ギリギリ「うん、なんとなく、そうかなって。いなくなったね、アッキー」

 侍「見ていたのでござるね。某たちの親睦会を」

 らっぱ飲み「そーなんか?ギリギリ」

 ギリギリ「はい。参加はしてなかったけど、見てましたね。暴落してからぐらいかな、アッキーが姿を消したのは」

 キリンさん「うん、その辺で、音沙汰なくなっちゃったです。メールだって送ってるのに返ってこないんです、しゅん」

 らっぱ飲み「外でも交信してるのは知らなかったな、どんなやつ?アッキーって」

 キリンさん「会ったことないんです、実のところは。いつかいつかで、会うの、どんどん先送りになっちゃってて、そのままです」

 侍「大損でもしたのでござるかな、アッキー殿」

 らっぱ飲み「それもありえるが、どうだろうな。乱高が激しいときは稼ぎ時だと、やつは分かっているから、その可能性は低そうだ。ひょっとしたら……」

 S「離れたのかもな、株から」

 らっぱ飲み「可能性大」

 侍「……某はアッキー殿の手ほどきのおかげで、急落を乗り切れたでござるよ、お礼がいいたかった」

 S「単に俺らと一緒に語り合うのに飽きちゃったのかもしれないぜ」

 キリンさん「それもありますが、ここに来ることを、アッキーさんは楽しみにしていましたよ。息抜きになるっていって」

 らっぱ飲み「――会わないか?一度さ、俺たち」

 侍「いいでござるな。賛成に一票」

 ギリギリ「いいですね。会って、話しましょう、いろんなこと。株について、話せる人ってなかなかいないから」

 S「先生が行くなら俺も行きます」

 らっぱ飲み「いつにする?」

 キリンさん「土日ならいつでもいいでしょ、わたしたちは」

 S「ゲハハッ、キリンがなんだかやる気だよ」

 ギリギリ「ようやく会えるね」


 弘の会社の社長が入院したのは、七月を越えてすぐのことだった。

 それは暑いさかりに差し掛かったころで、薬の臭いがこびりついた病室に入るのを嫌がり、入院を延ばしていたら、突然倒れ、担ぎ込まれたという。

 辛うじてすぐ、意識は戻ったものの、思うように手足は動かず、痺れを回復させるにはリハビリが必要だというので、家で療養することになり、会社に戻るには時間が要るそうである。

 「入院見舞いのお返しやって、社長の奥さんからや、皆で食ってくれやと」

 同僚の山口さんが、袋を持って来て、いう。

 社長の入院が長引くかもしれないと聞いたとき、弘たちは金を出し合い、治療費の足しになればと、ささやかな見舞いを山口さんに託し、届けた。袋の中身はそのときの礼が詰まっているそうである。

 山口さんは面倒くさそうに、軽そうな金色の紙袋をデスクにとんと乗せて、

 「アイスやと、チョコのアイス。んなもん、男しかおらへん職場で、いらんがな」

眼鏡のずれを直しながら、文句を垂れる。

 「ワシ、糖尿患ろうてるさかいに、甘いもん控えなあかんねん」

 弘の隣のデスクの専務もこくこく肯く。

 「コレステロールも心配やしな」

 「せやせや。返すのも早いほうがええ、思てる。こういうもんは早すぎるんも、あかんやろ。もうちょい先のほうがええんや、病気の進行はどうなるかわからへんからな、友ちゃんはほんま世間知らずや」

 職場ではいい人の山口さんだが、身内には手厳しいタイプなようで、

「こんなんくれるんやったら、ビール券の一枚でもくれたらええのに。友ちゃんはその辺、分かっとらん」

 友ちゃんとは、社長の奥さんの名前である。

 ぶーたれている山口さんと社長の奥さんの友ちゃんは、いとこである。

 「ほんまに、友ちゃんはぼさっとしとるわ、何も分かっとらん。もっと他にくれるもん、あるやろ、仰山。金額はそんなに包んでへんさかいに、はなから期待なんかしとらへんけど、もっと、他に、あるやろ」

 「社長の看病で、そんなん探す余裕ないんとちゃうか?子どもはんらも独立して、二人きりなんやろ、今。社長の世話の負担全部奥さんが抱えなあかんやろし、疲れとるんとちゃうか?毎日、遠い病院まで付き添うてはるんやろ、ビョーキした社長はソラ大変やろけど、奥さんもしんどいやろ。ご苦労さんや」

 虐げられている友ちゃんを、専務はそれとなく、庇うと、

 「あかんって、あのコは。何の役にも立たへんいうて、社長嘆いてたで」

ばさばさと手を振り、山口さんは否定し、電卓の数字とにらめっこしている浩を見つけて、

 「斉藤ちゃん、甘いもん、イケル口やったかな?」

 「好きか、いわれたら、好きなほうでっせ」

 「ほんだら、持って帰りよ、バターみたいな箱二つごと。嫁さん、お菓子業者で働らいてはるんやろ、丁度ええやん。新ぴんのまんまで持って帰ったったら、喜んでもらえるかもしれへんし。ええか?あげても。専務」

 「ええで。そっちのほうがええやろ。いらんもんが無理やり、持って帰る必要ないわ」

 「ほな、あげる」

 「あ、おおきに」

と受け取り、由美に渡すと、

 「あたし、いらん」

とむくれ、突っ返してくる。

 「冷たいモンは身体に悪い」

 暑さで体調を崩したのか、と聞けば違うといい、歳のせいかなーとぼけると、

 「あほッ」

脛を蹴られたので、

 「くれはるんのん?」

理子に献上することになった。

 若木に宿る青葉はいよいよみずみずしくなり、真っ青な空は澄み、透き通る雲がたなびいて、梅雨の影が落ちていたせいで、濁っていた景色の色が、夏の金の光を浴びて鮮やかに甦っていくのは、気持ちがいい。

 理子といる時間は夏にこそふさわしい。

 なぜか。

 きらきらするからである。いろんなもんが。

「ぼくんとこで食べるより、おたくに食べられたほうが、アイス、喜ぶ思て」

 理子はちょっと目を細めてくれたが、気のせいか、元気が少ない。

 活動力がないのはいつものことだと思うが、今日はなんだか意気消沈という感じで、まなざしの中の灯はしょんぼりと、下を向いている。

 「上がっていきはる?」

 薄暗い廊下へ視線を送り、部屋の中へ来るように促がすので、

 「ほんだら、ちょっと」

と弘がゴムの突っ掛けをいそいそ脱ごうとしたとき、ふと、隣に並ぶ靴を見つける。

 一つはヒールのない茶色のサンダルで、もう一足は手入れの行き届いた、ぴかぴかと光る男物の革靴である。

 ぺたんこのサンダルは女物のようであるが、座布団のように平べったくサイズが大きいので、小柄な理子のものではないのは明らかである。

 「宗ちゃんが来てるんですよね、婚約者連れて」

背後で、理子が弘の疑問をただちに解決してくれた。

 「私だけだと、なんか、しんとしちゃって、気まずいんで、斉藤さん、なんとかしてくれませんか?」

 「またサイトーさんか」

 すると即座に、どかどかと足踏みを鳴らしながら、宗一郎が姿を見せに来た。屈んで、突っ掛けを揃えている弘のこんもりした背中に向かって、とげとげしいあいさつの言葉を刺してくる。

 「暑い最中、ごくろーさん。ん?またなんかくれはったん?どうも」

 対応はきんと冷ややかでありながら、底では、ぐつぐつと煮えたマグマが泡を吹くような、灼熱した感情が隠れているのが、感じられる。酒の匂いもする。

 「紹介するわ、結婚する人」

 宗一郎の後ろでは、少しばかり顔を赤くした女が静かにかしこまっている。

 「雪子いうねん、古風な名前やろ。覚えやすいしな」

 酒が入っているというのに、にこりともしないでいう、宗一郎の紹介はそっけない。

「あ、こりゃ、どうも、斉藤です」

 玄関口で、弘がぺこりと頭を下げると、女は恥ずかしそうに顔を染めて、背筋を曲げてお辞儀する。

 「初めまして」

 雪子はでかかった。

 大女である。

 弘の目の位置に、女の瞳があるというのは、珍しい。

 背が高いのを雪子は十分承知し、それを恥じているようで、猫背になり、ちょこちょこと歩いていく。

 歩幅も大きい、すぐに、冷えた居間へ辿り着くと、宗一郎がぼそりといい出した。

 「親に引き合わせられて、そっからの付き合いや。一年ぐらいになるかな」

 煙草を吸いたいらしく、白いワイシャツの胸ポケットを探り始めると、雪子がすかさず、ポシェットからライターを取り出し火の用意をしたが、

 「いらん」

宗一郎は雪子の、太い血管の浮いたごつい手を払いのけ、理子を見る。

 「ミイが好かんからな。煙草は」

 それでも雪子は嫌な顔一つしないで、丁重にライターをしまい込み、新参者の弘に茶を用意してくれる。

 「どうも、すんません」

 氷の浮いた緑茶は品のある静かな味で、美味かった。

 弘が一口すするごとに、雪子ははらはら見守るような視線をよこすので、

 「おいしいですわ」

と器をひょいと上げて会釈すると、

 「よかった」

といい、笑ってくれた。

 なかなかいい人なのかもしれないが、弘の隣にあぐらをかいている宗一郎が、なんでかしらんが臍を曲げていて、ぴりぴりした空気を作っているもんだから、雪子はどうしていいかわからなく、怯えている。

 とことん、宗一郎は仏頂面をしている。

 「いちいちびびらんでもええやろ。相手はサイトーさんやねんから、そんな、気をつかわんでええ」

 「でも、宗一郎さん……」

 「ええって。構うな」

お上品にしょげる雪子を見ていて、弘はしみじみ思った。

「もう何もせんでええ。じっとしといてくれ」

雪子は理子と正反対の女であるということを。

「お前には関係あらへん」

雪子を見ないで宗一郎は投げやりにいい、弘が来る前から、こんなふうにぞんざいに扱われ続けていたのか、こみ上げて来るものがあるらしく、雪子の桃色の薄い唇が震えだす。

 宗一郎は、理子と共通点の全くない女を、わざと選んでいる。そう、弘には思える。

 酒が入っているのか、宗一郎の目は赤い。

 「じっと、いてたら、それでええねん」

雪子にいっているのか、それとも弘の前で足を崩している理子に説いているのか、区別がつかない。

 「……お酒とか、おつまみ、足りなくなったみたいだから、ちょっと行って、買ってきます」

 たまらず雪子が立ち上がると、床が振動して、床に直接置いていた弘の茶が揺れる。

 二本の太い足で踏ん張る雪子は、ずんと高く、肌が煤けたように黒いので、塔がそびえ立つような迫力がある。

 その背の高さに、思わず弘は目を奪われて、走って行ってしまう雪子を止めることができなかった。

 「宗ちゃん」

 理子の粛然とした声が、飾りのない部屋を、切る。

 宗一郎は反応しなかった。赤くなった瞳をこすっているだけだった。

 「宗ちゃんは結婚しようと決心したん?決心してないん?」

 姿勢を正して理子は、小さな丸っこい爪が並ぶ両手を膝にそろえて、正座した。

 「結婚する決心がついてないんやったら、断り。雪子さんがかわいそう」

 「あいつがしたい、いいよったんや」

 向かい合う両者の間で、タダゴトではない縁の臭いが爆ぜている。

 「したいか、したくないかじゃないねんで。宗ちゃんには結婚する気があるのん?」

 慎ましいが、そぞろに威厳が感じられるいいかたである。

 宗一郎が何も応えないので、今度は理子が立ち上がる。

 「私も雪子さんと行ってくる」

 「ミイ」

 白葱のように細い理子の腕を、宗一郎がつかんだ。

 「行かんでええ」

 心からひたすらに望んでいる低い声であったが、理子が宗一郎の手の上に手を重ねて、

 「放して」

というと、つながりは消え、理子が解放されるとドアの閉める音がしたのは、雪子がそのとき出て行ったからである。

 ドアを挟んでいても、外の廊下をごつごつと踏み潰していく足音が部屋まで聞こえてきたが、やがて小さくなって消えていくと、理子も後へ続くように、部屋から出て行ってしまう。

 ついに弘は宗一郎と二人きりになってしまった。

 厳かなしじまに包まれながらも、取り残された(様々ないいかたがあるであろうが、これが適切であろう)宗一郎は、弘にだけは強気の姿勢を崩さないで、

 「飲めや」

と命令口調で酒を誘う。

 「飲まな、やってられへんねん」

 「追いかけんでええんか?」

 「ええわけないやろ。破談になるかもな」

 宗一郎は清濁している。

 「とにかく飲めや、サイトーさん。ミイは下戸やねん。飲んでくれへんねん、一緒に」

 冷蔵庫からビールの缶を出してきて、ぷしゅっと栓を開けてから弘に渡し、五、六本の缶を抱えて床に並べる。

 「来る前に買い込んできたんや。仰山あるで。遠慮すんな」

 えばり、がっとあおむいて一気に飲み干すと、宗一郎の顔色は真っ赤に変わった。

 弘が来たときから宗一郎は酒が入っていたから、今のビールと前の酒が、相乗効果を発揮しているのか、

 「苦い」

と残し、仰向きに寝転がり、沈没して動かなくなった。

 不測の事態である。

 弘はちびちび飲みながら、事態の収集がつかぬまま放り出していくのも人としてどうかなと思い、抜け出すか残るかをうだうだ悩んでいると、ドアの開く音が耳に入ってきた。

 理子か雪子のどちらかが帰って来たのであろうかと、安堵して、弘が迎えるために立ち上がると、

 「あの、センセは?」

部屋におずおずと入ってきたのは一人の少年であった。

 歳のころは定かでないが、高校生ぐらいの地味な少年で、陰気な印象を持つ子である。

 少年は、居間の真ん中で伸びている宗一郎にまず驚き、部屋に広がる酒の臭いを怖がり、横でぬそっと立つ弘が気味悪いらしく、硬直した。

「……何や?このガキんちょ」

 知らない声に反応するように、宗一郎がぬうっと起き上がるといよいよ、少年の顔のひきつりが、そのままで固まる。

 「あー、君は誰かな?」

 気をもみながら弘が聞くと、少年は顔をひきつらせたまま、大人二人を指さして、

 「おっちゃんらこそ、誰なんですか?」

足を伸ばした宗一郎と、隣に突っ立つ弘を交互に見比べ、きょろきょろと辺りを窺い、何かを探すようにしているので、視点は定まっていない。

 「センセはどこ行きはったん?」

 「センセ?」

 「みっちゃんセンセはどこなんですか?おっちゃん」

 応えた宗一郎は絶句する。

 弘が思うに、宗一郎はおっちゃん呼ばわりされたのは生まれて初めてのようで、ショックな模様である。

なるほど、弘からしてみれば、宗一郎は青年といっても過言ではないが、十五六の年頃の、この少年にしてみれば、そう見えてしまうのも無理はない、しかも宗一郎は酒に酔い、目がすわり、あちこちがぼさぼさになっているので、いつもよりうんと老けて映るから、納得はつく。

 「みっちゃんセンセって、井乃理子さんのこと?」

固まった宗一郎の代わりに、弘が代弁すると、少年は一瞬だけぱっと顔を輝かせて、こくりと肯く。

「ええ。僕のセンセです。どっか、お出かけ中?」

根暗以外のインパクトといえば、少年は墨のような黒い髪をしている。

 肩まで伸ばした髪の毛を後ろに、腕にはめていた髪ゴムで束ねながら、少年はしずしず床に腰を下ろす。

 「センセがお出かけなんて、珍しいですね。今日は土曜日だから、いつもやったら、ずっと寝てはんのにな」

 「お前いつも来てんのか?」

 宗一郎は訝しげに聞くと、

 「ええ、月に何べんか、来させてもらってます。もしかして、宗一郎さんですか?」

少年の切り返しは反射するようにすばやい。

 「センセから聞いてるんで」

 「どんなこというとってん」

 宗一郎が咎めると、少年は隠すことなく、

 「煩わしいと、いうてはりました」

 「…………」

少年は、机に並ぶ五台のモニターを見やり、深いため息をつき、細い身体をぎゅっと縮ませて屈み、囁くような小さな声を漏らす。

 「センセが株したはるのは――」

 「知ってる。やめさせたい、思てる」

 煙草に火をつけ、宗一郎が煙と一緒に乱暴に吐き捨てると、少年はブリキ人形のように首をきいっと動かして、

 「どこもそうなんですよね」

といい、寂しそうに窓の外へ視線を移していくさまは、まるで老人が子ども時代を懐かしむかのような、ふぜいが漂っている。少年は老けている。雰囲気が、古い仏像のようにくすんでいる。

 「お金が増えるたんびに、なんで辞めへんねん、とか、損する前にはよ辞めえ、いうたり、周りがやかましくなっていくのは、何故なんでしょうかね」

 「もしかして君も、株やってんのか?」

 どしんと座り、弘が聞くと、

 「ええ。まあ」

なんとも頼りない返事をして、少年は口を閉ざすが、

 「株いうたかて、君、若いやろ。いくつやねん」

つっこむと、

 「十七歳です。でも年齢なんか関係ありませんよ。ネット取引なんだし。証券会社の窓口を通して契約するような、リアル店舗を挟んでませんし。自宅で簡単に、誰でもできます」

 「いつにそんなんやってんねん?あれって昼間までやろ。学校は?」

 少年は灯の消えたモニターに再び目をやり、詰問する弘のほうを見ないで、弱々しく笑い、きれいな歯並びをちらりと見せる。

 「僕、学校行ってないんです。ほら、僕って、こんなんでしょ?いじめられて、小学校の途中から行かなくなりました。その頃ぐらいから、パソコンに夢中になって、遊び半分でじいちゃんが株教えてくれて、世間でネット取引が始まって、ずるずる、そのまま家にいます」

 「親何ていうたはるねん?」

 宗一郎は少年を快くは思っていないらしい、雑な対応である。煙草をくゆらせながら、凄みを利かせると、宗一郎は若いくせに貫禄がつく。

 だが少年は、宗一郎のそんな気配に怯えることなく、何の感懐も持たないで、いった。

 「資金が二億過ぎたころから、あんまり干渉してこなくなりました」

 弘はひっくり返った。

 宗一郎は咳き込んでいる。どうやら煙が変なところに入ったらしい。苦しそう。

 嘘を見ているようだと、驚愕する大人を尻目に、少年は机に並ぶモニターから目を逸らして、窓の外に広がる深い藍の空を見る。鳥が飛ぶのを追っているらしい、塩色にきらめく目玉がぎょろぎょろ動いている。

 「でも、婆ちゃんがふっとした拍子に、いうんですよね。株なんかやめろって。今はええかしらんけど、いつか大損したらどうするねん、いうて。そんときが、ちょっと……」

 眠るように笑い、

「でも離れられないんですよね。一日で一千万エン儲けようと思っても、なかなかそんな仕事、世の中にないでしょ?」

という少年に、さしてこだわりがあるとは思えない。そしてまた、ホラを吹いてるとも思えない、いたって少年は真面目なのである。

 「だったら家にこもって、株を続けていたほうがいいじゃないですか。どこの世界に小卒を快く引き受けてくれる会社があるっていうんです?未来もないのに、やめろなんて、そんな無責任なこと、簡単にいいはるんやから、大人は皆」

 少年の中に学生に戻るという選択肢はない。

 「二億あったら、それで十分ええやないか」

 宗一郎がいうと、少年は薄く笑い、

 「それ、一理あるんですけどね。駄目なんですよ。僕はできないんです」

 「できない?」

弘はビールをがぶりと飲む。飲まんとやってられない。

 細い顎をこくと落として少年はいう。

 「株するのをやめるとするでしょ、そしたらもう、儲からなくなるってことですよね。それは損することにつながるじゃないですか。嫌じゃないですか、むざむざ損するのは」

ゆらゆら首を動かして、また、ちょっと笑う。何だか自虐的である。

「もっと金欲しいいうことか?」 

 宗一郎の問いかけに、顎に指をあてながら少年は少し考えて、

 「呪われてるんですかね」

陰鬱極まった答えを導き出す。

「何かに取り憑かれたとでもいうのんか――」

 「まあ、そんないいかた、しなや。ええやんか、やめる理由が見つかるまでは続けとっても。やめる勇気持つんやったら、続ける根性に回しいや。せっかく儲かってるみたいやし」

 どんどん闇へ潜っていく少年を、怖がりながらも弘が食い止めると、宗一郎は不服そうに、

 「誘拐でもされるんとちゃうか」

と睨みつける。

 しかし少年はそんな嫌味に怖じ気付くことなく、宗一郎の眼をさらりとかわし、脇の弘にへろりと尋ねる。

 「ところであの、おたくは、誰なんですか?」

 少年にとって、宗一郎の怒りの込められた警告を浴びるよりも、酒の入った図体のでかいおっさんを目の当たりにするほうが、馴染みがないらしく、最初の恐々とした調子が復活している。

 「センセの友達か、ナニかですか?」

 弘が応える前に、

「嫁はんに頭上がらん、尻軽男じゃッ」

宗一郎が勝手に継ぐので、

 「結婚もようせえへんようなやつに、そんなん、いわれる筋合いないわッ」

弘もカッときた。

 びしっといい返すと、宗一郎は口惜しそうに、空になった缶を台所へぶつけて派手な音を出し、

 「お前こそ誰やねん。のこのこ他人様の家に上がりこんできて、ずうずうしいな」

音におののく少年に八つ当たりする。

 騒然たる空気の刃を向けられて、少年は一瞬つぶれそうになったが、

 「……センセの帰りを待とうと思って。それに好きなときに入ってきてええ、いうてくれたし」

と白刃をくぐり、宗一郎のとろんとした目を射る。

 「……センセとは、ネットの語り場で知り合ったんです。株してる人たちだけで、集いの場を設けて」

 「顔も知らへんようなやつらと、何話すことあんねん。薄気味悪い連中やッ」

 宗一郎にとって、少年はやりにくい相手であるらしい。

避けるように、ふいと視線を逸らして、短くなった煙草を空き缶に押し込み、新しい煙草に火を点し、吸い始めるのを、少年がじーっと見据えているので、

 「何やっちゅうねん?ガキ」

横顔のまま静止して、聞くと、

「自分と共通するもんがあるんで」

 少年は、宗一郎の首もとに沈んだ喉仏を押し潰すごとく、見つめながら、

 「身は違えども鱗は一緒っていうか。そういうふうにいわれるのは心外かなって」

一方的な偏見に抵抗もあるようで、

「それに、先日、親睦会もあったから、全然知らぬ仲とはちゃいますよ、性格とかはそれぞれ違いはあっても、株の苦労とかしんどさとかは同じで、共感できたし」

ぼそぼそとした反抗心を現す。

 「そのときセンセも来てはって、僕と気があって、それからここにちょくちょく来させてもらってます、たくさん教わってます、株のこととか、お互いのこと話し合ったり、シテ」

 少年の耳は漆色に色変わりしている。

 「センセは僕みたいなんにでも、めっちゃ優しく接してくれて――」

 「そんなんでどうすんねん、お前、これから」

 咥えた煙草を上下にひょこひょこ動かして、宗一郎が茶々を入れる。

 「わっかいのに、アホらしい。株なんて目に見えへんもんに一喜一憂してんと、シャキッとして、現実見んかい」

 「それはキミにいうたるわ」

 虐げられている少年を、弁護する気は別になかったが、弘も火がつく。

 「どないすんねん、ゆきこさん」

 宗一郎は煙突のようにもくもく煙を出していただけで、何もいい返してはこなかったが、ちょっとしてから、

 「気分じゃッ」

 「は?」

声を張り上げて、煙草を指ではさみ煙を吐いてから、真っ赤な顔をし、

 「気分にまかせて、ノリでいったるわッ」

吠えて、倒れた。


 どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

 私にはわかりません。

また、いくら考え込んでも原因が出てこない、わからないことのような気がします。

 それともわかる、わからんとかではない次元で起こる、いわば超越現象みたいなもんと真面目に向き合おうとするのは無益だ、という気がある私は、冷淡な人間なのでしょうか。

 宗ちゃんの温もりが私の皮膚を滑りおりていきます。

 「ミイの肌は冷たいな、いくらさすっても、温くならへん」

 生きる熱がないのかもしれない、などというと、

 「株なんかしとるさかい、そんなふうになるねん」

まなじりを決して、二の次には、

 「はよ、やめてまえ、もうええやろ」

これです。

 何が一番しんどいかといえば、株の心配をしているときと、家族からの株なんかやめてまえコールを聞くときが、たまらなく嫌です。

 株をし始めたのは大学生だった春でした。

 別にこれという理由はありません。

 まあ、いうなれば暇だったのです。

 始めたときの資金は全部、父のくれていた、お小遣い貯金から工面しました。

 父はとても地味な人で、機械関係の会社を立ち上げ、事業をおこし、堅実な商売をし続け、成功できた人ですから、金まわりがよく、

 「ミイ、小遣いやろ。お腹空かしてへんか?」

などといいながら、財布を取り出し、お金をくれていました。

 「ミイ、ちょっと、来い」

といい、手招きするときは必ず、子どもであった私の手のひらに、お札を握らしてくれていた。

 父は忙しいお人で、家を空けているときが多く、お手伝いさんやベビーシッターさんに私の世話を任せきりにしていたので、不憫な子だという考えが念頭にあり、せめてお金だけは不自由がないようにと、こんなことをしてくれていたのであります。

 私には母親はおりません。

 母は亡くなっています、私の生まれた同じ月に。

 「ミイ、ちょっと、来い」

 父が子どもである私を呼びます、またお小遣いかしらんと思い、とてとてと父の元へ歩んでいくと、

 「いきなりで悪いけどな、おとうさん、結婚する。ミイにおかあさんとお兄ちゃんがでける。これから一緒に住む人らや。こっちはおかあさんになる人」

とまず、傍にひかえていた気品漂う女の人を紹介してから、

「こっち、宗一郎くん。ミイのお兄ちゃんになる子」

男の子が、幼かった私の小さな手を握ってくれました。

 宗ちゃんと出会った日のことはあまり憶えていないのです。

 頭にある鮮明な記憶といえば、お義母さんのうれしそうな表情が目の前に広がるだけで、宗ちゃんの顔とか表情など一切、思い出せない。

 このときの私は幼すぎたというのもあり、状況を把握する知恵がなく、後に起こる出来事の色具合が濃すぎて、セピア色の過去は薄れていき、消えていったのかもしれません。

 「ミイは好きな人おるのんか?」

 父の会社を手伝い始めた宗ちゃんが、慣れないネクタイを緩めながら、大学生となった私の腕を、つかみます。

 「おらへんよ」

 洗面所でぼさっとして立つ私は応えます。

 「好きとか嫌いとかいうのん、ようわからへんねん」

 私はこの当時、恋愛とか恋人とかいう、この年頃の女の子の持つ最先端事情から、もっとも離れたところで生きる種族に属していましたから、ありのままの事実を宗ちゃんにいいました。

 「ミイ」

 宗ちゃんは部屋へ私を引き入れて、父がつけてくれたあだ名をいいます。

 宗ちゃんは義理の妹である私をとても可愛がってくれて、暇さえあればちょっかいをかけてくれたり、遊んでくれたりしていましたから、部屋に入るのにも今更ためらいはない、いうなれば日常茶飯事のことです。

 だから私は、腕をなかなか離してくれない宗ちゃんの只ならぬ気配すらおかしいと思わず、相変わらず、普段通り、ぼーっとしていました。

 服のボタンが一つ二つと外されていき、やっと異変を察知したものの、どうすることもできなくて、そのままじっとしていました。

 これが十年前のことになります。

 そこから宗ちゃんとは続いていました、変わることなく、愛してもらいました。

 私たちの関係にイチ早く気づいたのは父でした。

 脱衣所で、濡れた身体を拭き合っていた姿を、見られてしまったのです。

 とんちきな私と違い、悟りが早く俊敏な父は見たとたん、蒼白になって、

 「わわ、ごめんッ」

と形ばかりのお詫びをいって、戸を閉めました。

 背の高い宗ちゃんの影を浴びた丸裸の私の姿は、あまり見られていなかったと思うのですが、パンツ一丁の宗ちゃんとはしっかり目が合ったらしく、

 「見られてしもたな」

とまんざらでもない様子で、私の耳の穴へ湿った息を入れてきます。

 「でも、ええか、ばれても、別に問題はあらへんやろ」

 宗ちゃんが私を好いていたことを、父は早くから勘付いていたようで、宗ちゃんも父の感知を察知していたようで、もう隠すまでもないらしい。 

でも私はとても恥ずかしい、目まいがしてきます。

 親に、むつみを見られるなんて、考えたことがなかった。

 父はそのころから猛烈に、私を見るなり、慌てふためくようになりました。

 廊下でばったり会えば血相を変えて私を避けます。

 父はふくよかな笑顔を表情に収めた人ですが、私を見るなり、あたふたと落ち着かなくなり、

 「ほら、アレがドレするよって、ソレへとなるから……」

といい残し、顔を硬くして、会社へ逃げます。

 父がこんな調子だから、宗ちゃんの私に対する猛攻に歯止めをかけるものは家の中にはなくなり、時期が悪いことに、家長権までも宗ちゃんへ傾いていきつつあります。

 いつのまにやら宗ちゃんが家の中心となり、会社での父も、宗ちゃんの付属品となっていき(父はわざとそうなるようにしていたようですが)、お義母さんはいつもニコニコして、円満な家庭になっていることが心からうれしいらしく、隅で座る赤アザだらけの私に平気で声をかけてくれます。

 「理子ちゃん、宗ちゃんが帰ってきたから、ごはんにしましょ」

 このお義母さんは一見無害なようで、なかなかクセモノ、何はともかく、

 「宗ちゃん」

といい、信じきっていはるのです。

 おとうさんは二の次で、私のことなどはなから眼中にありません。

 宗ちゃんを信仰していはるので、宗ちゃんのことは昔からあまり見えてない。

 お義母さんのこの考え方は、我が家に参入してきたころから変わっていません、また改めようとも思っていない。

 偶然にも、宗ちゃんが私を部屋に連れ込んでいる最中、お義母さんが洗濯物を届けに、ドアをノックしてきました。

「宗ちゃん、コレ、干しといたから、クローゼットに入れときなさい、宗ちゃん?どうしたの?」

 「ちょっと、今、着替えてるねん、もう閉めるで」

宗ちゃんはドアを半分ほど開けて、顔だけを出して冷静な対処をしています、熟れたものです、お見事というほかはありません。

お義母さんは素直に、洗濯ものを宗ちゃんの手の平に乗せます。

「そうね、すごい汗ね。早く着替えたほうがいいわ、風邪を引くといけないから」

不振な汗をだらだらとかき、肌を火照らせ胸元をはだけた宗ちゃんに、疑いを挟むことはない。

「運動でもしてたの?」

「そや。夜はストレッチすることにしてん。会社でずっと座りっぱなしやし、運動不足解消せなあかんから」

と笑って返せば、ニコニコして、

 「あら、そうなの。ところで理子ちゃんの姿が見えへんのやけど。宗ちゃん、知らない?」

 まさかここにいるとはいえない。

 「知らへんで。部屋に引きこもって、株やってんのとちゃうか」

 焦ることもなく宗ちゃんはさらりとしらを切る。

 「おふくろの声が耳に入ってこえへんのとちゃうのんか」

 「そうかしらん」

 「閉めるで」

 宗ちゃんはドアを閉めると、壁にへばり付くようにして身を隠す私を見て、表情を緩めます。

 しかしその頃はもう、私の心には株しかなく、宗ちゃんの姿を透かして、次の日の市場風景の動きをイメージしていたりして、

 「ミイ、聞いてるか?」

 「え?」

 「今日義父さんら、旅行行くて、いうてるから、久しぶりに二人っきりになれるな、いうたんや」

上の空でおりますと、

 「ミイ、株のこと考えてるやろ」

宗ちゃんの話を聞いていないことが発覚し、

 「株なんか辞めたらどないや」

と株が悪くいわれます。

 そんなことをいわれても私は、宗ちゃんのご機嫌を損ねたことの反省よりも、明日はまた、損をするのかもしれないという苦しみを反芻しておりますので、心ここにあらずという調子であります。

 「聞いてないやろ、ミイ。俺のいうこと」

 宗ちゃんはすねてしまいますが、仕方のないことなのです。

 このときは、人の話なんか耳に入れている余裕がなかった。

 株の大暴落が始まった時期だったので、持っている株の値がこれ以上下がることはないだろうなと、戦々恐々として、次の日が怖くてロクに眠れない日が続いておりましたから、朦朧としているのは仕方のないことなのですが、鋭利な宗ちゃんはそんな私をスカタンに思うのですね。

「金のやり取りなんかやめてまえ。大学、単位ぎりぎりで卒業した思たら、就職もせんと、一日中部屋にこもって、何やっとんねん」

「だっておとうさんは家に居ってもええいうてくれた」

子どものような弁明しか私はできない。申し開きを発明するという手間のかかることに時間を潰すよりも、株のことで時間を削っていたい。

そのような私に、宗ちゃんはたいそう気に染まないらしく、父を捕まえ、いいつけます。

「義父さん、あいつ、なんかいつもボーっとして、目つき、おかしなっとるで。扱う金額も半端のないモンに膨れあがっとるやろ。事もあろうに、部屋に引きこもって株に夢中になっとる、あほみたいや。もうはよ、辞めさせるように、義父さんからも何かいうたってくれ」

宗ちゃんの期待に反して父は、私に面目がないので、私については何もいいません。だから株にのめり込んでいくことに対しても、

「まあ、ええがな」

の一言だけで済まそうとし、

「でもな――」

簡単には引き下がろうとしない宗ちゃんの肩をぽんぽんと打ち、

「まあ、ええがな」

ってなもんで、放置しておいてくれましたから、公式な自由を得た私はいよいよ、株に一途になっていく。

 しかしお金が増えていくごとに家族が喜んでくれるどころか、私がいつか大損したら、代わりに責任を取らなければならないのではないかなどと、むしろ怖がり、遠まわしに迷惑がっているのが、顕著に現れ出します。

 事あるときは冬でした。

 市場は大暴騰、とにかく金の動きが早いの何ので、どの銘柄を買っても儲かるという好景気に入り、株の動きに張り付いていたところ、

 「エエ加減にせえッ」

 宗ちゃんの堅いノックが部屋を打ちますが、私は非難にもう慣れっこだったので、気にも留めません。

 「理子ちゃん。毎日毎日お部屋にこもって、どうするの?お金の取引なんて根暗なこと辞めて、出てきてちょうだい」

今度は階段の下から、お義母さんのすすり泣きが渡ってきます。

「宗ちゃんもおとうさんも、心配してるんよ、理子ちゃん。大学ようやく卒業できたと思ったら、株、だなんて」

 お義母さんは私の部屋に入ろうとはしません、ドア越しにひたすら訴えてくるだけです。

「どこか、気分転換しに、旅行にでもいってらっしゃい。ご飯もあんまり食べてないやないの、顔色も悪いし。何でこんなことになっちゃったの?」

 それは私にも分からない。

 気づいたら、市場から抜け出せなくなっていた。

 入り口を知らないから出口も見つけられない。

 お義母さんは、夕食の時間以外、部屋からほとんど出てこなくなった私を、遠くのほうから見て泣いて、嘆くだけで、強硬突破をはかろうとはしませんでした。

 そしてついにその日はやってきた。

 「おい、ミイ」

宗ちゃんが部屋に乗り込んできたのです。

 「ミイ、飯も食べんと、何しとんねん」

 画面を見入る私は何も応えず、キーボードに買いの数字をひたすら打ち込んでいます。

 株取引は一秒足りとも無駄にできない。

 宗ちゃんのほうなど振り向いていられない。

 「ミイッ」

 宗ちゃんは激怒して、机に並べたモニターを次々と床に叩き付け、私を椅子から引き剥がしにかかりました。

 多少の抵抗はしましたが、体力も力もない私はいともあっさり敗れてしまい、床に投げ出されて、モニターの配線を引き千切られていくさまを呆然と、見せられていました。

 モニターは全部で五台ありましたが、すべての画面が黒一色に染められていきました。

 その日は六億円損をしました。

 いくら好景気とはいえ、波から落ちれば損します。

 資金振り分けも結構な額を投じていましたから、特別おかしいことではありません。

 株は生き物とはよくいったものです。

 ひとところにじっとなんてしていてくれない。

 自分の都合では動いてくれない。

 まるで女です。

 泣いた思たら喜んで、ニッコリ笑ろた思てると、突然ボンッと弾けて炎上し、周りに被害をもたらすところなんか、女の習性そのものです。

株は怖いものなのです。軽んじてはなりません。忘れてはいけません。

(あ、私も女だった。忘れてた)

 損した額を知ったのは、夜になってからのこと、茫然自失となった私を見かねた父が、会社に連れて行って(自宅の近所なのです)、情報を教えてくれました。

 市場の終値を見さえすれば、今日の資金はどうなったかなど、だいたいのことは推測がつきますので、私はしばしの間、何かに憑かれたように画面に取り付いておりました。

 「何やねん?」

 家に帰ると、宗ちゃんがご飯を食べていました。

 「六億円損したで」

 いってやっても、宗ちゃんは顔色も変えずに、箸をひょいひょい動かしています。

 「六億エンやで」

 「あと十五億あるやろ、それで、ええやないか」

 「六億えんの損はどないすんのん」

 宗ちゃんは、背もたれの後ろに立つ私をちらと見て、はらはら見守るお義母さんにおかわりの催促をするだけで、何も応えようとしません。

 私は宗ちゃんを殴りました。

 何度も何度も殴っていくうちに、爪の位置がずれ、指の骨が折れました。

 でも、爪が剥がれる痛みより、骨の折れる痺れより、六億円損したという重圧で、私の頭はいっぱいです、何も感じない、胸によぎるのは絶望の兆しだけです、原因を作った宗ちゃんに対する憎しみももうなかった、しかし手は止まらない、六億円の威力はものすごいですね、まさに人をも殺す勢いが憑く。

 「やめんかい」

 席についていた父が立ち上がり、私の赤い拳をつかみ取ります。

 「宗一郎くんもやりすぎやで。ミイのもんはミイだけのもんやと、割り切ったってくれへんやろか?」

 私に大人しく殴られ続けた宗ちゃんは椅子に座り直します。顔に数箇所、傷を負っていましたが、冷静です。唇は割れて血が出ていましたが、拭うこともしません。黙って座っているだけです。

 「放っておいたってくれへんやろか?もうしばらくは」

 父は宗ちゃんとの関係に気をつかっている反面、とても大切にしている。言葉のはしばしには労いの気持ちが込められてありました。

 宗ちゃんは何もいいません。

 お義母さんに手渡されたタオルで、滲む血を、拭っていました。

 すぐその場を離れ、部屋へ戻った私はそれから、後片付けをしておりました。

 腰を折り、破壊されたモニターを触っていると、息せき切った父が上がってきました。

 「知り合いの病院、電話したら、来てもええ、いうてくれはったから、行こ。その指、診てもらわなあかん」

 父は私の隣にしゃがみ、蛇の死体のようになった配線を、もじもじと弄りながらいいます。

 「機械もな、連絡してきた。線切られてしもたけど、明日になったらつながるようにて頼んだら、すぐ、できる、いうてくれてる。そんで、潰れた画面も新しいのんと取り替えてもらお」

 父が首を折り、視線を合わせようとしない私の目を、のぞいてきます。

 「今日は金曜やから、明日、株はないんやろ?来週のには間に合わせよ」

 様々な心配をさせているのですね、私は父に。

 でもそのときの私のいったこといえば、

 「六億円はどないしたらええのん?」

でした。

 死んだウサギのような乾いた目で、そんなことを訴える私は気チガイだったと思われますが、父は金額におじけづくことなく、娘の異常な目をきちんと受け取り、

 「ミイならいける、テ」

 何がやねん。

 かまわず父は、私の折れた手を指しながら、ズボンのポケットにある車のキイを取り出し、しゃらしゃらと鳴らして、膝を打ちます。

 「よっしゃ、病院行くで」

 しかし私は立ち上がるエネルギーがありません。ぺったんこになって、しばらくの間うつ伏せになっておりましたら、見慣れた形の手の平が、目の前に差し出され、私の手首を包みこんで立ち上がらせてくれたではありませんか。

 私の手首にあてがわれた手は、父のものではありません。父の手の肌の色はもっと白かったと記憶している。

 そう、手の持ち主は宗ちゃんです。いつのまにやら、数個の青あざを顔にこさえた宗ちゃんが私の部屋に入り込んでいたのです。

 宗ちゃんは、落ち込んだ私をちょっとだけ見て、何もいわずに、保冷剤をくるんだタオルを私の指先に巻きつけてから、静かに出て行きました。

 父が私のためにドアを開けてくれました。

 「ほれ、行こ、て。数字打たれへんなるで、そんな手やと」

 私は数字という単語にぴくりと反応し、よたよたした身を奮い起こし、月曜日になれば、土日を挟んでいたおかげで態勢を整えなおすことができ、無事に市場へ再び参戦することができました。

 指の骨が折れた次の日は、ずきずきとした痛みが襲ってきたけれども、二日もおけば痛みは薄まっていたので、キーボードを叩くのに、さしたる苦労はありませんでした。

 思い返せば、宗ちゃんの爆撃は突然発火ではなく、予め計画していたことなのかもしれませんね。

 あのときが一番狂っていましたから、私。

 目は虚ろで口は利かない。

 口から魂がはみ出てて、昇天寸前のゾンビみたいになってた。

 こんにちの姿も、いうほど変わり映えはしてないけれど、どちらかといえば改善したほうなんです、これでも。

 このときは食べ物を噛んでいても、石を舐るみたいな顔をしていました。

 今は味が分かります。おいしいか、まずいかぐらいの判断はつきます。

 あんな爆弾を投下したのは、見るに見かねたのかもしれません、宗ちゃんは。

 私が変なふうに転がり落ちていくさまを阻止しようとしてくれたのかも。

 「ミイ」

 指が回復するおりに、宗ちゃんは煙草の火を消して、私を呼び止めます。

 「話あんねん、来るか?いっぺん」

 私は宗ちゃんの部屋に入るのは久しぶりに感じます。

 骨が壊れて治るまでのあいだは、訪れていなかったもんで。

 私が爆発してから、宗ちゃんとは話をしていなかっ……違う。

誰とも口を利かなかった、言葉をつむごうともしなかった、徹底して、さげすむ態度で臨んでいた、うちにある全てのものに対して。

その間に、宗ちゃんは煙草の本数を増やしたようです。

煙の匂いは、宗ちゃんの着ているものだけでなく、その下に拡がる皮膚にもへばりついて、ときおり私の肌にふわっと降りてきます。

煙草の重たい臭いを吸うのは嫌いだけれど、宗ちゃん本体の香りを受けるのは、あらがうことのできない妖しさがあって、つい引き込まれてしまう。

 「株の調子はいかがなもんや?」

 宗ちゃんの息が、私の皮膚を渡って、底に沈む骨に吹き込まれていきます。

 「指、回復して、取引する速さが増したんとちゃうか」

 潤いを佩びた呼吸が私の心臓に届きます。

 「ミイ、何か、いえ」

 「話って何なん?」

 本当に私は、愛嬌というものから見放されている女です、こういうとき泣けてくる、もっと器用に生きたいものだと切に願います。

 宗ちゃんが、何故にこんな私を好んでくれていたのか、今以て原因不明です。

 ひょっとすると本人にも分からないのかもしれない。

 宗ちゃんは笑っています。

 きちんと整列した歯並びを見せて、私を吸い込んでいきます。

 「おもろいわ、ミイとおると」

 そうかしらん。

 「なあ、ミイ」

 はいな。

 「子ども、作ってくれへんか?俺とミイの子どもやったら、めっちゃ可愛い子ができると思うんやけど」

 私は硬直しました。

 けれど宗ちゃんは、私が動けないのを、出した案にまんざらでもない、と取ったのか、

 「どうや?」

と迫り、返答に窮する私に、答えをしつこく聞きたがりました。

 時計の針が次の日に移ると即座に、私は着の身着のままで家を飛び出しました。

 その夜は花冷えのする寒い日で、冷気漂う闇の中を真っ直ぐ突っ走って、私は家から離れました。

 逃亡したのは、そうしないとやっていけないと思ったからです。

 宗ちゃんが嫌いになったからとかではありません。

 私のサイレンが鳴り響くと、父が駆けつけてくれました。

 幸いにもお金はあるので、住居(現在のマンションのことです)はすぐに見つけたのですが、保証人とか権利のこととか、書類を通してもらうには、身元を保証してくれる誰かが必要になりますから、まさかお義母さんに頼めるわけはなく、私は父を呼んだのです。

 父は仕事中にもかかわらず、ネクタイを結んだ格好で来てくれました。

 「どっか外へ出てみるのもええかもしれへんな」

 そういい、サインしてくれたりする父は、コートも引っかけずにはせつけてくれたので、どことなく、寒そうです。

 それに少し、痩せたような気もします。私のいない一週間のあいだに、宗ちゃんとお義母さんの狭間に落ちて、何があり、何をいわれていたのでしょうか、私は知りません、そして父もいおうとしません、頬を赤めて、肩で息を切らしているばかりで。

 不動産屋さんがお茶を入れるために席を立つと、私は隣で書類に目を落としている父を、気にしました。

 父が心配だったのもあるけど、宗ちゃんから一体何を聞かされたのか、憂慮したのです。

 でも卑怯者の私の口から出たことといえば、

 「家も買うてん」

 「ん?」

父は目の色を変えて、耳を尖らします。私の声は小さいので、人は皆聞き返す。

 「何やて?」

 「家も買うてん、いうてん」

 父は驚愕して黙り込みましたが、

 「本気でいうてるんか」

奥にいる不動産屋さんに聞かせないほうがいいとおもんぱかって、声を潜め確認してくる。

 「マンションいうたやん」

 「それは私のん。家はおとうさんたちのん」

 「そんなことせんでええ、いうに。ある金は置いといたらええねん、無理やり、金使う必要ないやろ。先はどないに転ぶか分からんのやさかいに、大事に仕舞とけ」

 父はためらいましたが、私の知らなかった情報を教えてくれました。

 「宗一郎くんは、ミイの出て行ったあとすぐ、出て行きやった。今はホテルにいはる。アパート借りてな、そこから会社に通う、いうとる。だからあの家に住んどるんは、おとうさんとおかあさんだけや。もう色々気にする必要ないで。帰って来たかったらいつでも――」

 「ちゃうねん、嫌やねん、あの家そのものが、消したいねん」

 私はぐずつきました。

 「あの家あるのが嫌やのん」

 それで全ては伝わりました。

 証拠として、父は完全に無言になりました。

 そのうちに不動産屋さんが戻ってきますと、世間体第一主義者の父はぐずぐずしながらも、新築の家を受け取ってくれました。

 お義母さんが私の新居に尋ねてきたのは一年した後のことでした。

 「元気にしてる?」

 私のほとんどは株に吸い込まれていましたから、元気などあるわけがない。

 好景気の時代は去り、急落の連発です。

 毎日が心配の連続で、寝れない夜が続き、身体は岩のように硬く重たい。

 お金はあっても健康はありません。

 もし買えるものなら、ぐっすり眠れる夜が欲しいです。株を始めてからというもの、熟睡をしたことがないので。他には何も要りません。チビだから服も靴もサイズがない。外に出ないから鞄もいらない。

 「食べたいものとかある?理子ちゃん」

 胃腸の調子は悪いので、食べる欲があるはずありません。

 喉元を優しく流れていってくれて、ほんでもって滋養のつく、離乳食みたいなのがいいな。

 「そんなんじゃ駄目よ、理子ちゃん」

 家具にも興味のない私の、空っぽな部屋を見渡しながら、腰に手をあててお義母さんが奮い立ちます。

 「ワタシがこれからごはんを作りに来てあげるね」

 私は父をこのときほど恨んだことはありません。

 何故私の居場所が知れたのか、箱入りのお嬢さんのお義母さんが、自ら探り当てたとは考えにくい、どのような形であれ、父がバラシタに決まっている――ということは、宗ちゃんにも居所は伝わっているのです、確実に。

 お義母さんは持参したエプロンを片手にウインクしてきます。

 「おいしいごはん、作るからね」

 私は居間で、ほとんどの時間を過ごしているから、後ろの台所でごちゃごちゃされるのは集中力がかき消されてかなわん、来るのは慎むようにと、父に電話で訴えると、

 「こんなに心配してるのにどこが駄目なの?」

父を通して何のメッセージが伝わっているのか、可憐なお義母さんはよよよと泣き崩れますので、なおさら鬱陶しく思い、ドアの鍵を勝手に変えたりしますと、

 「家に帰って来て、普通の生活に戻って頂戴ッ」

閉め出されたお義母さんが、外の廊下でわめき散らし、ドアをばんばん叩いてきます。

 「叫んではるで」

 私は受話器の向こう側にいる父に、お義母さんの声を聞かせて、実況中継します。

 「泣いてはるのが聞こえてる?近所迷惑やねん」

 もともとお義母さんはおしとやかな人でありますし、私に干渉する心はあまりなかった人であります。

 こんなことをしでかす人ではないのです。

 これはおかしい。

 「何かあったん?」

私の直感は蠢きます。

「おとうさん?」

「浮気がばれてしもてな」

沈黙を守っていた父が白状します。

「演歌教室で知り合うた子やねんけど……あ、若くないで、ぴちっとしたんはさすがにワイも歳やし、あかんよってな。おかあさんと一緒ぐらいの、ムッチャ笑う、エエ子やねん」

はついたろか。

私の滾りが受話器を通して伝わったのか、父はあわてて軌道修正を試みます。

「でもな、遊びやで、浮気やで、あっちももちろんそのつもりやし、大丈夫やデ」

何とも太っ腹なことをぬかしてくれよる。

「お義母さんはどないすんのん?」

気がかりはそれだけ。

毎朝来られるのは堪忍ならんところまできています。

父がうーんと唸ります。悪い兆候を意味していると思いました。事態は回復しないであろうと、私はここで悟りました。

「ミイが家に帰ってくれば、ワイも毎日帰ってくる、そう思とるのかもしれへんなあ」

遠くを見るような感慨を込めていいます。

 「おとうさん、家におらへんのん?」

受話器の果てから、猫のニャアと鳴く声が伝わってきましたが、実家にそんなものを飼っているだなんて聞いたことがない、はてさて、父は今どこにいるのでしょうか、携帯電話なので、居場所のめどがつきません。

「今更別れるつもりはないよってにまあ、通り魔みたいなもんやと、思といたって」

「それ誰のこと」

「おとうさんとおかあさん両方、や」

だんまりを決め込むと、父は早口で謝ってくる。

「いいかたまずかったな、ゴメン。でも離婚はせえへんし、大丈夫やで。週に何べんかはちゃんと帰ってごはんもろてる」

「宗ちゃんはどういうてるのん」

私の口から自然に、宗ちゃんの名前がするりと出てまいりました。

ためらいはありませんでした。

私の中で宗ちゃんが住んでいるのは、馴染みすぎて気にならなくなったのか、それとも(薄情ですが)どうでもいいのか、はっきりとした境界線は生まれていません。

父もそこには意識を置かず(忘れているのかも)、さらりといいます。

「あきれてるだけで、別に何にもいわれてへんケド。会社のほうも、宗一郎くんがいてくれたら、ええようになったし、ワイも安泰、ハッピーや、ミイのほうは、オッケーぐらいに、なられへんか?」

恋の効力のおかげかして、父はぐんと明るくなっていました。

自分のことを、ワイと呼ぶ軽薄さは、以前の父にはなかったものです。

まるで枷が外れたように、自由を謳歌しているようすであります。

「なんや宗一郎くんも、一人暮らしでええ、いうてるみたいやし、イイやん、それで。我慢してくれ。すまんけど」

「家にはお義母さん一人っきりなん?」

「うん、でもな、毎日一人や、いう意味とちゃうで。ワイかて週に何べんかは家へ帰ってるよって――」

「もうええわ」

一方的に電話を切ったあと、鍵を外しドアを開けると、涙に目を腫らしたお義母さんが部屋に入ってきて、私の手が握る子機に気づき、微笑んできます。

「あ、お電話中やったの、それならワタシにも気づかないはずね。ごめんなさいね、理子ちゃん、うるさくしちゃって」

「ううん」

私は首を振ると、濡れた目尻を拭いながら、お義母さんはさらに笑みを濃くして、シャネルのサンダルを脱ぎながら、いいます。

「理子ちゃん、お仕事のほうは、いかが?」

お仕事とは株のことをいっているのでしょう。

「まあまあ、かな」

私は、モニターを置いている机の前まで、ロールのついた椅子を滑らして、座ります。

「午後の取引、今からやから……静かにしといてくれる?」

「分かってる、邪魔はしないから」

ところがお義母さんは全然分かっていなかった。

それから半年の月日が枯れたある日、空が紅色に焦げるころ、お義母さんは宗ちゃんを連れてきたのです。

久方ぶりの宗ちゃんは、何といいましょうか、色が増したというかプレミアがついたというか、とにかく箔がついて、見栄えがよくなったと思いました。

背広を着込み、きりっとしてて、蒼くなってる私を見て、

「おう」

と軽いあいさつをし、顔色も変えずにのこのこと部屋へ上がりこんでくる。

 「立派にしてるやん」

といい、私にぽんと触れました。

宗ちゃんは何もない部屋を見渡したあと、足を楽に組み合わせて、床に直接座ります。

「椅子もないんかい」

椅子は私が座っているやつだけです。他にはありません。テーブルも台所のカウンターがあるだけで、置いていません。テレビが一台あるぐらいで家具は何も置いていない。

「飾らんのは相変わらずやな」

私の目と重なると、優しく、微笑みます。

「裾、ずってるで」

屈み、私の穿いていた、ゴムが緩み引きずったズボンの裾を、折り込んでくれたりする。

私はといえば怖気づいて、あいさつも交わさないで無言になっているというのに、宗ちゃんのこの余裕しゃくしゃくの態度はどういうことなのでしょうか、人生の経験の差からきているのでしょうか。

どうでもいいような気がしていても、やはり宗ちゃんを目の当たりにすれば、一体どうしたらええのんか、混乱してしまうのです。

お義母さんが温かいお茶を差してくれました。

「食べてるんか、ちゃんと」

お茶を一口すすり、宗ちゃんが窺ってきます。

「……お義母さんが、おかず、作りおきしてくれてあるから。最近は食べることに興味が出てきた。スーパーとかもたまに、行くようになった」

お義母さんが家からわざわざ持ってきた湯飲みを手に持ち、うつむき加減になり、私はぼつりぼつりといいます。

「それ何?」

私は宗ちゃんの持ってきた大きい紙袋を気にしました。

「ああ、頼まれたもんや、おふくろに」

紙袋の中にはいくつかの箱が押し込められていました。

一番大きな箱の蓋を開けると、コーヒーカップのつがいに、ナイフやフォークなども埋め込まれていて、大皿が真ん中に何枚かあり、厚みのない薄い食器の数々が、縁を囲む花びらのように中心を彩っています。

「せっかく作った料理も、皿の見栄えがないと映えへんいうて、注文された」

どうでもいい。私が何もいわず、蓋を閉め黙りこくっていると、風呂場の掃除に専念していたお義母さんが、ぱたぱたという音を鳴らして、寄ってきました。

お義母さんはゴム手袋をはめた手を叩いて、たおやかな喜びに溢れた顔をしております。

「届けてくれてよかった、宗ちゃん、ありがとうね。理子ちゃん、明日からはもっと、おいしいごはんを作るから、期待しててね」

萎れている私の顔をのぞき込んできます。

「理子ちゃん?どうしたの?久しぶりでしょ、宗ちゃんにも会うの、うれしくないの?」

お義母さんは私たちのことをからっきし知らないでいる。

何故に私が家を飛び出したかを分からないでいる(コレという原因は私にも分からないけれど)。

そして私はといえば、変わらずに下を向いて、あんたの息子さんに、子ども生んでくれといわれて、気まずくなったから家を出ていったんやで、とはいくらなんでもいえず、寡黙になっていると、

「おふくろ、今日は俺、家に帰るから、先帰ってメシの用意しててくれへんか?」

宗ちゃんの突然の提案に、お義母さんは名案だとばかりに手を打ち喜び、

 「あら、来てくれるの?」

 「ああ。仕事も切り上げてきたから、このまま帰る」

との返事に、踊りあがるぐらいにはしゃぎ、天気がぱあっと晴れていくような笑顔をして、

 「それなら理子ちゃんもいらっしゃいよ。新しい家まで距離はないんだし、宗ちゃんは車でしょ?だったら乗せていってあげたらいいじゃない」

とんでもないことをおっしゃいますので、私は、

 「外国の市場の様子見張っとかなあかんから、私は。夕飯どきにモニターから離れるのは、ちょっと……」

おろおろしながらも、咄嗟に口からでまかせのいいわけをいいます。

 「それに、作りおきのおかずもあるし、それ片付けるのんが先かなって」

 「そうかあ、残念ねえ」

 そんなふうに嘆いてみせる、お義母さんの声はしかし、心置きなく伸びていて、無念そうではありません、むしろ何やらいそいそと弾みがついて、息子と二人で採る献立でも思いついたのでしょうか、非常にいい顔をして、宗ちゃんにわざわざ運ばせてきたせっかくの食器の包みもそっちのけに、帰って行きますと、

 「俺と居るのはそんなに嫌か」

 宗ちゃんは核心を突くことに躊躇いはないようで、ずばずばつっかかってきました。

 「懲りもせんと株、やっとるみたいやな」

私は猫背の姿勢を保ち、モニターを見やる宗ちゃんの前に、います。

 どこか他所へ移動してもよかったのでしょうが、人を動けなくさせる威圧を、宗ちゃんは養っているので、私は動けなくなりました。

 宗ちゃんは腕組をして、不安げな私を打ち落とすがごとく、見上げております。

 「いきなり家出した思たら、新築の家、親に与えて餌付けして、どういうつもりや」

 「餌付けなんかじゃ――」

 私は反抗の意志をみせましたが、宗ちゃんの残り香の漂う家があることを消したかったと思ったなんて、面と向かってはいえず、半開きの唇を閉じますと、

 「何や、いうてみい。途中まで出かけたモン、引っ込めんな、気色悪いやろ」

こんな調子で、宗ちゃんはどこまでも攻撃態勢真っ只中にいはるから、

「おとうさんは気にいらんみたいやから餌になってへん」

私も負けじと堤防を張り巡らすと、

 「おふくろもな、広すぎる、いうて、くつろげん、いうて、参っとるねん」

反撃の嵐が巻き起こり、即席の壁はあっけなく潰されてしまいます。

 「せっかく家出したんやさかいに、もっと遠出するんかと思えば、近所にいよるねんな、ミイは。ビビリなやっちゃ」

 図星でありますので、押し黙りましたが、

 「おとうさん、外でうろちょろしてるのんは、新しい家のせい?」

とがんばって踏ん張りますと、

「誰から聞いてん?その話」

宗ちゃんの目がぎろりと光り、私の視線とかちんとぶつかったので、怖くて逸らしましたが、

 「ミイ、こっち向け。誰から聞いたんや?」

 「おとうさん本人」

 私は自白せざるを得ない状況に陥ります。

 「おとうさんとは電話でちょくちょく、話するし」

 「へえ」

 「何やおとうさん、楽しそうで、羨ましい」

 「…………」

 「おとうさんはいつからあんなふうになれたん?」

 顔を上げて聞きますと、

 「俺かて、知らんわ。気づいたらスキップしてはったんや。そのおかげでエライ苦労したわ、まだ現役続けて欲しかった忙しいときやったのに、義父さんは、ほんまに、モウ」

いっているうちに、苛立ちが沸いてくるのか、宗ちゃんは後頭部をがりがりと掻きむしり、乱暴に私を見つめます。

 「露骨に変になりだしたのは、ミイが出ていってからやけど」

 膝をすりながら、私の足元に近づいてきます。

 「なんで逃げんねん」

 椅子から離れ、後ずさりして、逃走を試みたのですが、日ごろの運動不足がたたったのか、こけて失敗し、捕まえられます。

 「あほ、別に何も、せえへんわ」

 宗ちゃんは、両手をついてもなお、這うようにして逃げようとする私を、羽交い絞めにして抱き起こし、強くしめつけてきます。

 私の肩に、宗ちゃんは尖る顎を押し付けてきて、

 「ミイ」

耳へ声を直に入れてくる。

 私はこれが弱いのです。ぐたぐたになって、腰が砕けてしまいそうになる。

 「また、来ても、ええか?」

 私は拒めなかった。そこでも黙ったままだった。抗うこともしなかった。

 市場の荒波に、身を削られていく毎日を過ごしていると、人肌の潤いを求めてしまうときが、突如ごうっと吹いてくる。それがこの日。仕方のないことだったと、思といたってください。

 そうであっても、宗ちゃんの帰る身支度をしているとき、たどたどしくも、いったんです、私。

 「あんまり来んといてほしい」

 「あんまりってどういうことや?はっきりいえ」

 「結婚して、早く」

 「したいんか、そんなら話しは早い――」

 勢いをつけて、宗ちゃんが私を振り返りますので、

 「ちゃうねん」

 顔を押さえて表情を隠し、慌てて、修正します。

 「宗ちゃんには早く結婚してもらいたい。誰か相手見つけてほしい。それやねん」

 「俺はな、ミイと――」

 「それ、ちゃうねん」

 目を重ねていいました。

 「私とじゃ、ないねん、ちゃうねん。宗ちゃんには結婚してもらいたいねん、誰かと、早く」

 この気持ちは抽象的で、様々な思惑が交差しています。

 株と似ています。口で説明できない部分があり、市場にいざ出陣してみないとつかみ取れない感覚、とでもいいましょうか。

 「分かってもらえる?」

 「……半分」

 宗ちゃんは、見送りに出ようとした私を部屋に押し止めて、帰りました。

 カーテンの隙間からうかがえる夜の色が深みを増してきます。

力の源である太陽の光がついに消滅すると、私は、株で損したことと重なって、クタクタで、体力の限界に突入していました。

 喉が渇いてきたので、ふらふらになりながら、水道のお水を汲みに行こうとしたとき、

 「あッ」

宗ちゃんの織り込んでくれたズボンの裾が飛び出し、そこへつま先を持っていかれて、バランスが崩れ、居間の真ん中に置きっぱなしにしてあった、剥き出しの食器セットへ膝を突っ込みました。

 不思議と痛くはありませんでした。倒れた驚きのほうが大きかった。怪我をしたことを気づきもしなかった。それよりも何よりも、再び眠って、生きてることを少しの間でもいいから忘れたかった。

 でも散らばる破片をそのままにしておくわけにいかず、配給された指定ゴミ袋へ、割れた食器も壊れていないカップも全て、放り込み、ついでに穿いてるズボンも捨ててこようと思い、脱いで、もう一枚の袋を出してきてつっこみ、スカートを穿き、外へ捨てに行きました。

 「どこでもいいんですよ」

 そんなおりに斉藤さんとは会いました。

 憔悴しきって、ぼろぼろの端切れのようになっていた私にでも、斉藤さんは、親切にしてくれました。

 あ、と思いました。

うれしかったし、面積があっても重しのない、ほわんとしてはる、ヒトを疲れさせない人だな、と。こんなお人もいるんやな、と希望が持てた。

 「要はタイミングの問題なんですね」

 市場風景を映したモニターから目を離した周くんは、凝った肩をほぐすために、首を鳴らしていいました。

 「そんな感じかな」

 周くんの隣で私は、組み立て椅子に腰を据えて、頷きます。

 「どこで切るかが大事なんよ。早く逃げることが先決っていうか、去るっていうか。傷の入った尾っぽをずるずる引きずってるより、思い切って怪我したところ、捨てんと、あかん」

 「株の極意は諦めですか?」

 「潔し、というてほしい」

 「ホー」

 可愛らしく返事する周くんは、ネットで巡りあえた、検索の賜物でございます。

周くんとは偶然にもご近所だったこともあり、こうして、月に何度か情報の交換や互いの状況を話し合う仲へ発展しました。

人のえにしにひもじい私は、この日を楽しみにしています。

周くんは若いので、すぐにお腹が減ると思い、食材をネットで注文したりして、チラシ寿司などの簡単な食事を振舞うために料理本を読むことも、息抜きになって、楽しかったりする。

 「おいしかったです、センセ」

 そんなことをいって微笑む、デザートのりんごをフォークで刺す周くんは、今年で十七歳になるそうですが、この年頃には相応しくないほど利発な子です。

 「あっさりしてて、お腹にいくらでも入る味でした。僕の家では無理な味です」

 スジを突くのに躊躇のない、冷淡さも留めております。

 「センセ、それ私のこと?」

 私はちょっとたじろぎ、

 「センセやなんて、そんな大層なモンとちゃうけど」

いうと、周くんはしっかりした目を向けてきて、頭を下げてくれます。

 「僕にしてみればセンセです」

 ぱっと見は、物静かな子なのですが、内に、きっぱりとした粘着質を秘めていて、市場で生きる素質がみちみちている。彼の動かす金額が、才能を保障する証明であります。将来はさらに、ずるりと化ける気配がぷんぷんする、楽しみです。

周くんはどうやら、小学校を中退しているとの話しですが、未来はイケルと思います。

 ――あ。

 雪子さんの背中が見えてきました。

私もがんばらなあかんときが近づいてきました、しっかりせねばならない時が一刻と近づいてきます。

この暑いさなか、日傘もささずに、内股で歩くという分かりやすい特徴を持ってはるお人なので、距離が開いていても、あれは雪子さんだと分かります。

雪子さんとは今日初めて会いました。

私などとは違う、こころ配りのできる優しい大きな女性だとすぐ、分かります。

そして何よりも大事なこと、宗ちゃんのことを愛おしく想ってくれてはる、稀有な方だということも、態度の端々から見受けられました。

全部任せてもええように思います。

宗ちゃんの元へ戻ってくれるように、宗ちゃんと結婚してもらうために、私は雪子さんに説得を試みなけらばなりません。どうなるかなんて分からないけれども、雪子さんに触れた以上、戻ってもらうように懇願しなければなりません。雪子さんは振り向きます。どうなるかなんて分かりません。株と一緒。私は荒くなった呼吸を整えて、流れる汗を拭き、顔を上げます。


 部屋に戻って驚いた。

 「おかえりなさい、ヒロシはん」

 サエが訪れていたのだ。

 ひょこひょことした足取りで、玄関へ弘を迎えに来るサエの表情は、愁いを帯びている。

 「話ありますよってに、はよ、上がんなさい」

 すっかり自宅の気分でいるらしい。

 でも弘は、そんなことよりもサエの、どことなく、顔色が陰っているほうが気がかりである。もしかすると由美パパの身に災厄が落ちたのかもしれぬ。

 弘は覚悟を決めて、居間へと入る。

 「おかえり、弘君、話、あんねん」

 一人がけのソファーに由美がいた。脇に雑誌を置いて、サエと同じような顔つきで、弘を部屋に迎え入れる。

 「よっこいしょっと」

 サエがまず腰を下ろすと、

 「ほれ、ヒロシはんも座り」

 いわれるまま、弘も坐ると、突然いわれた。

 「子どもがでけてん」

 「へ?」

 「コドモやがな、ヒロシはん」

 サエが由美の説明不足の部分を補う。

「ええ、それで――」

子どもがどうした。

 「コドモがゆんちゃんのお腹で眠ってるねん。ゆんちゃん、妊娠したんデス」

 弘は実直である。

律儀なだけでは子どもは創れぬ。

 赤子のタネは弘のものではない。

 世界について分からないことだらけの弘だが、ソレだけは分かる。

 「あたしと同じ会社の、独身の人やねんけど、赤ちゃんできたこというたら、結婚してくれる、いうてくれてん」

腹に手を添えてると、母性が芽生えてくるのか、それとも単に、このシチュエーションに酔っているのか、目を赤にして、由美は鼻をすする。

弘を勢いよく蹴り出したのは、つい数時間前のことだというのに、由美の、ぱっぱっと色が変わる、信号のような感情起伏の明晰さは、人間技とは思えない、こうなればもう機械である。

 「あたし太ったん、気づかんかった?」

 弘は由美に対してでたらめであるから、そこまで深刻に変調を意識していなかった。

 知らんかったというふうにして、弘は、涙にむせぶ由美を見ていると、

 「工場のほうも、その方に来てもらう、いう段取りにしよかと、パパと相談しましてな、ヒロシはん悪いのやけれども、別れたってくれはりますか?」

 サエが茶封筒を懐から出してくる。

 「おでかけから帰って来はった早々に、こんなことを伝えるのは悪いけど、ゆんちゃんが、ソノ、お腹のお父さんのほうを選ぶいうてるねんわあ」

 厚みのある封筒が弘に差し出される。

 「早いほうがええでしょ?こういうことは特に。ほんで、下品で悪いけど、手切れ金のつもりで、コレ受け取ってくれはりゃしませんか?引越しするとなったら色々物入りになるやろし」

 「こんなことをしてもらわんでもぼくは……」

 「弘君、別れてちょーだい」

 由美は弘が封筒を受け取ろうとしないのは、別れたくない意志からきているものだととっている。そうではないのに。

 「でも由美ちゃん、ぼくは」

 弘は由美をレンタルさせてもらっていただけである、借りたものは返さなくてはいけないと、常々日ごろ思っていたのである――

 「さよならして欲しい、コレで」

 由美はサエの手から封筒を奪い、拒む(ようにみえる)弘へ押し付ける。

 「二度と戻って来んといて、あたしのもとには」

 もらったお金は引越し資金にでもするとしよう。

心境をいろいろと解説するのが面倒くさく、かつあほらしく思ったので、弘は由美たちに同意した。封筒を受け取りながら、弘は硬く誓う。

 たとえもし、由美のもとへ再び帰らなければ地球が崩壊するといわれても、弘は地球共々砕け散るほうを選ぶことを。

 突然の離婚の申し立てを喰らっても、弘は平然としていた。

 器用でない弘の心はどっちかに傾くことしかできない。弘の心にあるのは、四十過ぎて子どもを持とうとしている由美の人生のこれからの険しさよりも、弘の跡継ぎ、顔も知らない後継者への同情心よりも、理子でいっぱいなのである。

 「サイトー、ミイからの伝言や」

 すでに呼び捨てである。酒の勢いのせいか、もとからなのか、宗一郎の、弘へのふてぶてしい態度は一段と増している。

宗一郎は酒に潰れて、一旦倒れたものの、携帯音が鳴ると途端に、跳ね上がるようにし

て起きたのである。

 「雪子とお、喫茶店でしばらくおるゥ、いうから、待つナァ、帰れえァ」

 だが復活するにはパワーは乏しい。舌はもつれてふらふらしてて、口から漏れる言葉は明確さを欠いている。

 「ガきィ」

 「僕?」

 「ミイからや」

 酒臭い息を吐きながら、宗一郎は携帯電話を少年に渡す。

 「センセ?はい、はい……ええ、べろんべろんです。はい……」

 消耗した面持ちで、少年が携帯にいる理子の声を聞き入るのを、弘たちは耳を澄ませて、静かにしていたが、

 「僕以外は帰れ、とのことです。さようなら」

 と正面切っていわれてしまい、弘はぐでんぐでんの宗一郎を自宅へ送り届けるために、タクシーを呼んでやらねばならなくなった。

 かんかん照りのさなかでは、舐めただけの微々たる量であっても、酒の力は身体に染みた。

 外へ出るといきなり、弘の背中は汗まみれになった。猛暑の厳しさが身にこたえる。しかも肩には、熱の固まりである宗一郎が重くのしかかっているので、とにかく暑いの何の。二人揃って、焦げる地面に転がらないように、弘は壁にもたれて耐えしのぐ。

 ようやくタクシーがマンションに到着した。

弘はタクシーのドアを広く開けて、入りやすいようにしてやると、宗一郎はしかめっ面をする。

 「恩着せがましいねん」

 「ほんだら歩いて帰るか?」

 「こんなことしてくれなんて誰も頼んでへんどお」

 もたつきながらも、宗一郎は後部座席の奥へ、腹ばいで移っていく。

 「サイトー、俺はなあ」

 ドア閉めようとすると、宗一郎は弘にいいたいことが残っているのかして、窓を押して邪魔をする。

 「こら、サイトー」

 「ええから、はよ、乗ってくれ。ここの道の幅狭いから、こんなことずっとやってたら、後ろつっかえるねん」

 弘は力を込めてドアを押すが、宗一郎も負けていない。

「こんなん、俺の予定にはなかってんぞ」

 隙をつき、車内に宗一郎を滑らせた。

 「予定は未定じゃ」

 ドアを派手に閉めながら、いってやった。

 電話も激しく鳴る。

 由美の気配が部屋からすっかり抜けきったとき、会社の社長が臨終との、連絡であった。

 社長のことはうっかりしていたので、訃報に接したときは、ショックであった。

「死んでもうたわ、社長」

 通夜に行くと、眼鏡を縁なしのものに変えた山口さんが、沈痛な顔つきで、弘を迎え入れてくれた。

 「病院で死ぬのは嫌や、いうて、医者止めるのも聞かんと、家に帰れた思てた途端、逝ってんて」

 「そんなら奥さん驚きはったやろ?」

 専務が弘たちの会話に加わる。

 「心の準備はしてたみたいやから、慌てふためく、いうようなことはせなんだらしい」

 「見つけたのは奥さん?」

 「そや。最後のお別れはせんままに、死んでんて」

「奥さん不憫やわあ」

 専務たちは、参列者にお辞儀していると思しき奥さんへ、目をあてる。弘も遅れて視線を向ける。

 「旦那さんも心残りやろなあ、あんな、か弱い奥さんこの世に残したまんまで逝ってもうて」

 しんなりした喪服を着込み、弘たちに会釈を返してきた奥さんは、束ねた後ろ髪に白髪が、ちろちろと目立つので、疲労感を漂わせているが、弘の思うに、悲しみで痛んだ、という感じはしない。

「何もでけへん人やねんてなあ」

 「友ちゃん、社長に頼りきりやったさかいにな」

 友ちゃん――奥さんのいとこである山口さんは、色々と持ち出してくれる。

 「銀行も一人で行ったことない、いうてた」

 「郵便局は切手しか売ってないところや、思てる」

 「はあ」

 「あ、そういえば斉藤ちゃん、嫁さんはどこや?」

 翌日の葬儀の終わるとき、目ざとい専務に、弘の隣に由美がいないのに、気づかれてしまう。

 「由美さん来てへんよなあ?」

「仕事か何かで来たはられへんの?昨日も見いひんかったで」

山口さんも磨かれたレンズを光らせて、弘に聞くから、

「離婚しますのや、だから、伝えてませんねん。数日前引越し屋さんが来て、荷物、持っていかはりました。いおう、思てたんやけど、何や、いい出すきっかけ逃がしてもうて、いうのが遅れました、エライすんません」

と告白すると、

「ええッ?!」

目を見開き、額の皺をくしゃりとさせて、二人は同時に驚いた。

「斉藤ちゃん、離婚したんか」

「そうなりますな。籍抜く手続きは、明日にしよか、いうてますねんわ」

「どんなん?長年連れ添うた嫁さんと別れるの、て」

山口さんは、未知のものと遭遇するときのように、不安げに質問してくるが、弘は葬式だというのに、不謹慎にもつい、口元から笑みをこぼしてしまう。

スカッとした晴朗なる血が、身体に行き渡るのは爽快であった。

「いやー、助かった、いう感じでしょうか」

真理であろう。

だのに、

「強がりいうて」

干乾びた手で、背中をごしごしさすられて、慰められる。

「ワシらの前でぐらい本音いうてくれよ、水くさいねんから」

心境の翻訳が通じていない。同僚らは交互に顔を見合わせて、表情を固めて、弘の状況を盛んに気の毒がる。

二人には、弘が由美をとうから捨ててたという感覚はないらしく、離婚のいきさつをついばみながら話すと、

「斉藤ちゃんは捨てられた」

という結論に流れ行き、弘は完璧な被害者になれた。

「かわいそうに」

哀れむ声が吹き渡る溝に、弘は叩き落される。

「ヨソのオトコの子どもでけたから、いうて、ほな、サイナラ、やて。おっそろしい」

「離婚しはったんは、つい最近みたいよ。年下のオトコに女房取られてんて」

なにやら弘の知らないことまでくっついている。

「子どもやなんて、スゴ。四十で、やて。今はすごい時代やな。昔やってみい、孫おってもおかしないで」

「ものごっついな」

「泣けてくるわ」

歩く放送局という不名誉なニックネームを持つ、専務の奥さんに、弘の離縁話を嗅ぎつけられるともう、噂は順調に知れ渡り、喪主の出棺のあいさつのときなど、死んだ社長の身の上よりも弘のほうが憐れに思われて、式は締めくくられていく。

「旦那はん、悲惨やったな」

これは弘に対しての慰めの言葉である。ひたすらええ人だった社長の存在は、まだ葬式だというのに、忘れ去られている。嫌なやつが死んでも、誰かの身体のどこかに残っているが、エエ人がなくなれば、ふっと消えてしまうらしい。

「気にしなや、世間のいうことなんか」

「はあ」

木々に囲まれた斎場なので、隣のひそひそ話しの声よりも、蝉の鳴く音がけたたましかった。

斎場の外へ出ると、ふいと蝉が、弘の目の前を過ぎり、一歩下がって避けると、後ろを通った社長の奥さんとぶつかった。

「あ、すいません」

「……いえ」

「社長、お気の毒で。ええ、お人でした」

「――おおきに」

手短なやり取りの中であったが、弘はそのとき、奥さんのやつれかたが気にかかった。間近での奥さんは、かすかすのミイラのようであった。手首もがりがりに細く、骨と太い血管が幾筋も浮き出て、数珠の房が生気なく垂れている。

夏もたけなわ、青味が効いて清々しい中、奥さんの寂しい佇まいは独り、灰色である。

そして理子も下を向いていて辛気くさい。

「出て行きはるんですね、斉藤さん」

由美に離婚宣告されると早々、弘はこのマンションを出て行くことを決意した。

理子は目の下に生まれたクマをこする。

「今日で最後なんは、なんや、寂しいなります。お世話になってしまって、ほんまにありがとうございました。斉藤さん」

それで、お別れのあいさつを理子へいいに行くことにしたのである。

「そんなこというてもらえるなんて、思とりませんでした、うれしいです、ほんまに」

山が後ろで望める土地に移ることにしたのだが、会社への道のりは今と大差ないところである。家賃もぐんと安くなる。田畑に挟まれ、土の香りの広がる景観はほのぼのときれいなので、散歩とかも趣味になりそうだ。貯金をして車も買おうと思う。心弾みは止まらない。

弘は笑っていう。

「こじんまりしたええ感じの部屋が、ぱっと見つかってね、出よ、思いまして」

部屋数も減り、うんと狭くなってしまうが、日当たりは良く、炊事場は奥行きがあって使いやすそうなのが、気に入る点、独り身には丁度良い広さのものである。

快活な調子の弘とは反対に、ドアで身体を隠した理子は塞ぎがちである。

株の損でも続いているのであろうか、それとも宗一郎か、いや、まさか、ひょっとしたら弘が離れてしまうのが寂しいと思われているのであろうか。いやいや、焦ってはまずい、こういうのはもっと気楽に考えなければ――

「離婚しはるて聞きました」

いつの間に知れたのであろうか。

「監視が仕事ですから」

カメラのつもりなのか、理子は手を輪にして、弘を丸の中へ閉じ込める。

なるほど。弘は頭を押さえて、散髪したての髪をかく。

「まあ、心機一転してお互いがんばろういうことになったんですわ」

「子どもがでけたて、お義母さんがいうてました」

全部駄々漏れであるらしい。旅立ちの前だというのに、うんざりする。無意識に弘は由美の足跡を探した。

「……みたいですな」

由美も理子も何もそこまでいう必要はあるまいのに。

「もう四ヶ月いうてましたわ」

まぶたを下ろして自供をすると、

「これで奥さんは、元・奥さんになったというわけで?」

目を大きくして追い詰めてくる。

「そうなりますな」

何がいいたいのであろうか。

弘がたじろぐと、

「成り行きまかせは嫌いなので、うん。情報は集められるだけ集めて、危険は避けておかないと、安心できないタチなので」

「危険?」

「すいません、遠慮がなくって。会話の舵取り、うまくないんです」

理子は口元を手で覆い蓋をして、ひそひそと、

「雪子さんもそうなんですよ。ご近所同士で偶然やなあ、テ、思て」

ドアの狭間に理子の笑う目が挟まっている。

「結婚式の前やというのに、パワフルな話ですね」


がらんどうの部屋へ引越して来たその夜に、弘はおかしな夢を見た。

「どうぞ、ごゆっくり」

夢の中にあるバーに坐ったら、カウンターを担うちょび髭の男が、酒を注いでくれた。

酒は、バーと同じで煤けた色合いをしている。玉のような氷を鳴らして、ぐびっとあおるが味はない。

「先客様が貴方をお待ちになっていますよ」

ちょび髭男は冴えた微笑みを浮かべて、奥を指す。

「先客?」

夢の中で約束などしていない。弘は怪訝な顔をすると、

「きゃっほー、斉藤さん、わたしよ、ワ、タ、シ」

カウンターの一番端の席にいる女から、投げキッスをいただく。

「奇遇よねえ、夢を共有してるのねー」

店はおぼろげなあかりがぽつんと点いているだけなので、部屋は薄暗く、見渡しは悪いが、よくよく目をこらすと、隅で坐っている女の姿には見覚えがある。

「奥さん、何してはりますの?こんなところで」

「いやん、奥さん、やなんて。友ちゃん、いうて」

待ち人の正体は社長の奥さんであった。

つい先日、夫の葬式をすませたばかりであるはずだのに、現実とはうって変わって、友ちゃんはカラッと、はつらつと元気全快である。

わななく弘を友ちゃんはふふっと笑い、空になったグラスを傾け、カウンターの奥に立つちょび髭男に、おかわりの催促をする。

夢でも弘は、真面目くさった背広であるが、友ちゃんは喪服である。桔梗の紋は涼やかに白く、プラチナのブローチが輝いているようにもみえる。

「フフッ、不謹慎?こんな格好して、アタシ」

ミイラの面影は一切ない。

「はあ」

夢であっても弘はいいたいことがいえない。分けてもらった酒を仰いで喉を焼くだけである。

「マジメするのに疲れたの」

「はあ」

グラスに唇をつけるたびに、数珠が揺れてじゃらじゃらと音がぶつかる。友ちゃんは手首に巻いていた数珠を、

「邪魔ッ」

だと叫び、引っこ抜き、ちょび髭男へ放り投げる。

「世の中にはオモロイもん、仰山、あることに、気づいたの」

「……ハぁ」

ちょび髭男はキャッチできなかったようである。床に数珠がガチャリと散らばる。

弘は友ちゃんの行動に衝撃を受けるが、

「あんたをここへ呼んだのはねえ――」

肩に寄りかかられて、思考は一旦停止する。何やら友ちゃんは蛇のようになって、弘に巻きついてきているのだが、なまめかしかったりするので、もう少しだけこのままにしておきたいような気もある。

だがそのままでは埒が明かなさそうなので、斜めになった友ちゃんをきちんと坐らせ、弘は背中を撫でて、漏れるしゃっくりなどを落ち着かせてやっていると、

「優しい人やと思てたからよ、あんたが」

薄い唇が吊りあがった。

「そりゃ、ここが奥さんの夢の中やからですわ。人の夢は都合よう、動きますからね、ぼくは奥さんに調節されてるんです」

「トモちゃん、呼んで。もうワタシ奥さんとちゃうから」

「友ちゃん」

「フフ」

弘も悪い気はしない。やはり夢はいいもんだ。

「楽しいことって、何ですか?」

身を乗り出して話を振ると、友ちゃんは、

「そやね、旦那がコロッと死んだとき、何かわくわくしたわ」

グラスになみなみと注がれた酒を飲み干し、ゲップを吐いた。

「嘘ヨ、ウソ」

そうだと願いたいがそんな気は友ちゃんから伝わってこない。友ちゃんはあだっぽく、真実が持つ独特の、さらっとした軽い匂いを噴出させていっている。

「離婚するねんてね。褒めたるわ」

啖呵を切られると、弘はかつもくして、友ちゃんを見つめた。弘から一本奪って、友ちゃんはしてやったりという、これまたむやみに色っぽい流し目をくれて、グラスをテーブルに置く。

「専務にいうたんが、間違いやよ、あの人の奥さん、九官鳥みたいにべらべらしゃべってたもん、葬式に来てた人みーんな、斉藤さんの離婚のこと、知ってる。旦那の最後のことは関心薄いのに、その話でめっちゃ盛り上ってたもん」

 「参りますわ」

弘は袖で、額から流れ落ちてくる汗を拭こうとすると、友ちゃんがミルク色のハンカチをそっとあててくれる。

「あ、どうも」

ハンカチを受け取り礼をいうと、

「染みになるからね、汗は。クリーニング代もバカにならんでしょ」

袂を振って、上物の線香の残り香をたなびかせる。そうするとますます艶っぽくなる。友ちゃんの歳は由美とそう変わらぬはずだが(社長とは歳の差がかなりあった)、月とすっぽんとはこのことをいうのであろう。

「世話かけさせてすまんです」

「いいのよ、別に、男の人の世話はお馴染みよ、ワタシにとっては」

しわしわのカッターシャツを着ていた社長の面影を、弘は頭に浮かべ、生前、この友ちゃんと寄り添うようにして歩んでいた、睦ましい風景などを思い出していると、

「ちょっと、おかわりちょーだいよ」

氷をがりがり噛み砕く音に破かれてしまう。

ガムを噛むようにして、口をくちゃくちゃさせながら、ちょび髭におかわりを要求する、その仕草は粗暴である。

「現実のワタシと違うな、思てはるんでしょ?」

はらりと何本か髪が頬に落ちる。

橙色の照明を浴びているせいか、友ちゃんの肌は黄色と赤が入り混じり、影がかかれば妖艶であるが、妖怪のように不気味でもある。

「外面は借りてきた猫みたいにしおらしいの、ワタシ」

「はあ」

お多福のように垂れた友ちゃんの目が、獰猛にぎんと上がる。

「この辺があいつと一緒。ソトヅラはええの」

「あいつ?」

聞き返すと、

「旦那のことよ、のみ込み遅いねんな」

怒られて、鼻面をつねられる。夢の中でも結構痛い。

「すいません」

赤くなった鼻を押さえて、弘はか弱く脅えるが、友ちゃんはそんななよなよしたのが好みでないらしく、

「謝るんやないの、そんなことで、大の男がみっともないねん。何かいいなさいよ、口があるんでしょ?何のための口なんよ。むっつりして黙って、腹の中ではイジワルに思てるねんな、ワタシのこと。旦那もそうやったわ」

弘のいい加減な相づちにも、友ちゃんは手厳しい。見逃してくれない。

「何もいわへんくせに、むうっとしてるだけ。ワタシが気をきかせて、『何考えてるの?』いうたら、『会社のことぢゃ』やって。嘘ヨ、あんなん。家の不満ダラダラ並べてるの、分かるもん、仕事を想てる目とは全然ちゃうもん、分かってるねんからね!」

 どんとテーブルを叩きつけて、黙り込んだので、弘はお借りしたハンカチを裏返しにしてたたみ、下を向いたままの友ちゃんに、

 「愛してはったんですな、社長のこと」

 涙を拭くために必要であろうと思い立ち、ハンカチを返そうと思い、差し出して、

 「よう見てはったんや」

 と囁けば、

 「嫌いやったの!」

くわっと目を見開いて、弘に怒鳴った。

「だから見てたの、あほやね、あんたッ!」

熱い血潮を部屋中に放出させるそのさまは、ふしゅーと鳴りながら煙を出して、故障の警告を唸らす戦闘機のよう。

「ふん、家の中、すっとしてんから。あいつが死んで」

帯の位置を正しながら、友ちゃんはそんなことをいった。

友ちゃんの落ち着く時期を見定めていたのか、ちょび髭男がひょっと出てきて、伝票を弘のところへ置いていく。

「あいつもね、ワタシのこと、嫌なんよ。死んだん、そらあ残念やったやろうけど、あいつ、ワタシとバイバイできて、セーセーしてるんとちゃうかな、天国で」

友ちゃんは草履を放り出し、弘に向き合う。

「ワタシは何も知らへん女や思て、みくびってたの、結婚生活ずっとその調子は崩すことなかったわ。そんなんやから、ワタシいつも腹立っててねえ、復讐しててん」

ハハッと笑う。

「復讐とな?」

 「そや」

 満面の微笑みで弘を見返す。夢でも弘は逃げたい。でも次はどこへ逃げればよいのであろうか。

「息子らの制服にはアイロンあてても、あいつのんは、くしゃくしゃのままで見送っててん。それでも気づきもしよれへんねん。へん、何も知らへんのはどっちやねん、いう話や」

「…………」

早く目ぇ覚めえ。弘は頬っぺたをぱちんと叩き、活を入れる。

「あれ見んな、コレすんな。でもオムツは取り替えてくれ、やて、信じられる?」

弘の足に友ちゃんのつま先が当たる。つまり蹴られたのである。

「でももっと信じられへんのは、素直に従ってたワタシ自身。反省!」

弘の肩に手を置き、友ちゃんはがくんと半身を垂らす。

「何であいつのいうままになっとったんやろか。あんた、理由、分かる?」

分かるわけがない。

しかし友ちゃんは弘の答えなど期待していないようで、

「好きな人がいるのでしょう?」

話題を取り替える。

肩を捕まえられ、身動きできないでいる弘を、奥さんはにんまりと笑って見てくる。

「目で分かるんよ。あんた、あいつが愛人おった頃と同じ目ン玉してるで。葬式のときにピンときた。抉り取ったろか」

爪で眉間をはじかれた。

「勘弁してください」

「嘘よん」

「はあ」

急所である眉の間を押さえられて、萎縮している弘の背中を、バチコンとたたいて、友ちゃんはきゃらきゃらという。

「それが一番の特効薬よね、錆びた人生の。愛しむほうが没頭できるしね、これから楽しくなれそうやないの、あんた、イイネ」

腕に、友ちゃんの肘がうりうりと埋め込まれていく。どんどんハチャメチャになっていく友ちゃんは、すこぶる快活である。

「でもワタシも負けてないわよ。世の中は楽しいこといっぱいあるのやし、分かってくれる人もおるんやし、あんたみたいにな」

身を硬くして、両手でグラスを挟み防御する弘に、ブイサインしてくる。

「奇跡が起こることを祈ってるで」

友ちゃんは弘に託された伝票を掠め取る。

「ここはおごったげるわ」

「いやそれは男の役目で」

奪い返そうとするが、友ちゃんはひらひらとレジへ飛んでいくので捕まらない。

「何いうてんの」

振り返り、

「あんた、縁起いいやろ?今。その代金や。ちょいともらうで、分けてや」

「え?」

「現実へとお戻りですか?」

友チャンが葉っぱのように薄い紙切れを、レジに立つちょび髭男に渡すと、

「ええ。鬱憤もちょっと収まったことやし、帰ろ、思う。それにおしまいでしょ?ここも、ソロソロ」

代金をテーブルに置いた後、友ちゃんはドアを身体で押してふらふらと出て行った。

弘はドアを押さえて後を追う。

「あの、新居、こっから、電車ですぐのとこなんですわ。これ、引越し先の地図です」

用意してきたメモ用紙を理子に握らせる。

「もしよかったら、散歩がてらに、遊びにきてください。空気のええ場所やし、これは損せえへんかと……」

座は白けてしまった。

――だが。

 「土日は空いてますか?」

 唐突に理子はいい出した。

「へ?」

 「市場は土日が休みなんで、基本的に。斉藤さん、明日とかは――」

 「空いてます。もう、ガラガラに」

 明日は日曜である。

 「いい気分転換になります」

 理子の頬に血が集る。

 「損しないんでしょ?」

 「そらあ、しません」

 「なら行きます」

 歯並をみせて笑ってくれた。

 堅い蕾が膨らんで、淡い色がゆっくりと差していくような、やさしい笑顔である。

 ぐらぐらと煮えたぎる夏の火もくわわり、弘は身が焼かれそうだと思った。

 「おはようございます」

 翌朝、引越しの手伝いをしに、理子が新居へ入ってきてくれた。

「来ちゃいました」

 「どうぞ、言葉通り、何にもない部屋ですが」

 冷やしてあったコップを冷蔵庫から取り出して、弘は用意してあった濃い茶をついだ。了





最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

これにて、トカゲのしっぽは終了です。

人様の暇つぶしになれるものができているといいのですが。

感想、聞かせてもらうと、うれしいです。

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