トワの大いなる学習帳:「ミニカー」
「それ、何?」
もはやお決まりのセリフだった。おはようございます、みたいなものだ。実際には起きるどころか俺は今眠っている最中なわけだけれども。
殺風景な白い部屋で、俺は少女にいつもの講義を始める。
「これはおもちゃだよ。ミニカー。これなら定義づけずに楽しめるだろ」
最近立て続けに飲食物を与えていたところ、俺は少し困った顔の少女に私をあまり定義付けないで欲しいと釘を刺されていた。私を定義付けないで。この不思議な言い回しに関して特別な意味を求めた俺は、自分なりに考察を試み、結果このトワという夢の世界の少女について一つの仮説を立てた。しかしその仮説を証明する手立ては無い。この夢の空間にやってくるという、俺以外の二人の人間と接触出来たらあるいは何か状況が変わるかもしれないとも考えたが、今のところ彼らに関して少女からは名前すら聞き出せていなかったし、この部屋からは痕跡すら感じとることは出来なかった。
「おもちゃとは?ミニカーとは何?」
「んー、これは車っていう乗り物を小さくした模造品で、おもちゃってのは遊ぶためのものだな」
「遊ぶ、何?」
今日はいつにもまして攻勢をかけてくるな。俺は既に疑問符の海で溺れそうになりながらも懸命にビート板にしがみ付いてこの質問の対岸を目指した。
「遊ぶというのはつまり、生きる上で必要の無い・・・いや違うな、生命活動の上で必須では無い行為のことだな」
トワが傾げていた首を反対側に傾げ直した。
「何故そんな非効率的なことをする」
「相変わらず女性的でない物言いをするなぁお前は」
俺は彼女には理解出来ないだろうなと腕を組んだ。何故ならこの少女には死の観念が無いからだ(直接訊いたことはないが、普段の会話から彼女の死生観の欠落は推し量れた)。人間は生物である限り死に囚われている。だからこそ自身の生を証明したがり、生に実感を求め、実体験による刺激や発見を欲する。遊ぶという行為は、言わばその刺激に当たるものだろう、と俺は考えていた。だからこの無垢過ぎる夢の少女には恐らく説明しても理解出来ない。
「そうだなー、たぶん進化とか創造というものが効率とか鉄則とかそういったものの外側から生まれるものだからじゃないのかな。非効率的だけど、発展的なんだよ」
少女は俺の言葉をしばらく頭の中で反芻しているようだったが、なるほど、と短く呟いて納得を示した。俺がホッと一息ついていると少女がにじり寄ってきてこう言った。
「遊んでみせて」
「・・・え?」
「遊んでみたい。でも遊び方が分からない。だから遊んで私に見せて」
困ったことになった、と俺は思った。トワの暇つぶしになるだろうと安易な気持ちでわざわざ押入れからミニカーを引っ張り出してきたことを心底後悔していた。埃まみれの玩具箱からミニカーを取り出す俺を見て「まさか高校生にもなってそれで遊ぶわけじゃないよね?」とからかってきた妹をその時は無視したが、今その質問に答えようと思う。そうだ、お前の兄は今からミニカーで遊ぶ。俺は小さかった頃の気持ちや楽しみ方を精一杯思い出しながらトワに説明を始めた。
「ええと、まず跪きます」
少女の前で四つん這いになり右手で持ったミニカーを接地させる。
「そして、掛け声等をつけて前後に動かします」
ミニカーの車輪がコロコロと回る音が静かに響いた。
「・・・掛け声とは?」
「・・・ぶーん」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「なるほど」
今日学んだこと
ミニカー・・・おもちゃと呼ばれるグループに属した物体。
・創造性や進化の獲得を目指しミニカーで床面を磨く彼の姿を見て、私は進化という行為はやはり難渋極まりないものであるという確信を得た。彼を真似て少しづつ実験を繰り返して探っていくしかない。