討伐前夜
懐かしい香りが俺を包み込む。
暗く湿った空気が、乾いた喉を潤していくようだった。そして妙に蒸し暑いことに、遅まきながら気付いた。
重い瞼をそっと開けながら、俺は周囲を見渡した。
うん、異常なし。
「んー、ふわぁ」
変な声をあげて伸びをする。人には聞かれたくないほどに変な声が出た。
相変わらず誰もいない。机と椅子が規則正しく並んでいて、その他は特に何もない。まあ普通の教室だ。
至極当然のことである。今は夜だし、この蒸し暑さは……雨が降っているようだ。
「うわ……傘持ってきたっけな。あー、朝、天気予報で言ってたけど、持っていかなかったんだよなー……」
あーあ、風邪引くぞこりゃ。
椅子を引いて俺は立ち上がった。もう十時間くらい動かしていない身体が悲鳴を上げた。背骨が軋み、足も思うように動かなかった。思ったより疲れがたまっていて、寝ているだけでも疲れるんだと感じる。
クラスメートの机を支えにして、俺は教室の出口を目指した。規則正しく並んでいたものが少しずれたりしたが、気にしない。
俺が目指す場所はすでに決まっていた。
また、保健室に行くのだ。そして春乃と合流した。まだはっきりとは思い出せないが、あの夢の中で、春乃に言わなければいけないことがあった気がするのだ。
「この状態、前より悪化してるだろ……歩きづれぇ」
かろうじて廊下へと歩み出た。生暖かい風を肌で感じる。やはり雨は降っていて、窓が閉まっているのにも関わらず、廊下の空気を濡らしていた。
こんな時間でも、電気はついていた。それは、付近に小さな影を映し出していて、俺は何事かと影が差す方向を目でたどる。
「沙輝、遅い。何をしてた?」
「おわ、春乃!? なんでこんなとこに?」
スレンダーな体型を持ち、耳にかけた髪をいじる怜悧な少女は、俺の知る限りでは春乃しかいなかった。クラスメートにも春乃の他には見覚えはない。
「つか、なんでお前だけ保健室なんだよ。そんで持って俺だけ教室に放置とかさ……」
なんで誰も起こしてくれないの? それは――、
「沙輝が空気だから」
その言葉は、俺の胸に重く沈み込んだ。他人にそう指摘されると改めて傷ついた。こ、心が痛いです。
俺が悶えていると、春乃は一歩前へ歩み出て宣言する。
「私はまだ、あの答えを聞いていない」
「唐突に言われてもな……。ちょっと時間くれよ。まだ記憶が安定してないんだ」
まだぼやけてはっきりとはしていないのだ。その状況で何か言われても、今の俺には記憶を連結させることはできない。
「だったら、いい。全部、終わったら…………聞かせて」
まるで消え入るかのような声で春乃は漏らした。そして何も言わずに元来た方向へと歩いて行った。上履きが床を叩く硬質な音だけが無音の空間を満たしていく。
足が固まって言うことをきかなかった。先ほどのものとは違い、縛り付けられて、動くなと命令されているかのような……。つまりは、精神的に制御されているのだ。何かに恐れを感じ、それから逃避するかの如く、俺の身体は動かなかった。
「ま、待てよッ!」
それでも、口だけは達者に動くようだった。俺の心からの悲痛な叫びのようにも聞こえた。
「待てない。……待てないよ」
春乃は俺に背を向けたまま逃げ出した。俺が動けないでいるのをいいことに、どんどんその距離は大きくなるばかりだった。
やがて曲がり角はやってくる。その先からは、俺が知る範疇ではない。
その前に呼び戻すことができなければ、また次の機会を待つことになる。その次の機会まで、俺はこのことを思考しなければならなくなってしまうのだ。
それはわがままか? だったらそれでもいい。
「春乃ー!」
手を伸ばしてそう訴えるが、その声は届かない。
俺は、春乃の世界との大きな溝を実感した。
「くそッ」
俺は地団太を踏んだ。
あれ? 足動いてるじゃん。
今からでも遅くないだろうか。
俺の足の速さで、彼女に追いつくことはできるのだろうか。
そんなことは愚問だ。
俺は今できることをするだけ。
――できなくてもするだけだ。
「待てよッ!」
追いつかないかもしれない。そんな気持ちはとうに吹き飛んでいた。
一風変わらない景色だが、俺は確実に前へと進んでいた。
相変わらずの窓の連鎖が、俺の達成感を削いで何度も心を折れさせる。
どこにいるかなんて、全然見当がつかない。会える保証なんてない。もう帰ってしまっているかもしれない。
もう一階だ。
保健室に行けば、西園勇がいるだろう。彼に訊いて見つからないとなれば、もう諦めるしかない。それにもうこんな時間だ。この前送った、春乃の家まで行くわけにもいかない。一緒にいるのならまだしも、一人で行くのなんて俺にできるようなことではない。
滑車を滑らせて保健室へと乗り込む。薬品の臭いが鼻をついて俺はむせた。部屋の電気はついているし、人の気配もすることから、西園はまだ滞在しているようだ。
「西園先生!」
保健室全体に響くように、俺は声を張り上げた。端っこに寄せられたベッドの内の一つから、伸びをする時のような、情けない声が上がる。
「さっきはどうした、紫ノ山……って、その声はーっと、あれか、礼堂か。どしたん?」
寝起きのようだ。だが、仮眠していた程度のもののようで、しっかりと思考能力は機能していることがわかる。もともと高くはなさそうだが。
「春乃を見ませんでしたか?」
「春乃って、……ああ! そういや、お前らどんな関係なんだよ。教えろや」
緊迫した俺の状況とは裏腹に、西園は快活に笑った。
もはやこの人を相手にしている暇はなかった。既に答えは出ている。
「もうどうでもいいですよ。じゃあ、さようなら!」
来た時と同じようね俺は保健室から飛び出した。
「くそッ。くそッ!」
校舎から外に出る。
「わ、わわわわわ!」
降ってくる冷たい何かの正体が、はじめは何かわからなかった。そうだ、雨降ってたよな。
「ダメだこりゃ……」
ゆっくり帰ろうかと、ため息をついて座ったその時、俺の目の前にスッと影が差した。
降ってくるものが遮られるのを感じ、俺は天を見上げた。
「使って……」
険しい表情をした少女から放たれた一言と共に、俺は傘を受け取った。
「春乃!」
何も言わずに、春乃は走り去っていく。傘は俺に渡したものしか持っていなかったらしく、全身は次第に雨に濡れていったようだった。
俺は脱力してしまい、立ち上がることすらできなかった。
「はぁ……なにやってんだろ、俺」
曇天の夜空は、いつまでも晴れることが望めなさそうだった。
「なんか悪いことしちゃったな……」
しかし、使わないというのも悪いので、俺はその傘をさして帰路へとついた。
*
翌日。
いつもより早く家を出た。七時現在の温度は比較的低く、走っても涼しいくらいだ。汗なんて全然出なさそう。
空はからっと晴れていて、昨日の雨が嘘のようである。
もちろん、昨夜、春乃から借りた傘は持ってきていた。藍色の細長い傘。柄の部分はそれほど長くなく、手のひらサイズでとても握りやすい。どうでもいいが、春乃の微妙なこだわりに気づいた。
俺は学校へ着き次第、いつ眠るかわからなくなる。春乃はその予兆を知っていて、その時が近づくと保健室へ行くそうだが、俺の方はなんとも言えない。春乃曰く、春乃とはほとんど時差がないそうなのだが、案の定担任と仲
が悪く、彼女のように持病だなんて嘘はつけなかった。ついでに言うと、春乃は学力が安定しているから認められているらしい。それに比べて、悪くはないが上下の差が激しい俺の場合、遅刻すら許されない。当たり前か。
大きな幹線道路に沿って歩くこと十分。一昨日、春乃を家まで送った時は歩いて帰ったが、この先の信号を左に曲がった先にある駅へ行けば、電車に乗れる。ちゃんと駐輪場もあり、整備されて利用しやすいのだが、俺は敢えて歩いて通っている。なぜなら、乗れないのだ。
恥ずかしながら、俺は自転車に乗れない。中学生の時にも孤立していたのだが、その原因の一つは、遊びに誘われた際に歩いて行き、自転車で遠くへ行こうとなって、行けずに帰ったのが原因なのである。それから、自転車に乗れないという噂が広がり、誘われなくなり、ついには話す人が辛うじている程度まで成り下がってしまったのだった。
もうどうせなら、この傘盗んじゃうゾ。
もちろんそんなことはしないが。
くだらないことをしている内に、もう駅の前である。ちゃんとチャージされているICカードをかざして、改札の奥へと入った。
そろそろピークの時間帯だろうか。
何の? ラッシュなのだよ……。
俺は入ってすぐに人混みの中に紛れた。必死に上を見上げながら、目当てのホームを探し出す。
すぐ出前にある二番線。
ホームへ向かう長い階段を上りながら、俺はこう思った。
きっつー。
そして電車に揺られること十数分。
俺は命からがら高校の最寄り駅へとたどり着き、事なきをえた。それに安堵する間もなく、急いで高校へと向かう。昨夜、完膚無きまでに避けられている手前、先回りしなければならない。
それから、五分ほどかけてちゃいろの質素な校門の前まできた。数メートルの距離を置いて立つ二本の柱が、それらしい雰囲気をもたらし、開け放たれた門扉が、俺の気持ちを奮い立たせた。
さあ、勝負の時である。
靴を脱ぐのももどかしく、俺はクラスへと急いだ。春乃は学校に来るのが早い方である。それはもちろん、寝てしまうのが一番の理由であろう。もし登校中に例の眠気が襲ってきてはひとたまりもない。いくら時間が定まっているからといって、油断するわけにはいかないのだ。正体や仕組みもわかっていないのでなおさらである。
階段を二段飛ばしで上り、左に折れて真っ直ぐ行ったところにある俺のクラス── 一年四組を目指す。リノリウムの床を叩く音がやけに硬質で、妙な安心感を得た。
自然に急いでいった自分に苦笑い。
そのまま勢いに任せて教室のスライドドアを引いた。
滑車が転がる、軽快な音をさせて俺は教室の中へと一歩を踏み出す。
中には、やはり春乃しかいなかった。
窓が開いていて、梅雨の時期にしては珍しく晴れた天気の生暖かい風が、俺がドアを開けたことによって教室を通過する。それに合わせて、前の方の自席で静かに読書をしていた春乃のセミロングの髪が、ウェーブを描くように美しく揺れた。それはまるで幻想的なようで、見るものをみんな虜にしてしまえるようなものだった。
その姿に見とれてしまったせいで、俺は声をかけるタイミングを失ってしまう。
無言のまま、数秒の時が過ぎた。時計の秒針の微かな音がはっきりと耳の中に入ってくる。
そんな中、やや低めにして透き通るような声が沈黙の中に響いた。
「沙輝。まずは、おはよう」
少し強ばった声だった。何かに恐怖心でも抱いているのだろうか。
そもそも、俺は何故避けられていたのだろう。特に何かしたわけではないはずだ。無意識というのもあるが、ここまで深刻な状況になるようなことをした覚えもない。……それが無意識か。
このままずっと黙っておくわけにもいかないので、俺も挨拶を返す。
「……おう、おはよ」
二人の間にぎこちない間が空く。はっきり言うと、俺はこのような間が好きではなかった。理由は言うまでもないだろう。
そして、俺がここで言わなければならないことが固まる。
勇気を出して、その一歩を踏み出した。
「き、昨日はごめん。そこまで傷つくとは思っていなくて……。雨、大丈夫だったか? 傘ありがとうな」
そう言って、俺は右手に握られていた藍色の傘を差し出す。だが、春乃は依然振り返ることはなかった。
遠目から見るに、肩がわなわなと震えていて何か様子がおかしい。春乃はそんな状態を隠すかのようにして、手に持っていた文庫本を勢い良く閉じた。
「別に、傷ついたわけじゃない。これは、私の問題だから。自分のことは自分で片付けるから、今はそっとしておいて。傘は……、傘立てに置いておいてくれれば、持って帰る」
「風邪、引いてないよな?」
「問題ない」
「ならいいが……」
そして教室をあとにした。誰かこいと、そう願った。
俺はこのあと、どこかで時間を潰すつもりだ。まだしばらくはもつだろうし、何よりあの空気で二人きりになるというのは、俺としてはどうにも気まずかった。気恥ずかしさもあるかもしれない。
傘立ては当然のように下駄箱のところにある。今日は晴れているので、まさか他に持ってきているやつはいるまい。これといって何があるわけでもないが、俺は先を急いだ。
もういっそ、トイレに籠ってしまおうか。
まあどちらにしろ、もうじきレム睡眠になる予定だ。
だったらもうこの後の戦いに備えるしかないだろう。心理的な余裕を持っておけば、より効率的に練習を積むことができるはずだ。