休息のひととき2
日常を変える、それはとても容易いものだった。
ふとした偶然から、目に見えている世界が一変する。そんな簡単でありながらも奥深いこの世の中は、俺は嫌いではなかった。でも、現実は好きじゃない。厳しいから。
誰だってそう思うだろう。なぜなら、現実が厳しいのは俺一人だけに対してではないからだ。誰にでも厳しく等しく情けをかける。でも、平等のようでありながら、関係を見事に差別化する現実は、絶対に好きになることはないだろう。密接な関係なのに。
だから、この世界は……この世界だけは馴染むことができると思ったのだが、なんだろう。この虚脱感は。
恐らく願望だけでできていると勝手に勘違いをしていたのは俺だけだったのだろう。少なくとも、隣りにいるこの少女は、この世界の本質を理解している。
「勘違いは仕方ない。気を落とさないこと」
その少女が、俺の思考を読み取ったが如く、忠告してきた。
「勝手に俺の思考にリンクしてくんな!」
「うん。……沙輝は、早くこんな現象からおさらばしたいと思う?」
「何か俺への問いかけがやけに多いな」
「世界は、自分を中心に回る。でも私にとって、自分とは二の次だから。他人を優先しなきゃいけない。…………のは私だから」
俯く春乃はため息をついた。
「どうしたんだ?」という俺の問いかけを無視しながら、尚も思考を続けているようだった。
そして、春乃は自分の頬を叩くと同時に立ち上がる。その目は決意に満ち溢れていて、俺は恐怖すら感じてしまった。
「沙輝。私は決意した」
走れメ◯スかよ。
「今度こそ、答えて。こんな現象からはおさらばしたい?」
重い。言葉に乗せられた質量は、俺が思うよりも重い。
答えることがはばかられる。
だが、俺は答えねばならない。
どっちだ? 俺が求められているものは。
求められている? それも違うかもしれない。
俺が惜しいだけなのだ。
俺の一言で世界との関係が変わる。その意識こそが、春乃の問いかけの真理なのかもしれない。
「俺は、これがもし夢なら、覚める義務があると思う。執着してたら、逃げてるのと一緒だ。だから、俺はおさらばしたい。今この瞬間が楽しければそれでいいからさ」
未練たらたらで俺は言った。春乃はもう十ヶ月くらいこのままらしい。もしそれが続いて行けば、勉強の邪魔になるだろうし、影響もいいものじゃない。
男の精神が叫ぶ。
「沙輝は無理を……」
「いや、わかった。俺は、早くおさらばしたい!」
俺は鼻高々に宣言した。何か気持ちよかった。
「……もう。私は厳しい。でも、……着いてきてくれる?」
「俺は逃げたりしないさ」
「短時間で仕上げる。時間はない」
「じゃあ、今からだな。終わるための仕組みがなんだか知らんが、俺は努力する」
「じゃあ……、腕立て伏せから」
「まさかの筋トレですかッ⁉︎」
「冗談。筋肉は関係ないから、無意味に等しい。それよりも、イメージ力が必要」
「そうかもな」
俺はその場から立ち上がる。
現実とは違い、背中には頼もしい重量があった。いや、鎌とか頼りになんのかな……。
「沙輝。いい土台がやってきた」
「練習台だろ……」
踏むのかよ。ていうか、モンスター的な奴を倒すもとい、殺すのは気が進まない。
だって、動いているんだよ? 虫とかを潰しちゃうのとはわけが違う。いや、それも動いてるけど。
やってきたのは、例によって、昨日相対した狼らしき動物。もちろんのこと、個体は違う。
「シャー‼︎」
鼻息を荒くして、こちらを見定めている。
「ねぇ、威嚇してんの? コイツ」
「え? 何を言っているの? 当たり前」
そして、春乃は後退る。
「最初から俺一人ですか……」
倒し方なんてよくわからない。特別に特訓したわけでもなく、もとより、鎌を振っていた経験があるわけでもない。
俺は、春乃のサポートを待つしかなかった。
けれど、彼女は戦意がないのか、武器の準備はしていないし、むしろ俺から離れていく。
「ちょ、ちょい! 待てよ‼︎」
「断る。そいつは倒しておいて。私は遠くで見ている」
「殺すのか……?」
「慣れれば大丈夫。最初の一回だけだから。それを克服すれば、いくらでもいける」
はぁ。
俺は溜めていた息を吐く。
「本当かよ……」
相手は、人じゃない。
一回やれば大丈夫。
自分に暗示をかければかけるほど心配になってきた。が、それでできなくなるほど、俺は男として機能していないわけではない。
「やってやろうじゃん……」
鎌に手を掛け、背中からこちらに引き寄せる。驚いたことに、背中には革のベルトが付いているのだ。
もう勇者になっちゃった気分。鎌なのが非常に残念。
相手はというと、こちらを眺める限りで、まだ攻撃してこようとはしていない。今がチャンスか……?
とは思ったものの、攻撃に出るのは自重した。俺の記憶によれば、もうじき攻撃をしかけてくるはずなのだ。
鎌を構え直す。鎌だけに。
唸り声を上げて、狼のような動物は俺の周りを駆け出す。春乃は、だいぶ遠くまで離れていて、攻撃の範疇にはなかった。おい。
「シャァァァ‼︎」
狼らしき動物──もう狼でいいや──は、俺に飛びかかってきた。毛むくじゃらの物体が近づいてくる。それには、原始的な恐怖すら感じていた。俺は、窮地に弱いタイプだ。その行動力のなさには定評ある。
もうダメだ。
はっきりとそう思った。
でも、それだけで終わるのはダメだろう。
せめて、ダメージを与えてやろうと、振り切った鎌が空を切った。細い柄が空振ると、その先に付いてる刃の重さが伝わってきて……って、中々重いな。
「どいてっ‼︎」
背中から圧力が加わり、俺は前かがみに倒れこんだ。両手で受け身をとる。
「はぁぁぁああああ!」
狼の身体を、真っ赤な光線が貫いた。否、真っ赤な残像だ。
狼は身体から血を撒き散らし、霧散した。
……え? 消えるの?
「危なかった……。沙輝、無事?」
「……ああ。血がドロドロだけど。えーっと、なんだっけ? その、ゾンビにはなんないのか?」
「今のが、ファイナルブロウだから。大丈夫」
「つえーな……」
春乃の手には、血の付着したサバイバルナイフ。その手は少し震えていた。
「どうしたんだ?」
「ちょっと……ね。それよりも沙輝。もう少し強くならないとダメ!」
「すんません……」
「特訓……しよう」
「……はい」
ものすごい剣幕で責め立てられて、断れるほど、俺に勇気はない。……ないのかよ。
驚くほどのスピードで走る春乃に、一生懸命ついて行った俺がたどり着いた先は、武器屋「かたぎり」だった。看板に書いてあるだけなので、本物かどうかは怪しい。
「──で、どういうこと⁉︎」
「使い物にならないから、武器を変えましょうと提案」
「いや、意味わからん。まあ変えたいのもやまやまなんだが……」
でも、鎌ってオンリーワンなんでしょ? そのまま使いたいよー。
言動が一致していないな。俺も末期か。
「そんなわけにもいかない。わかってる?」
エスパーかよ。
「ああ、わかったよ。よくわからんけど、変えりゃいいんだろ?」
まあ、剣の方が格好いいしな。
俺は投げやりに鎌を背負い込むと、「かたぎり」のショウカウンターへと向き直った。古ぼけた木のそれは、真っ平らで、塵一つない。古いけど、きれいに磨かれていて、店長のマメさがあらわれていた。でも、本当に滑らかで……
「なんもねぇー‼︎」
ショウカウンターじゃないのかよ。じゃあこの、無駄に大きな外装は何? どっかの工房なの?
そして、誰もいない。もうすでに潰れてるとかだろうか。とことんリアルな夢である。
「春乃さん、これはどういう?」
恐る恐る聞いてみる。すると、春乃は目を丸めてじっと何もないショウカウンターを見つめていた。
「さあ? いつもは、いるのに……」
その表情からは、嘘を読み取ることはできなかった。従って、本当のことなのだろう。
にしても、本格的にわけがわからなくなってきた……。俺の理解の範疇をこえてきたぞ⁉︎
「そもそもNPCとかいないのか?」
オンラインゲーム──ここが果たしてゲームなのかは不明だが──のこの手の店では、普通ノンプレイヤーキャラクターことNPCが店番をしているものである。俺がやってきた数々のゲームでも、ほとんどがそうだった。もし例外があるとしても、NPCが設置されていないものは見たことがない。だって、ログインしてもずっと店番じゃつまんないじゃん。
だが、春乃は俺の考えを上回る答えを話し出す。
「ここは、女の子が一人でやっている店。それに、NPCは私達が自由に配置できる存在じゃない。できるとしても、もっと上位の称号を持っていないと……」
「称号、ねぇ……。それがこの夢のステータスか?」
「そう。とある称号を手に入れた状態で魔王に挑めば、この夢を終わらせられる」
「なるほどね……」
討伐条件を満たしてから、ボスを倒すタイプのやつか。案外先は長そうだ。
それにしても、魔王ね。久しぶりに聞いた。最近王道のファンタジーに触れてないからなぁ。
「それで、称号入手の手順を聞くのも兼ねてここに来たけど……」
「店長がいない、と」
「その通り。捜す?」
「どうやって? 見当もつけずに捜すとか無謀なのもいいところだぞ?」
「店長は戦闘は普段しない人だから、そこまで遠くには行っていないと思う。もし、何かの事情がなければ」
「その何かが知りたいんだけど」
「む……わからない」
だろうよ。
俺だってわからない。会ったこともないし。知人である春乃が知らないとなれば、待つことしか手段は無くなる。
また、いつ眠くなってくるかはわからない。
「今はずっとこうしてても仕方がない。もし見当をつけられるなら、さっさとそこを捜しに行こうぜ。特訓もできたら一石二鳥だし」
「それもそう……」
俺が提案すると、春乃は思案顔をして見せた。目を瞑って口を閉じ、手を組んで唸り声もらす。
「どうだ?」
俺には問うことしかできなかった。そもそも、ここにこだわる必要はあったのだろうか。ゲームなら、違う街にいけばいくらでもあるのだ。さすがに知人がやっているのはそう数多くはないが。
「先に特訓をやるのが効率的かもしれない。沙輝、行こう。この先にいいところがある」
自信満々に言うので、俺もつられてしまった。
「ああ」
とはいえ、断る理由もなかったのだが。
「こっち。平原がある。草もあるし、より地上に近い」
「へ、へぇ」
俺は頭を掻きながら思った。
──リアリティ追求する必要あんのかな。
一度街の中に戻り、俺は紫ノ山が歩いていくのについていく。建物はやはりつくりがしっかりしていて、とても雲の上にあるとは思えない。それに、整備されているアスファルトも、踏みしめればちゃんと硬さがあった。
俺はまだここが夢の世界だとは割り切れていない。確証に欠けるのだ。夢だったら夢で、もっとファンタジックなものでもいいではないか。なのに、こんなに殺伐としてるとは。
無言のまま、十分は過ぎていた。なのに未だに街の中。思いの外大きい街だったようである。
「なぁー春乃ー。あとどんくらいかかんの?」
ごねる子供の如く、俺は問いかけた。高校生にでもなれば、もう大人になったも同然かと思っていたのだが、まだ子供だったか……。
それって俺だけかな。
「わからない。でももうすぐ」
単調に春乃は述べた。そういえば、彼女の歩幅は、歩き始めた時から一切乱れていなかった。息が切れている様子もない。まあ当たり前か。
だが、気になることはある。
「春乃、よくそんな重そうな剣を持ってて疲れないな。実は見かけだけで重くないとかか?」
俺の絡みに嫌気が差したか、春乃は急に立ち止まる。おいおい立ち止まると迷惑だぞ? とはいえ、人通りがないので実はそうでもない。俺が疲れるだけ。
「この剣は……呪いそのもの。だから、私は重くても背負い続けなきゃいけない……」
「ど、どうした?」
動揺を隠せなくなった俺は聞き返した。即答、なんてことはなく、春乃は少し間をおいてから話し始めた。
「称号剥奪だけは……やっちゃダメ。わかった?」
ものすごい剣幕で春乃は俺を畳み掛ける。大きな瞳が細められ、鋭い視線が俺に降り注いだ。
でも、まず話してもらわないといけないことがある。
「や、そのー、称号剥奪とやらをまず教えてくれませんかねー……」
なぜ敬語⁉︎
我ながら驚いた。臭いものに蓋はできても、怖いものに蓋はできなかったようだ。
遅まきながら、俺の膝が震え始めた。これだけ長時間睨まれたのは、いくら避けられるような存在でも経験したことはない。……また俺は新たな経験を積んだ。
とてつもない緊張感に包まれる。
「あっ……!」
頓狂な声とともに、春乃は崩れ落ちた。まるで背負い込むものの重さに耐えかねたような様子でもあった。
「お、おいっ‼︎」
俺は慌てて駆け寄る。間一髪のところで、俺は春乃の身体を支えることに成功した。その華奢な身体を支えることとなるのは二度目である。だが、今回は幸せなことを感じている余裕はなかった。
「春乃!」
春乃は浅い呼吸を繰り返す。そして、健気に俺の肩を掴んで自らの足で立ち上がろうとする。
「……‼︎」
尚も春乃は立ち上がろうとするが、どうにも上手くいかないようだった。それでも呼吸のペースは乱れていって、とても大丈夫な状態とは言い難かった。
「一回落ち着けッ!」
俺も春乃の肩を掴んで姿勢を安定させた。
「私は……ッ! 私は…………ッ‼︎」
もはや正気の沙汰じゃない。
俺が姿勢を固定していた努力もむなしく、春乃は俺の手を振り払おうとした。
「ちょ……おい!」
春乃が手を後ろへ抜いたのにつられて、俺の身体が前傾姿勢をとった。当然、バランスを維持できる筋力を持ち合わせていない俺は、前のめりに倒れこむ。
……これは不味いな。
「お、落ち着いたか……?」
こわごわと俺は問う。
目を瞑り、あたかも待っているかのようにじっとしている春乃を、俺はどうすることもできずに見つめる。
押し倒したようになっているこの状況で動けるはずもなかった。
やがて、春乃は目を開けた。
「う、うわぁッ‼︎」
「……っ!」
鳩尾に手刀が食い込み、俺は後方へ一メートルくらい吹き飛んだ。春乃は胸の辺りで手を交差させて、防御体制をとっていた。どう見ても遅いが。
ここで動揺していても仕方が無いので、俺は平静を装って再び春乃に問いかける。
「ど、どどどどどうですか⁉︎ おおお落ち着きましたでしょうかかかかか⁉︎」
……思いっきり慌てていた。下手くそだな。
「も、もう大丈夫。だから、もう……あんなことしないで」
その体勢を維持しながら、春乃は言った。……拒絶が怖いです。
目は口ほどに物を言うというが、まさにその通りで、鋭く細められた瞳は殺気を帯びていて、眉はつり上がっている。その鬼の形相で見つめられた時、俺が縮み上がってしまうのも無理はない。
「……」
完全に言葉を無くした。
本当に情けない様になっていることだろう。
そんな状況を、一転させる出来事は、その数秒後に起こったのだった。
「誰ッ?」
突如、春乃は冷たい声で呟いた。あまりボリュームが無かったのにも関わらず、その声はこの無音空間を引き裂いた。
「あーあ、バレちゃったかぁ……」
俺の背後から、ふわっとして柔らかく、かつおっとりとした声がした。
え? ……マジで誰なの?