休息のひととき
木の匂い。
森などで感じるようなものではなく、一般的な中学生、高校生が日常的に感じる何の変哲もない──
──教室の匂い。
床に木のタイルを用いているから、ごく当たり前のこと。
そのごく当たり前のことが俺は嬉しかった。
窓に目をやると外は暗い。
「はあッ!?」
思考が至り、俺は椅子を倒して立ち上がる。辺りを見回すと誰もいない。というか暗いから見えない。
が、不思議と夜目は効いていて、うっすらとならやっぱり確認できた。
そう、誰もいない。
携帯の待ち受けを開くと、時刻はもう八時を過ぎている。
「こんな時間じゃ、誰もいないのも当たり前だよな……。というか、何で学校にいるかが一番気になるんだが……」
それでも、特に何かをするでもなく、俺は教室を出るため、必死で目を凝らしながら進む。
教室をでると、無人の廊下が俺を出迎えた。先日の雨で湿度は高め。だが、さして問題ではなく、行くべき道は月によって照らし出されていた。
リノリウムの床を上履きが叩く。廊下が無人だから余計に反響していた。
人の話し声までも。
「……おう…………?」
「……」
……何かすごく嫌な予感しかしなかった。怪しい。
「ひょっとしなくても、西園先生だよな。声が、あの人だ。もう一人いるっぽいけど」
俺は少し歩調を早めた。普通は避けてさっさと帰るべきなのだろう。
けれど、何か行かないといけないような気がした。あと、何で俺を起こしてくれなかったのか問いただしたかった。実はそれが八割だったりする。
一階に降りると、保健室で照明がついているのが見えた。
ここまできて、恐る恐る近づく。
ドアの隙間から、中をこっそりと覗きみた。
実は俺はものすごく大変なことをしているのではないか、そんなことを考えてしまったが、まさにその通りだ、と飲み下す。
自分でやっておいて自分で傷ついた。
「今日はもう大丈夫なのか? まあ、しばらく意思が保持できるんなら、あんまり心配はないと思うが……。ただ、無理だけはするなよ」
そう西園勇の声が響くと最後、西園先生ともう一人であった、紫ノ山春乃(の可能性)が「ありがとうございました」と返事をした。
──不味い。
会話を終えたのか、誰かしらの足音がドア──俺がいるところにやってくる気配があった。
ここぞ、という時に限って己の体は動かない。くそっ!
せめて、このかがんだ大勢だけは止めておこうと立ち上がったところで、保健室のドアが開いた。
「沙輝?」
「や、やあ」
春乃が出てきて、よほど驚いたのか、数秒硬直していた。無意識に開いた口、ずっとベッドで寝ていたのか、若干乱れた黒髪が、彼女を一枚の絵として成り立たせる。呆気にとられた表情の春乃は美しかった。
「おう!? 礼堂じゃねえか。何でいるんだよ。えーっと、……もう八時だろ」
「えー、まあ、アレですよ……」
「アレとは?」
何故か春乃が便乗してくる。
「補習というか……」
俺が苦し紛れに言うと、
「俺以外の他の先生ならとっくに帰ったぞー」
能天気な声で西園先生は宣う。
「トイレにこもっていたとか……」
「沙輝、便秘だったの?」
「そうじゃないんだが……」
「じゃあ何だ?」
西園先生が俺に顔を近づける。その顔には、ニヤニヤとした意地の悪い表情が浮かんでいた。
つまり、
「さては、遊んでたなっ!」
「当たり前だろ。こんな面白いやついないわっ!」
「先生……欲望のままに行動しないで下さいよ」
「それができるのも、先生である俺の特権だ」
本人は、何故か一本取ってやったぜみたいな、誇らしげな表情で言う。
全然誇れるようなことじゃない。むしろ悪どい。
「……あ~とにかく、もう夜遅い。だからって俺が送ってやることはできんが、そろそろ帰れ」
収まらない空気を感じたのか、西園先生は自制をかけた。自由奔放にやっているのかと思いきや、実は制御もしているという、意外にもしっかりした人物なのである。
「遅くまですみませんでした。明日もお世話になります」
春乃が、ものすごく定型の挨拶をすると「俺はいつでも大歓迎だからな」と西園先生は返した。
「やっぱり変態じゃないですか」
思わずつっこむ。
「国語の成績ゼロな」
なんだよゼロて。聞いたことねぇよ。
「止めて下さい」
でも、そんなことされてはひとたまりもないので、一応断っておいた。
「じゃ、変態を取り消せ」
「私は似合っていると思います。あだ名として」
「そうか?」
「春乃に先生。ネーミングセンスどうにかしてますよ」
「私は別に」
「そりゃ結構。……って、お前らいつの間にファーストネーム!? ……わかった。明日聞かせてもらおうか」
話が妙な方向に傾き始めている。さっきのは果たして挨拶として受理されていたのだろうか。
ともかく。
「じゃ、俺は帰りますんで」
俺は保健室のドアに手を掛け、滑車の音を響かせながら無人の廊下へと出た。
「私も帰らせて頂きます」
丁寧に、春乃も挨拶をして出てきた。
「礼堂は居眠りなんてしないで、紫ノ山も無理はすんな。わかったら帰れ」
と、まあ威勢良く追い出された。
俺は会話を振ろうとしたが、こういう時に限って特に話題が浮かばない。
俺は歩みを進めていく。沈黙から逃げようとするかのように、歩調はどんどんと早くなる。そして、不思議なことに、春乃までも俺に合わせて来ていた。寸分違わぬリズムで。
「沙輝はいつもこんなに早く歩いているの? イメージと違う」
「最後のは意味不明だが、いつもはこんなに早くない」
「じゃあ、何で何かから逃げるかのようしてこんなに早く歩く?」
「ほとんどわかってんじゃねえか!」
俺は歩みを止めた。
同時に春乃も歩みを止める。機械かよ。
「そう言えばさ……。俺、今までずっと何してたんだ? 学校にいた記憶がない。そして、何でこの時間まで寝てたんだ? 誰も起こしてくれなかったし」
「覚えていないのも無理はない。所詮は夢と同じようなもの。意識していなきゃ忘れちゃう。むしろ意識していても曖昧。……覚えていてくれたのならばそれでいい。私と、今日何をした?」
鬼気迫る表情で春乃は俺に問うた。
白く靄がかかった記憶。
夢。
春乃との交流。
何か閃きそうなものはあるが、はっきりとはしない。つい最近は覚えていたような気がするのに、思い出せない。
「……春乃。俺の頭叩いて?」
俺が言い切るや否や、春乃は俺の頭に手をかざす。「え?」と俺は間抜けな声を漏らしたが、それは杞憂に終わった。
「……いっでえええええええええ!」
その状態からノーモーションで繰り出された平手は、重打撃を俺の脳天に与えた。どこからそんな力が……。
「これでいい?」
「充分すぎるぜ……」
俺は頭を摩りながら答えた。
そう、これでいい。
もし記憶を失っていたりするのならば、俺の場合はこれで戻る……はずだ。
「……思い出せねえよ……」
「なら、もういい」
春乃に冷たく突き放される。だが、俺はそれを拒否するかのように、彼女へと声を掛けていた。
「──俺が、本当に記憶を失っているのなら、お前のことを、春乃と呼んだりはしないはずだ。まだ、紫ノ山と呼んでいたっておかしくない」
その声がどこから出たのか、それは俺にはわからなかった。
しかし、それがトリガーとなったのは確実だった。
「早い。もう全て思い出したの?」
春乃が俺を冷たく射すくめるような目で見つめた。それはまるで記憶の真髄を見透かすかのようでそうでないようで……。
俺は、彼女の勇ましい姿を思い出した。大剣を背負い、腰には短剣を下げている。服は特に何ら遜色のないものだったが、その存在感だけは意識するまでもなくあった。
「おめでとう。私は一週間掛かったんだけど、思ったより早かった」
そう言ったあと、春乃は「夢って意識して記憶するのは案外難しいものなの」と付け加える。
「つまり、思い出したってことでいいんだよな?」
「無論、その通り。──沙輝、今すぐ走って! 先生がもうじき出てくる!」
「わ、わかった!」
俺たちは無人の廊下を走った。湿った空気が息苦しさを感じさせたが、見つかったが最後、翌日に質問攻めにでもされそうな勢いだったので、恐怖の方が勝った。いや、それはさっき確定してたわ。
そのまま下駄箱にたどり着き、素早く靴を履き替えて学校をあとにした。あとは気づかれていないことを祈りたい。
高校の近くを通る川の土手で、俺は立ち止まった。それに合わせて春乃も立ち止まる。またもや寸分と違わない。
苦し紛れに夜空を見上げた。あまり天体に詳しいわけではないので、初歩的なことしかわからないのだが、息切れの中では尚更わからない。
春乃も俺に倣って上を見たようだった。
「綺麗……」
春乃の口から声が漏れる。他人からすると、本人の立ち姿も同等に綺麗に見えた。
「……」
何かを口にしようとして、言葉に詰まる。沈黙が重かった。
やがて、俺の息が整う。それを見計らったかのようなタイミングで、春乃が口を開いた。
「で、どこまで思い出せたの? 私が仕組みを話したところまで覚えていてくれれば嬉しいけれど」
「仕組み……ね。うーん、あの睡眠状態がとうとかいうのか?」
「それでいい」
「何だよそれ」
「──あの世界は、もう一つの私が居られる場所。他人には見せられない自分を、解放できる」
「いきなり何だよ」
「思う存分、さらけ出せる。唯一の安息場所。でも、それも人それぞれ。……ところで、あそこを沙輝はどう思う?」
「丸投げが多いな……。でも、悪くないというか、何というか。少なくとも、男としては胸が踊るよ。リアルな分怖いけどさ」
我ながら達観した答えだった。実態こそわからないが、表面上の問題として、見る。
「……そう」
俺に何かを強制するでもなく、ただつぶやいた春乃の髪を、生ぬるい夜風が撫でてなびく。これまた絵になっていて、俺は呆気にとられた。彼女は顔に掛かった髪を耳の後ろに、持っていく。その仕草が何とも可愛らしく、この場の緊張しつつあった空気が一気に綻ぶように感じた。
春乃は歩き出す。それがどこに向かっているのかを訊ねるのは愚問だった。言うまでもなく家だろう。
「送って行こうか?」
俺は彼女に問いかけた。
「……できれば」
春乃は、やや逡巡したのか、言葉を詰まらせながら答えた。
「じゃあ、送るよ。家は、どこら辺なんだ?」
「そう遠くはない。もうすぐで橋が見える。そこを越えた先」
「ちょっと話でもしようぜ」
別に特別な関係でもないのに、なかなかそれらしい空気になっていることに俺は苦笑いをする。
まあ、いいのだろう。俺がそうしたければ。
よし、今日は楽しんでやる!
俺は春乃に並行して歩いた。