そして、舞台は幕を開ける
「ウッ……」
なんだか少し肌寒い。これが、ココの第一印象だった。つーかあり得ねーよな。足場が雲とか。そして、状況確認のために立ち上がると、今まで気が付かなかったことに気付く。
「重ッ」
立ち上がったところでそのまま後ろに倒れた。意識してやったのではなく不可抗力。見れば、背中には身長より少し小さめな鎌があったからだ。俺はそれを原因と認め、とりあえず下ろす。
持つと意識の違いか、そこまでは重くなかった。それは、全体が木を主としていたからでもある。首くらいまでが柄となっていて、片手で握れるくらいの太さだ。先の方には何らかの意匠があしらわれている。刃に至っては、柄に接するところでは十センチの長さがあり、厚さとしては、二センチくらいである。質感をみると、鉄というより何かの合金のようで、普段触れられるようなものではないことも確かだった。反り返る刃先が、なんとも言えない光沢を纏っていて、みていてあまり気分のいいものではない。
それも、この奇怪な状況と比べれば大したことのない問題だった。この際、リアリティがある分だけいくつかマシなのだ。なぜなら足場が雲としか表現しようがないのだ。だが、実際には雲の上には乗れない。じゃあ、何なのだろうか。
氷? そこまで冷たくない。雲自体がそうなんだろうが、地上で見えるものは、雲粒と呼ばれるものの集合体でもあり、現実には人間が立つことは不可能なのだ。
ドライアイス? 常温で気体である分無理がある。というか、人間を支えられるものなら、既に気化している部分があるはずだ。
綿菓子? ……小学生かよ。
いずれにせよ、反例の方が多い。それは、現実で実現することはまず不可能だということの表れでもある。つまり、逆説的に不可思議な力が働いている、又はここが実際の雲の上ではないとなる。俺としては後者であることを望みたいが、武器を手にしている手前、前者である可能性も捨てきれなかった。
魔法かも?
ふと視線を上げた俺の視界に、何か奇妙なものが写り込んだ。もの、というより動物。灰色で毛むくじゃらで、犬というより狼に近い。鼻息を荒くしていて、いまにも襲ってきそうな勢いだ。
てか、なぜ突然? 恐らくコイツは何もない雲の中から現れた。そもそも、こんなに思考を巡らせている余裕はないはずで……
「やべェッ!」
間一髪。
俺はとりあえず後方に飛び退いた。今まで立っていたところは、狼らしき動物の牙によってかき乱されていた。右手に持つ鎌を取り落とした。拾う暇もなく、俺は態勢を整える。
狼らしき動物は間違いなく俺を捕食しようとおう態勢に入った。そして俺を睨めつける。一方、俺も威嚇の意味合いも兼ねて睨み返す。それでも、サバイバル経験が浅い俺の両脚は震えていた。
正直、もう助からないかもしれない。
体格差を感じてか、一度の攻撃以来、距離を取り続けている相手方も痺れを切らしているところだろう。
気が動転してしまいそうな状況にある俺は、返って冷静になっていった。
少し距離を詰め、先ほど取り落とした鎌を拾い直した。うん、手に馴染む。
それから、剣道が如く真正面に構えた。使い方が合っているのかはよくわからない。第一、畑作には縁がない。
その時、狼らしき動物は俺に飛びかかった。あくまで勝ち目があるわけではないので、鎌を構えながらも、俺は距離を優先的にとる。狼らしき動物の攻撃は、今回は一回に留まらず複数回行ってくるようだ。俺はそれを可能な限り避けた。隙を見て逃げ出すつもりだった。
だが、そうは上手くいかないのが、この世の常である。
「……んなっ、後ろからも!?」
俺が気配を感じた頃には時すでに遅し。後ろから迫り来る影は、俺に喰らいついて…………はこなかった。
次の瞬間、今まさに俺の眼前にあった狼らしき動物が、何者かによって、斬り倒されていた。傷口からは血が溢れ出し、生臭く芳香している。
「おぇっ……」
口に込み上げてきたものを苦労してこらえる。相当アレな感じだった。
涙が滲む視界で、この狼らしき動物を斬り倒した者を探す。
「良かった。まだ生きてる?」
柔らかく、それでいて芯の通った声。俺はこの声に聞き覚えがあった。
「紫ノ山……だよな? どうしてここに?」
見ていて心地よい姿がそこにあった。後ろ姿がスレンダーな体型を強調し、風になびく髪が絹糸のようで美しい。それには、背景の影響もあるのかもしれないが、俺の目にはそう映った。
だが、背負っている大きな剣が禍々しいオーラを放っていたのは、どう評価すべきなのだろう。
ともあれ紫ノ山は、さっき狼らしき動物を斬ったものと思われるサバイバルナイフに付着していた血を振り払い、俺に向かって話しかける。
「どうしてだと思う? ……でも、ここではゆっくりしていられない。そいつだって、また立ち上がる。息の根は止まっていないから。だから、ここを離れよう」
「え……今なんて? 息の根は止まっていない?」
「止まっていない。ほら、見て。また立ち上がる」
狼らしき動物が、うなり声を上げながら立ち上がる。傷口をそのままに、血を凝固させて。おぼつかない足取りが、かえって俺の恐怖心を煽った。
「あれじゃあ、ゾンビじゃないか……」
恐怖と驚きが入り混じり、少し震えた声になる。
「ご明察。あれはゾンビ。まだトドメをさしていないから……」
そんな俺を見て紫ノ山は言った。なんだろう、この不思議な気分は。
「礼堂沙輝。トドメをさして……くれない?」
「は?」
「だから、ソレで一撃を……」
紫ノ山が指すソレの意味は容易に理解できたはずだった。ただ、たとえ自分を傷つけようとした動物だとしても、殺すのはとても惜しく思えた。
「何をしているの?」
「俺には……殺せない」
「何を……。いや、それは私も同じなのかも……。……だったら、来て」
紫ノ山から差し出された手を俺は取った。何かわずかな違和感を覚えたが、この際は気にしない。でも、それほどに紫ノ山の手は細く、白かった。
「しっかりついて来て」
そう言うなり、紫ノ山は全力疾走を始めた。俺も引っ張られながらも走る。恥ずかしながらも、俺の体力は紫ノ山の体力に劣っていた。……こんなに細い身体のどこにそんな力あるのだ!
景色は少しずつだが変わっていった。遠くに街が見えた。視力が悪いせいで、あまり輪郭ははっきりとしないが、そこへ向かっていることは確かだ。
そして俺の体力が枯渇寸前になった頃。俺たち一行はその街へ着いた。雲の上に街があるというのもまたおかしな話だが、そこには街があった。緑の植物も存在し、ここがさも地上であるかのようなリアリティ。
俺は肩で息をしながら、その敷地に入った。紫ノ山曰く、ここまで来ればゾンビでも追ってこないようで、俺としては正直助かった。
だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。まずは事情聴取だ。
「礼堂沙輝、怪我はない?」
心配そうな表情で紫ノ山は言った。
「ああ、大丈夫……」
俺は歯切れ悪く答える。
……思いっきり出鼻を挫かれた。俺は自嘲的に笑った。
「どうしたの?」と言われるが気にしない。
……だがとりあえず一つだけ。
「まあ、なんだ。フルネームやめて。名字でも名前でも……名前はやっぱダメだ。せめて名字で呼んで?」
「わかった。よろしく、沙輝」
「だぁ! やめろー!」
「沙輝。この名前呼びやすいから気に入ったっ!」
「なんで嬉しそうなんだよ……」
やや微笑を浮かべていた紫ノ山は、一旦表情を無にしてから向き直る。そして、
「沙輝はどうやってこの世界に来たの?」
と言った。
「……それが、わからないんだ」
「ふむ。私も似たような状況。実のところ、コレが始まってから十ヶ月」
紫ノ山は腕を組んで考え込むようにしながら言った。その仕草は場違いにも美しく、ついボーッと眺めてしまう。
「え、でも、昨日会ったじゃないか。一昨日だってその前だって学校に来ていたし……」
「問題はそこじゃない。学校で会ったところで、それがほんの一部であればどう思う? つまり、それが、いっときの帰還だとしたら?」
「それは……。というか、結局は何なんだ?」
紫ノ山は軽く目を瞑る。それから長いため息をつき、言った。
「本当のことは、わからない。ただ、私が断言できることは、ここが、現実の世界ではないこと」
「それは、昨日、お前が倒れかかってきたのと関係あるのか?」
我ながらものすごいことを言った気がする。恥ずかしい。頬が熱くなる。後にも先にも、俺が女子から頼られたのはあれ限りだ。
「ある。ここに来るときは、決まって気絶することがわかっている。そして、寝覚めが悪いことからレム睡眠状態であることも仮定されている。つまり、夢を見ている状態である可能性が高いと私は見た」
「それを公言するわけにもいかないから先生に持病と伝えているのか」
「その通り。……あ、そうだ。ずっとこのまましゃべっているわけにもいかない。私は行くことにする。沙輝はついてくる?」
「あ、ああ。ついていかせてくれ」
「それじゃあ、私のことは、春乃と呼んで。私が沙輝って呼んでいるのだからそれくらいは許可する」
この人は何を要求しだすのだろうか。俺のような、避けられるタイプの男子高校生にはハードルが高い。だが、みすみすこのようなチャンスを逃すような俺ではない。ここで呼べなかったら、もうこれ以上打ち解けることができないのは自明だった。
「じゃ、じゃあ、……春乃」
「……きゃっ」
紫ノ山──もとい春乃は柔らかな笑みを浮かべる。元々があれだから、ヤバいっ。
「だ、だから何で嬉しそうなんだよっ!」
俺も平常心を保てず取り乱す。……何か新鮮な空気を感じた。
「私、家族以外に名前で呼ばれたことないから。だから嬉しい」
素直に喜ばれた。俺にとっても、こんな体験初めてだ。まあ、名前で呼ばれることを拒絶していたわけではあるが。
「……ともかく、ついてきて」
「お、おう」
先を行く春乃の後ろ姿はとても教室で見るようなものとは違っていた。無口、という植えつけられたイメージが崩れ始める。ただ、背中に佇む巨大な大剣は、彼女の雰囲気を大いに阻害するものがある。
俺は、どうにかしてでもその意味を突き止めてみたかった。ついでに、俺が持つ鎌のことも。
しばらく街の中を歩き、一軒の家へとたどり着く。その外壁は古く、今にでも崩れそうな雰囲気を醸し出している。ここが、春乃の住まいなのだろうか。
いやいや、と俺は首を横に振って想像を断ち切った。信じたくない。
「ちゃんと着いてきてる?」
春乃が問いかけて来る。てか、俺の姿確認してなかったのかよ。
「ああ、ちゃんと着いてきてるよ」
ひとまず応答。春乃がホッと胸をなで下ろす音が聞こえた。
「みんな、私の大剣を見ると逃げ出すから。好きで装備しているわけではないのに……」
「は? これで逃げ出すやつがいるのか?」
どこか着眼点が違う気もしたが、俺はいつも外れていると自覚しているので、さほど気にならなかった。
「見てわからない? この剣、すごく重い。そして、すごく強い……。沙輝にはどう見える?」
そう訊ねた春乃は、顔を俯け、肩で息をしていた。何かその剣にあるのか、それは明確だった。だが、俺は何もできない。それは、春乃自身から発せられるオーラから伝わってきている。
「俺は、さ。……はっきり言うと、……どうなんだろう」
とても答えられたものではない。他人が使っているのを見て、憧れるのは男の性だが、いざ持ってみたときに、感じるのは、相手を殺すために作られたものを持っているのだと意識してしまう恐怖。
何て複雑なんだ。
「……誰でも、同じような感想だと思う。きっと沙輝も同じ。まあ、どちらでもいい。私にとって問題があるわけでもないから」
「それってどういう……?」
「そろそろ、情報が欲しいんじゃない? 私でよければ教える」
「それよりさっ……」
「教える」
「ぐぅ」
引き下がるしかなかった。まあ、他人に無闇に関わるのはよくないしな。
「さて、何の情報が欲しい、沙輝?」
何のって言われてもなー、と俺は少し考えた。じゃあ、
「この地面が雲の理由は?」
「それはわからない」
──即答かよっ!
答えを得られるとわかっていたわけではないので、容認する。
本題はここからだ。
「なあ、紫ノや……春乃。この、俺の鎌は何だと思う?」
「また武器の話……。いいけど、あまりいいものではないかもしれない。どんな確率で手に入るのかは知らないけど、私は最初からこの大剣を持っていた。インパルスドライバー。これがこの大剣の名前」
「名前とかあんのかよっ」
「ここで手に入れた図鑑らしきものでみた」
……よくあるな。
「じゃあ、この鎌もあるのか?」
「鎌を持っている人は初めてみた」
え、それって。まさかのオンリーワン?
俺は一瞬の喜びに見舞われた。っていうか、こんなことしてる場合じゃねぇ。
「それだけ?」
「じゃ、じゃあさ。さっき斬った狼みたいなやつの話でもしてくれよ。何であのあと生き返ったんだ、とかさ」
「わかった。さっきのは……」
そうして、事細かに春乃は話してくれた。あの狼に固有名はないだとか、ゾンビ化すると攻撃パターンがわからなくなるだとか、ファイナルブロウなる特殊な位置に当てる攻撃をすると、ゾンビ化する前に倒せるだとか。
ゲームかよ、と俺はつっこんだ。すると、春乃はゲームだと返した。成績はそこそこいいはずの俺でも、理解に苦しんだ。だが、直感的に、理解した方が後々のためになることも悟った。
──気が付くと、日は暮れていた。
今日はあれから移動を重ね、建物が並ぶ街の、唯一緑がある──雲に緑があっていいのだろうか──ところで、春乃から情報を聞き出した。
そして今現在。
「すぅ……」
場所は移動していない。つまり、付近には緑が広がり、視界には困らない。
「すぅ……」
聞こえるのは女の寝息…………。
「何でなんだッ!」
見事な寝入り方を見せた春乃を、俺が面倒をみる羽目となっていた。寝る前に「五分間だけ、私の体の面倒を見ていて」と言われ、今までそうしていたのだが、特に起きるわけもなく、時間が過ぎて行く。
「沙輝も早めに寝た方がいい」とも言われたのだが、周りの環境からして、寝ることができそうになかった俺は拒否をして今ここに残る。
そして、もうすぐで指定の五分だ。
「五分経ったら何があるんだよ」
そう俺がつぶやくや否や、春乃の体が輝き始めた。比喩ではなく、現実に。
「は? ウソだろ?」
そして、すっかり光に包まれた春乃は、輪郭をぼかしながら消えて行く。
「おい! 春乃!」
──一人にしないでくれよ!
最後のは声に出せなかった。
ともかく、何故だ!
「おい……すぅ」
俺の意識が遠のく。
あれ? 何で? 眠くなんてなかったはずなのに……!
だが、体は正直で、俺の意思など簡単に打ち破ってきた。
今こそ、思考を続けることが難しくなってくる。
これまで、ここまで強い睡魔は感じたことがなかった。強すぎる。もしかして、春乃はこれに耐えていたのだろうか。
何と表現すればよいのかはわからないが、とにかくこの時点で目を閉じれば眠りに落ちる。
まあ、寝ればいいことだろうけどさ!
そして、俺は睡魔に逆らうことができずに眠りに落ちた。