プロローグ
外では雨が降っていた。
小雨だが、相当な量が降っているようで、教室の窓から見下ろせる校庭は見事に水浸しになっている。このまま教室まで暗く湿った雰囲気になれば良いのに……、と何となく思ったが、うるさい男女(=カースト高いやつ)が揃うとより一層うるさくなるようで、外の天気に関係なく、いや外の天気が悪いほど居心地が悪くなるのだった。
「やってらんね」
俺、礼堂沙輝はそう呟く。たった今、四限の授業が終わり、生徒たちが各々で昼食の支度を始める。俺は周りを眺めてからため息をついた。
喋る友達がいないのも、案外辛いものだ。みんなで騒いでいる中に入ることもできないし、ましてや、女の子との会話にときめくこともない。完全に、周りから拒絶されている。というか、空気同然に扱われている。
どれもこれも、こんな名前のせいだった。男なのに「沙輝」という女の子みたいな名前とか、なめんなよ。一度、このことでグレた。その時に名前由来を聞いた気がするのだが、どういうわけか覚えていない。一番肝心な気がするのに覚えていない。だからこんなままなのかと思うと、無性に現実に嫌気がさしてくる。
幸いと言うべきか。顔は中性的というよりも、……まあ恰好良くも不細工でもないので、普通にその辺にいそうな感じ……だと思いたい。告白されたことはあるのでパラメーター的にプラス要素はあるだろう。
それでも、この私立 天川高校に入学してきてから、ほとんどの女子と会話していない。男子でも半数以上はまだ話したこともない。今は梅雨の真っただ中だから、入学式から二か月くらいが経ったことになる。
未だにそんな状況の俺を楽しませてくれるのはコレだけだった。
薄型の携帯端末。スマートフォンとも呼ばれる。近年、若者たちの間で流行りはじめた携帯電話だ。以前、一般的に流行っていたフィーチャーフォンの後継機だ。パソコンを小型化したものと言われ、スペックこそ劣るものの見事な利便性を実現している。アプリケーションもバラエティに富んでいて、俺としては申し分ない使い心地。暇つぶしによく使う。
そう、例えば今みたいな時だ。
だが、弁当組と売店組の内の後者である俺は、もうそろそろ昼食の買い出しに行かなければいけない時間だった。四限が終わってからすぐは、生徒たちの嵐が待っているので少し時間を潰していたが、これ以上待つと食べる昼休み自体が無くなってしまうのでやむなく席を立つ。
そして周囲を見回した。一応、行動を起こす時には周囲を警戒したくなるのである。どこかにスパイがいるとか命を狙う黒幕がいるとかではなくて、あくまで一応、である。念には念を入れねばならない。
うるさい男女(=カースト高いやつ)が駄弁っている中を、気まずさを味わいながら、教室の後ろを通って俺は廊下へと出た。
夏前と、雨という条件が重なるとこうも暑くなるんだな、と日本の梅雨の実力をまざまざと見せつけられる気温と湿度の組み合わせだった。窓が閉め切られているから尚更暑い。だからと言って、窓を開けようにも雨が降っているからそうはできない。
と、視線を巡らせていると、時々いつもとは違う何かに気付くことがある。
「窓、開いてんじゃん」
視線の先、廊下の俺から見て左側の窓が全開になって開けられていた。当然のことながら、その窓からは大量の雨が入り込み、廊下の左半分を半径二十センチくらいにわたって濡らしている。ふと、誰か滑らねーかな、と考えてしまったが、滑ったが最後自分まで滑ってしまいそうだったのですぐに思い直した。やはり人への思いやりは自分に返ってくるものである。
見ると、携帯の時計では昼休みは正味、三分の一が失われていた。売店で大幅に時間が失われることを前提とすると、もはや猶予はない。
俺は、先刻の水浸しエリアを避けながら歩く速度を速めた。帰りにも通ることになるので、気をつけようと思った。
良心がチクリと痛んだ。
そして、俺は階段を下りて右へと向かう。ちなみにそのまま左へ行けば保健室だ。
「……今日は早く済みそうだな」
視線の先には、一際目立つ集団があった。そこだけが温度の違う世界。ついでに湿度も格が違う。雨の日が可愛く思えるくらいに。だが、運がよかったのか今日に関しては人がいつもより少なかった。行列があることには変わりがないが、慣れてくるとその違いに分かる。集団の規模が大きくなるほどにその違いは顕著になるのだ。なぜなら、男子の大多数がグループを組んでこの集団に挑んでくるからだった。だから気まぐれでとあるグループが来ない、ということもあるのだ。
「……よしッ」
財布から小銭を取り出し、拳に装填してから、俺の戦いが始まる。
本日の狙いはメロンパン。いかに集団を掻き分け、店員のおばちゃんに金を渡し、目標物を手に入れられるかに懸かっている。二か月に渡って鍛え続けた売店スキルを今使おう。
俺は、集団に向かって飛翔した。
掻き分ける。
掻き分ける。
掻き分ける。
その過程で、誰かをビンタしてしまった。どこかで「いてえッ」と声が上がる。ごめんなさい。でも、今はそんなことよりメロンパンの方が大事だ。誰かは知らないが、できる限り、呼び出してリンチだけは止めてほしい……なあ。
とりあえず俺は売店の本体へとたどり着いた。
「これ、お願いします」
「はいよ」
……即答! いつも思うが精算が早い。これがいつも生徒たちで揉みくちゃにされる売店のおばちゃんの実力か、と思う。相当な手練れだった。
目標を達成した俺は、帰還を試みる。どういうわけ、というより必然的に、掻き分ける時より帰還するときの方が、時間がかかる。これは、川魚を捕まえるための、出入り口が一体となっていて、入る時は広いが出る時は狭い仕掛け、いわゆる返し網というやつだ。まさしくこの状況も、人の流れが返しになっているようで、こればかりは流れの妥協点を見つけられるようにならない限り、容易に出ることは難しい。
見つかるかなー、と他人事のように辺りを見回した。
「あった……ッ!」
そして「これが二か月の成果だ」と言わんばかりの形相で、俺は集団を睨み付けた。
俺は手前右下に発見した隙間へ、しゃがんで入り込む。そしてそのまま左側へ行くことを意識しつつまっすぐに進んでいく。体勢が低いので幾度かこけそうになったが、最悪の事態に転じなかったのでセーフ。そして、最後の層を抜けると、体力は底を尽きかけていた。これは、中学校でやっていたサッカーよりハードルが高いかもしれない。いくらサッカーでも、あそこまで密集はしないからだ。だって、フィールドには二十二人しかいないから。それに引き換え、ここは……。数えたくも無い。
俺は、無事に目標物、メロンパンを手に入れることができた喜びを噛みしめつつ、少し浮いた足取りで、教室へと戻る道を歩き始めた。さすがに、いちいち抜かして昼食を購入している罪の意識を感じている余裕はない。
先ほど下りてきた階段を再び上り、件の開いたままの窓が待つ廊下に出て、俺は顔をしかめた。なぜなら、開いた窓の壁を伝って、人が歩いて来ていたからである。
「誰だ?」
生まれつき少し視力の悪い両目をこすりながら目を凝らす。その先に見えたものは、
「紫ノ山春乃……」
俺と同じクラスの女子だ。一応記憶にはあるが、目立ったグループに属してはいなかったはずである。俺は誰にでも興味がある、というわけではないが、紫ノ山のことだけはマーク……いや、覚えていた。
無論、可愛かったからである。
人は皆、周りから抜きん出ている要素を持った人のことをよく覚えているものだ。
それにしても、ばったり会うとはな。
「……」
「……」
どちらも、無言の間が続く。そのせいで、目がばっちりと合ってしまった。
やや大きめな瞳に、鋭い眉、壁を伝って、少し苦しそうにしていること以外は、厳格で怜悧なイメージだ。おまけに肌が白く、疲れているのか、荒い呼吸を繰り返している口元が妙に艶かしい。
それに、俺の髪の色が、校則を無視した茶色なのに対し、紫ノ山の髪は黒い。完全に校則に忠実なのかと思えば、その髪は微妙なラインの色のヘアピンでとめられていた。本当は明るい色ダメだけど白。どっちなの?
「礼堂……沙輝」
芯があるのに少女らしい声音で彼女は、俺の名前を呼んだ。いや、呼んでくれた? 気のせいか。普段名前で呼ばれないから、フルネームでも嬉しく感じてしまう。
「頼む……」
そう呟く彼女は、いつも教室で見るような姿ではなく、疲れきっている様子だった。耳にかかっている髪が開いている窓から入り込んだ雨に濡れ、とてもきれいな艶を生み出していた。それに、壁を伝って歩く動作も、どこか儚いようで妙に異質な感じがする。
「申し訳ない、礼堂沙輝……。保健室まで……連れていってほしい」
どうした? 急病か?
そう声を掛けたかったのだが、声が出なかった。そんな時間が刻一刻と過ぎていく。
紫ノ山が俺の目の前まで来た時、甘い香りが風に乗ってきた。風がないことはないが、ほぼ無風のこの空間で風が生じることがあるとすれば、
「――紫ノ山⁉」
何かが周りより素早く動く時だけだった。俺の腕の中に、紫ノ山が倒れ込むようにして、持たれかかって来た。甘い香りと共に、今まで味わったことの無いような柔らかい感触。どうしよう。誰かに見られたら洒落になんねー。
「どうした?」
少し上ずった声で俺は声を掛ける。先ほどの呪縛はもう感じられない。だが、これだけセリフが少ないとなると、俺のコミュニケーション能力の低さが顕著に表れていることが分かった。どれだけ女子との会話が久しぶりなんだろう。
「保健室に、お願い」
ほんの数センチの距離で紫乃山は言った。よく見ると整った顔立ち。男子が隠れて作ってそうな、彼女にしたい人ランキングなぞには興味はないが、まあ、やはり俺の中では断トツの一番になるほどタイプだった。どうでもいいけど。
「……できるだけ早く」
そして、紫ノ山は可愛らしい寝息を立て始めた。目を閉じている姿は、あまりにも無防備で、かの俺も理性が危うくなる。でも、そこで堪えるのが俺だ。
「紫ノ山さん? もしもし? 起きてます?」
一応尋ねてみるが、案の定返事はなかった。
「どうすりゃあいいんだ?」
こんな状況に遭ったこともない俺は、その場にうろたえるしかなかった。でも、放っておくわけにもいかない。だが、助けを呼ぼうにも、運が悪いことに今日は人通りが悪かった。それに助けを求めたとして、患者が紫ノ山だとしても、依頼人が俺如きじゃ同類扱いされて助けてくれない可能性も大いにある。
とはいえ、このままずっとこうしているわけにもいかない。
意を決して、俺は紫ノ山を背負い上げ、保健室に行くべくもと来た道を引き返した。
「――ああ。それか。持病らしいんだ。心配かけてすまなかった」
保健室に着くなり、ドアを開けてきた担任の西園勇が言った。年は三十と、それなりに若手なおっさんなのだが、言動が一世代前である不思議な人。国語科の先生でもあり、非常に含みのあるものの言い方をする。ちなみに、俺の敵。
「何でいるんすか?先生、保健室の常勤だったんすか?」
「んなわけねーだろ。親御さんから連絡があってだな。ここ数か月、保健室に匿っているわけよ」
「……変態が」
「教師に向かってそりゃねーぞ? 俺の権力で大学落とすぞ」
どこまで権力あるの? この人は。合否に影響しちゃダメっ。まあ冗談だろうけど。
「ともかく。ありがとな。なかなか来ねーから迎えに行こうかと思ってたんだが……。案の定これか。まあ、これ以上俺が他言できることはねえ。さあ、帰った帰った」
正直すごく気になりました。
けど、俺が深く関われる無いようだし、本人に内緒で持病を聞き出すのも気が引けた。この先生なら、いくつか秘密のことも聞き出せそうだったが諦める。ストーカーじゃねぇし。
「この追い返され方、すごく不満っすけど、今日は教室に戻りますよ」
「……お前さんも随分と淡白だな。――昼休み、あと五分だぞ」
もごもごと言っていた最初の方が気になるが、この際気にしない。
気にしたら負けだ。
「じゃ、失礼します」
俺は勢いよく扉を閉めた。未練はない。というか、昼飯を食べられない方が後々に響きそうだった。
教室まで走る。足はそこまで速いわけではないが、学校の中ともなると、風景の移り変わりが早いように感じる。だが、ほとんどが教室なので、平坦すぎてつまらない。
そして、水たまりのある廊下を三度通ったが、滑ることはなかった。
よかったー。
深くため息を吐いた。
翌日の早朝。俺は教室の椅子に腰かけ、思考にふけっていた。
雨は降っていないものの、降りそうで降らない均衡状態が続いていた。気温は昨日と比べて低く、大分過ごしやすい気候にはなっている。校庭が昨日の雨の影響で泥と化していることを除けば、運動部にとっては最高のコンディションのはずだ。だが当然、教室にすら溶け込めていない俺が部活をやっているはずがない。
「最低限、クラスには溶け込まなきゃだよな」
そう。孤立していて良いことはない。それと同時に悪いこともない。中には、自己保身のためにあえて孤立しているやつもいる。それで成功しているやつは数少ないが、成功すれば、誰にも傷つけられず適当な交流を行う、ということも可能だ。適当な交流だけあって、深く関わることはないので、喧嘩するまでに論争が発展することは稀だ。発展する前に、上手いやつは切っちゃうからな。
「ま、気楽にやっていけばいいよな……」
頭で手を組んで、背もたれに体重を預ける。
「昨日の件、ありがとう」
「えっ⁉」
背後から声がいた。芯のある、それでいて少女らしさを感じさせる声。俺に話しかけてくる女子など、ほとんどいないようなものなので、幻聴の可能性もあるにはある。ただ、今回に限っては、なぜかは知らんが殺気染みた冷たさを感じるので、実際に俺に話しかけてきた女子(又は男子)がいることはまず確定だ。
「はい、俺に何か?」
前を向いた状態で答えた。長年孤立していると、自然と目を合わせるのを避けるクセがつく。
だが、途端に殺気が強まったような気もしたので、俺は慌てて振り返った。
「忘れたとは言わせない。あと警告。私の発言を無視スルーしないで」
次々と一定のトーンで紡いでいく、容姿端麗な少女は、紫ノ山春乃その人だった。
「ごめん、なんて言った?」
「昨日の件、ありがとう」
ああ、廊下でのことか。
「うん」
「あの後、無事保健室で目覚めた。ありがとう」
「おう。どうも。あいつに襲われなかったか?」
俺は冗談半分で聞いてみた。椅子をぐらつかせ、気だるさを全開にしながら。
「あいつとは?」
上手く伝わっていないようだった。紫ノ山は首を傾げ、俺のことを見つめる。大きめな瞳がすっと細められていて、それだけでも見下されているような感じがした。怖いです。
「……どうでもいいですよね。ハイ、忘れて。で、大丈夫だったんだな?」
「うん」
「それだけ。じゃあ」
「……。とりあえず、私との関わりで、気を付けることは忘れないで」
なんか脈絡を無視されたような気もするがまあいいか。
そうして、紫ノ山は去っていく。このままでいいのか、と少し躊躇したが、まさかあれだけの要素で俺が深入りするのもどうかと思った。ならばせめて、連絡先の交換はどうだろうか。あんな人とは、もう二度と会話をできないかもしれない。
だが、俺は動けなかった。
できるはずがない。
元々チャンスなどなかったんだ。
「ん?」
俺の携帯が不意に振動した。これは、メールの着信を知らせるもの。
「誰からだろう?」
俺の携帯には、中学の時の友達と、家族と担任の緊急連絡先しか登録していない。母親とかか? 無視をする意味もなかったので、俺はボタンをいじってメールの表示を見た。
『差出人:紫ノ山春乃』
――マジかよ。
「どっから流出したの?コレ」
無論、問いかけても返事はない。
俺は仕方なく推理を展開する。
――犯人は、担任の西園勇だッ!
いやこれ推理じゃないわ。
でも、理に適っていた。実は、学校の関係者と言ったら担任しかいないし、もし帰り道に俺の家族と遭遇していたとしてもわかるはずないし、ましてやアドレスを渡すはずがない。
――あんにゃろ。
「まあ、俺の分まで青春楽しめよってノリだから、こういうのには弱いんだろうな。先生のクセして。自分からあげたとかだったら論外だろ」
とか、無意識に呟きながら内容をスクロールしていた。
『紫ノ山です。昨日はありがとう。情報が流出することなく終わった。できれば、昨日のことは他言しないで欲しい。だが、いずれ巻き込まれるかもしれない。その時はお互い頑張ろう』
すごくツッコミどころの多い文面だった。まあいいか。もし頭がアレであればアレで対処しておけばいいだけのこと。
そして、俺は返信のメールをキーパットで打って送信した。
『わかりました』と。
再び返ってきた返事に本文はなかった。