Part2 「じめじめとした嫌な予感」その1
ごくり――。
生唾を呑み込み、藤林大貴はそっと居間に忍び込む。カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりを頼りに普段座らぬパソコンデスクの前に腰掛けた。
時折家の前を通る車のヘッドライトがカッと部屋の中を照らし出し、壁掛け時計を白く縁取った。現在、4月23日深夜2時30分39秒。
心臓がバクバクと胸を叩く。内側からの鼓動で半ば壊れている耳を研ぎ澄まし両親が起きて来ないことを辛うじて確認する。
意を決し、筐体の電源ボタンを指で押し込んだ。
途端にモニターがパッと光る。暗がりでパソコンを開いたことがない大貴には、それがひどく明るすぎるように感じられた。
大貴の動揺を無視し、カリカリとパソコンは目を覚ました。企業のロゴが画面から消え、ほどなくデスクトップ画面が開く。大貴は持ってきた雑誌を片手に開き、インターネットブラウザを立ち上げた。検索窓にポインタを運び――。
(……ええっと?)
――雑誌に目を落として確認する。検索する情報は【ガーデン・レイダース・ネットワーク】。
慣れない手つきでタイピングして、検索を開始。コンマ数秒で検索結果は示された。大貴は一番頭のリンクをクリックする。
今度はやや時間がかかった。真っ白な画面が数秒続き、やがでロゴで【Garden Raiders Network】とでかでか表示された。その下には黒く『様々な生き物が住む緑の星「ガーデン」を、謎の侵略者「レイダース」から守り抜こう!』と出てきた。一瞬遅れて、ピコン、と軽い音がして、その横に【今すぐ守る!(体験版インストール)】とアイコンが用意される。
一度、大貴はちらりと後ろを振り向いた。人の気配はない。
(……や、やるぞ)
大貴は右の人差し指に力を込め。
――かちり。
――そんな感じで、親の目を盗んで夜中にパソコンゲーム。
その生活をおおよそ1週間ほど続けた、5月2日。
「……むー」
――いい加減に無理が生じてきた大貴だった。
朝の目覚めのキレはひどく悪いものに変わり、普段はこぼさない欠伸をかみ殺す。朝食が盛りつけられた皿を掻き分け食卓に突っ伏したがる欲求を必死の思いで抑制した。
首を傾げる母親に挨拶を返し、大貴はさっさと家を後にした。時折襲われる眠気の波に歯を食いしばり、大貴は自転車で学校に向かう。バスは使わない。元々あまり懐具合に余裕はないが、座席に座ったら眠りそうだ。
行きがけのコンビニでブラックコーヒーを購入して纏わりついた眠気を飛ばす。自分の吐息がコーヒー臭くなっていることに顔をしかめつつ、今日も無事故で学校までたどり着いた。
駐輪場に自転車を停め、南校舎の3階にある自分の教室ではなく、北校舎2階の会議室に足を進めた。
文化部で、しかも特別強くない――有名でない、大きな受賞経験がない、部員が少ないという意味で――演劇部は多くの運動部が使用しているような体育館や格技館は利用できない。そのため、朝と放課後の部活動では複数人が手を伸ばして動き回れる空き教室を借りているのだ。
今日は水曜日だ。水曜日朝の稽古場は北校舎2階の会議室に決まっている。
既に教室からは蛍光灯の明かりが漏れていた。できる限り素早く、音も立てないように大貴は教室の戸を引いた――。
「――どういうことだっ!?」
手はひくりと止まった。
戸の向こうから海原の声が聞こえた。聞くからに怒り狂って語気を荒げている。何かが倒れるような音がして、中ではざわめきも聞こえてくる。台本に記された行動ではない。真に迫る本気の感情だ。
「少し、落ち着け」
「板垣ィ! テメェだってわかってんだろ!? 三好ちゃんはそんな仕事ほっぽるようなヤツじゃねーだろ!!」
「そうだな」
「ならなんでそんな平気な顔してんだよ! 意味わかんねーっ!」
「まだ俺には俺の仕事がたまってるんだ。脚本が遅かったんでね。小道具ももう少しよくしてやらんと駄目だし、学校の宿題もそこそこ――」
「スカしてんじゃねーっ!」
がたんとまた戸の向こうで何かが倒れる音がする。どきりとした。
戸に沿えていた手が、いつの間にか自分の頬に触れていた。柔らかい肉の下にごつごつとした硬い骨の感触が残る。極めて、極めて普通の顔をしていた。
――気づいていたはずなのに。三好がいないことに。
なのになぜ、大貴は海原と同じようにそれを気に留め、追求しなかったのだろう――?
「相変わらずの単細胞ですね。また人に影響されて考え事ですか」
どん、と尻の上の部分を小突かれた。ふらふらと視線を向ける。
赤いフレームの眼鏡を端をぐいと上げ、宮永が上目遣いにじろりと大貴を見やっていた。特別強い感情が垣間見れない、真っ黒な瞳だった。
「物事を表面的にしか見れないポンコツ理解ですもんね。……なんでそんなに本意気で泣きそうになってるんです」
「宮永さん……俺は」
「自分が悪いと思っていれば楽ですもんね。謝っておけば間違いないでしょうね。そんなだから、あなたはいつまで経ってもポンコツなんです。軸がブレブレです」
ハンマーで思い切り後頭部を殴られたようだった。許されるなら豪快に吹っ飛んで吐血しながらガラスを突き破って2階から外に落下してしまいたい気分だ。きっと、このごちゃごちゃした思考に区切りを付けられる。現実はなにも解決しないだろうが。
下唇を噛んで考える。何を言ったらいいのかを考える。
肯定。否定。そんな言葉とは違う。彼女が求めているのはもっと別なものだ。
こうして向き合って、大貴は何となくそれがわかってきた。彼女が辛辣なのは単なる癖でなく――純粋に「大貴が気に入らないから」でもあるのだろう。
彼女は「軸がブレブレです」と言った。ふらふらと迷い淀んでいる大貴に苛立っているのだ。
言葉には力がある。真に発した言葉は心に焼きつく。ブレた軸を矯正してやろうとしているのだ。
だんっ、と不意に大貴の目の前の戸が荒々しく開いた。びくりと跳び上がった大貴をじろりと一瞥し、海原は前髪を乱暴に掻き上げた。
「よぉ、藤ちゃん。邪魔だ」
「は、はい」
「自分は平気で何週も休むくせに、三好先輩が休むのは許せないんですか?」
「ああっ――!?」
海原の無間に皺が何重も寄って、ポケットに突っこまれていた右腕がピュッ、と布が風を切った。海原の噴き出た怒声が右手と一緒に宮永に向かう。暴力――。
慌てて大貴は体をぶつけた。海原の体が押される。宮永に掴みかかった右手が空を掻いた。
海原が何とか空を掻き、大貴を引きはがそうとした。二の腕を掴み、肩を押し――しかし、大貴は離れなかった。いくらか大貴よりも背が高く体格もいい海原だが、そう鍛えている部類の人間ではなかったようだ。
「チィ! 邪魔だってんだよ! ……くっそテメェ! 宮永ァ!」
「少し落ち着いてくださいって……! それとも女の子に乱暴するのが目的ですか!?」
「うっせーぞヘタレ! さっきからビクビクしてやがってよぉ!! 邪魔だっつってんだよ!!」
「痛いのが怖いのはしょうがないでしょう……ッ!?」
体に何度か衝撃が走る。背中に海原の肘が、腹部には膝でも打ち込まれたのだろう。硬い骨が肉にめり込んだ感覚がする。
過去、何度も味わった感触だ。暴力の手触り。
怒り。憎悪。殺意。――そうした「暴力の熱」は、あまり伝わってこない。
反撃しない大貴を殴って多少頭が冷えたらしい。
がりがりと歯ぎしりを繰り返した後、海原は大貴の肩を強くたたいた。
「悪ィ。落ち着いた。……今日はもうフケるわ」
そう捨て台詞を残し、海原は宮永に向けていた意識のベクトルをあさっての方向にくるりと向けた。「暴力の熱」は伝わってこない。落ち着いたというのは本当だ。
安堵して海原から離れた大貴を邪魔だと雑に突き飛ばし、どたどたとやかましく廊下を大股で歩いていく。
軽く肩で息をしながらその背中を見送る大貴を、また衝撃が襲う。完全に気を緩めていた大貴はあわあわと足をもつれさせ、しかし危うく仰向けに転んでしまいそうなところをぐっとこらえた。
「……なかなかやるじゃないですか」
背中をたたいたのは宮永だった。大貴よりもいくらも小さい体で手を伸ばし、しっかり気付かせるよう頑張って叩いたようだ。――そうだと信じることにする。
「本来、あなたはそういう人なのかもしれませんね」
「はぁ……?」
唐突に、また見透かされたようなことを言われた。
大貴はただただ頭に疑問符を並べる。今、なにか劇的なことが――あるにはあったが、そんな核心に迫るようなことが――あったのだろうか?
「いいですよ、その方が。単細胞なゾウリムシさんにはお似合いです」
「微生物と同列ぃはぁぃっ!?」
今度は特別強く原を突かれた。つんのめった大貴の鼻先で、宮永の人差し指をぴんと伸ばされる。
そして、細く白い指先はすっと動き――朝日の射し込む廊下の奥、やかましい足音を鳴らす海原の背中を指し示した。
「ほら、いいから行きなさい。今日の宿題のお世話くらい、手伝ってあげますから」
「それ、先輩にくっついて学校サボれっていってるのか?」
「では、サボれと言って差し上げましょう。どうです気分がいいでしょう、ゾウリムシさんはドMの変態さんなんですね。そのまま水平線の彼方まで消えてきていただいても結構ですよ」
宮永はぶっきらぼうにまくしたて、今度はぽんと大貴の背中を押した。これが本物の暴力に変わらないうちに、大貴は海原の後を追うことにする。
――お言葉に甘えて、宮永にはとりあえず本日提出期限の宿題を預けることにした。