Part4 悪魔の証明 その3
――あれは。
体が反応した。脊椎でものを考える。両足が痙攣したように熱を持って小刻みに震え、五指は重い空気を抉り取り、握りしめる。
『――――』がかつて、倒せなかった多くの頂点です。脳裏で誰かが囁いた。囁きはもうほとんど聞き取れない。ただ、意味の輪郭がうすぼんやりと脳裏に響く。
原点。ささやきの言葉に、なるほど、と妙に納得した。
この「赤」は――どこか、それまでのものとは趣が違う。それは、大きさも色の濃淡もさして特徴的なものではない。それだけの要素をとってみては、ただの凡庸な「的の形」に過ぎない。
強いて言うならば、それは「空気」だ。どろどろとした流れ。重い雰囲気。
今にも足元がぱっくりと割れて、そのまま身体を飲み込まれてしまう――ような。
根源的な恐怖。それを引き連れるもの。――即ち、原点。
だが、とまた疑問符が重なる。それ以外に、そして、ある種、それ以上に。
あれは、とても重要なものではなかったか――?
思い出せない。『思い出』の記憶領域に手を伸ばすと視界が濁るのだ。
なにか複雑で難解なバグが――これを画一して表現できる言葉が見つからないのでそう表現する――制御回路をかき乱すのだ。
まずい。反応が鈍る。判断が遅れてしまう。それでは、目的を果たせない。
とにかく、あれは特別なのだ。警戒すべきである。
その根拠はない。しいて言うなら――この体が訴え続ける変調がそれだ。いってしまえば、直感に過ぎない。
ふいに、「赤」がなにかを言った。伝わってくる。空気を通じ、無線のように心の震えが伝わってくる。
喜びの感情。「赤」は喜んでいる。何かを楽しんでいるのだ。何を。異様だ。
ふいに踵がなにかをつついた。いつの間にか後退してしまっていたようだ。
足元にはなにかが落ちている。「赤」ではない。これは――いや、不要な情報だ。輪郭さえ捉えられない。それで問題はない。
退避せよ。幾許もないほど先に敵わなかった「赤」だ。生き残れない。それは確定に等しい。逃げ出せ。警告。逃げろ。――逃げて。お願いだから。
頭の中の霧が深くなる。すべてを白く、淡く、浅く、薄く――景色をひたすらに単純化する。
赤と白。仇なすものとそうでないもの。目の前の映像が二値に分けられる。
思考回路がシンプルになる。一挙手一投足が極限にまで高速化。動作の一切に曇りがなくなる。今までの濁りが嘘のように。――今まで?
迷わず、曇らず、引かず。
「これ」は、ただそのためだけの引き金だ。照準も残弾も確認する必要がない。
ただ、「為す」と決断さえすれば良いのだ。仕事はそれだけ。
あとは導かれるままに風を切るプロセスを終えれば、着弾の結果が手元に残る。それでパーフェクトなのだ。
『――』は引き金を引くためだけに存在するアクチュエータ。余分を廃し、より強靭かつ柔軟な構造体。決断を現実として得るシステム。
あらゆる状況において願望の達成を成し遂げる実現器。
成し遂げたい全てを掴む大きな手を持ち。
駆け付けたい全てに届く強い両足を持ち。
届けたい全てが繋がれる長い剛糸を持ち。
『――――』のなりたかったものを備えた、鋼鉄の形。
であるからして、それはいかなるものも実現する。
故に。
たとえ、目の前のものが頂点の「赤」であっても、突破できないわけはない。
そうして、突破して――突破して――?
――そのあとは?
真っ白な地面を蹴りあげ、走る。
暗がりに風切り音が反響した。「赤」がゆがむ。喜び。怒り。混ざり濁った感情。それが、鋭利な剣に変わった。
振り払われる一閃。早く鋭く広いそれは、白を裂く暗黒の断層だ。体が一瞬挟まれてしまえば、途端に切れて落とされてしまう。切断層。
だが、ハッキリしている分見やすい。「赤」の感情のレールの上しか通らないせいで簡単に予測できる。回避は容易だ。
断層が二個、四個、八個――加速度的に増加する。尋常ならざる速度。
しかし問題はない。予測できる。判断できる。
情報が来るのだ。風の温度、地の硬さ、水の揺れ、火の距離。それら環境情報とともに、脳裏には「取るべき行動」のチャートが入力される。
情報と同時に、同じように、同じ通りの入力行動をアウトプット。それで反射運動同然に実現でき、あの「赤」の速さと互角の動作が可能となる。
感情の牙を足元にかすめさせ、崩れた体を牙の起こした烈風の雨に乗せた。
その間、本命の牙がこの身に迫った。それは、一瞬先まで存在していたフィールドを切断する。体勢が崩れていなかったならばこの身を両断していたそれは、起こした風圧で、この身をもみくちゃにする。
しかし平気だ。直撃はない。続く二撃目も三度目も同じように受け流した。
回避はベストだった。しかし問題は残る。こちらに有効打の用意がない。
負けはないが、勝てもしない。このままでは。
そんな状態が幾許かすぎさって――「赤」の体が不自然に揺れた。
3フレーム後。業を煮やした「赤」は一気に間合いを詰める。
踏込からの一撃を横なぎに打ち込んでくるだろう。問題なく予測できる。
だがこれはバックステップでもサイドステップでも避けられない。当たり判定も大きい銅への一撃だ。
避ける空間を上下にしか残さない。ともすれば、予測できたところで対処は至難だ。
そして――3フレーム後に「赤」は踏み込んだ。剣が払われる。予想通りに。
剣の断層をジャンプで避けた。蹴る対象のない虚空。機敏で大きな位相ができない状況。現実、剣の圧力に抵抗もできず体を吹き飛ばされている。
「赤」がゆがむ。逃げられない的。それを前にして、勝利を確信したのだ。
「赤」は渾身の剣をいよいよ放った。
避けられない一刀。――予測通りの速度と軌跡を描く剣撃。
泥のような宙空で、もがくように片腕を引いた。
そして――その腕から伸びていたワイヤーが、音を立ててキリキリと巻き取られていく。
――既に「赤」の剣にはワイヤーを巻き付けている。
この距離関係であれば、個を描く剣よりも直線移動のこちらの方がわずかに早い。
泥の空を弾丸の速度で抜けて、剣を握る丸太のような太腕にぴたりと身を寄せた。
「そうした」のと――「赤」の腕に張りついたのと、二撃目の近接の一刀が断空し壁を削り砕いたのは、ほとんど同時だった。
間近で目を合わせた「赤」は、はじめよりもいびつに歪んでいた。
「喜び」の色ではない。
混じりけのある喜びが、にごり出している。混じり始めている。
「怒り」。「哀しみ」。
テメェ――迷いの概念が消えうせ白く透き通った脳みそに、その「赤」の怒声は鈍くハンマーのように重く突き抜けた。
ただのオモチャに成り下がりやがったんだな。
ヒトをやめやがったな。鉄屑が。
――鉄屑。それは『――』のことか。
はいそうです。脳裏で、誰かもそう言っている。
あなたは自分が最もなりたくなかったものになってしまった。自分を捨て、システムの一片に自分を押し込んでしまった。
「嘘」「だ」。
「俺」「は」「この」「力」「を」「望ん」「だ」。
なんのために――?
――目的のために。
なんという目的のために。
それは。
――「彼女」「を」「求め」「る」「ため」。
彼女とは。
それは――それは――?
思い出せないのですか。
あなたは、あんなに――。
ふいに、目の前で「赤」の掌が広がった。
しまった。思考が途切れていた。反応できない。
抵抗できない。頭蓋を掴まれた。――逃げられない。
「赤」が言った。女を後ろに隠してるしょっぱいガキのお前の方が蹴散らし甲斐があったんだがな。
「赤」が乱暴に剣を放り投げた。明後日の方に飛んでいく大剣。巻きついたワイヤーがピンとのび、体も引っ張られ、吹き飛ばされる。
「赤」は頭蓋を掴み続ける。脳髄まで抉り取ろうとするような指圧。頭部がミシリミシリと軋む。悲鳴を上げる。離さない。
質量兵器同然の大剣はワイヤーを離さず、大砲の速度で虚空を裂いていく。右肩がぶちぶちと音を立てる。感覚が死ぬ。右腕の存在が消失する。
――応答できなかった。
一連の動作に反応さえできれば、こうして頭を抑えられず右腕を失うことさえなかっただろうに。
おかげで数少ない攻め手を奪われ、また行動の自由さえも奪われてしまうなんて。
手の届く位置に弱点さえもあったというのに。
――動揺しているのだ。
思い出せないことに。「彼女」を。
情報ならば引き出せる。大切な人だ。彼女に認められたがっている。許されたがっている。手に入れたがっている――?
だから助ける。答える。尽くしている。
便利な都合のいい男ですね。ただの財布で終わりそうな間柄です。脳裏で何かがそう囁いている。
そうかも――と、頭の霧が一層濃くなる。
なにかが行方を遮っているようだ。そのくせ、手首をつかんで離さない。引張り、導き、逃さない。
ぼーっとしてるな。「赤」が吠えている。いくら霧が濃くなろうとも、「赤」の声だけは決して消えない。
瞬間、衝撃。
頭蓋を握られたまま地面に叩きつけられたのだ。衝撃が体を満遍なく突き抜ける。不可視の槍で磔にされたかのように。
頭から圧力が消えたのを感じた。目がハッキリしないせいでわかりにくいが、どうやら「赤」が手を離したらしい。これで自由だ。
たちあがれ。戦うのだ。戦って――どうしたいんだ? こんな大変な思いまでして?
立てもしねーか。鉄屑は。
「赤」の声がそう響いた。既に、「怒り」の色などどこにもなかった。これは――。
奥歯をかみ、左手で地面を殴った。骨身がしびれる。頭の中の霧の中で、小さな明かりが灯った。
このまま、終わらせる訳にはいかない。
その理由は――うまくことばにできない。小さく、そして多すぎる。
それをみて「赤」はまた顔を歪めた。その感情の色は――もはや、どうでもいい。




