表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
電脳コンプレックス  作者: みそおでん
第1章 「藤林大貴」
15/82

Part3 「この足跡はぼくのもの」その4

 受け身を取った右手の先が、苔に触れてしまっていたらしい。


 右手がびりびりと痺れていた。【痛み】というほど明確で鋭いものではない。例えるなら、ずっと正座していて満足に血が通っていなかったときのような感覚だ。


 重く感覚も鈍い。痛いといえば痛い。不快ではあるが、自分の体が苔の侵食によって【別の何かに支配されていく】というエフェクトを考えれば、極めてソフトな感覚だと、大貴は思った。


 ゲームである手前、仕方ないのかもしれないが、こと【強い刺激】に対してこの【ガーデン・レイダース・ネットワーク】はマイルドに演出していた。あのモニター越しでない、向かい合って「肌」で感じたモンスターの威圧に対して、この痛みはミスマッチだった。


 あの威圧に準じた痛みを、大貴はよく知っていた。


 ――ある時期、大貴はやさぐれていた。


 きっかけはささやかな話だった。


 それまで、大貴はいわゆる【いい子】だった。教師の父親と母親のもとで育って、言われたとおりに食事は残さずぺろりと平らげ、言われたとおりに習い事に通い、言われたとおりに勉強し、言われたようにスポーツに励み、言われたとおりに眠っては起きていた。


 間違えるのが怖かった。白紙の答案用紙に模範解答と違う答えを並べることを、何より怖がっていた。友達の嫌がることはせず、先生の話をきちんと覚え、両親の言うことは絶対にこなした。誰かを不快にし、迷惑をかけないように。


 中学2年の11月、風の強い日。野球部の練習試合に出た。7回裏ワンアウト。2点負けていた。ランナーは2塁にひとり。監督の指示を聞いて、犠牲フライを打った。川辺の野球場は一際風が強かった。突風に捕まり、ボールはラインをまたぎ、人に当たった。なんでもない、道を行く女の子だった。


 彼女は車椅子だった。


 来たことに気付かず、気付けても間に合わず、野球ボールに当たった。車椅子は倒れ、彼女は土手で気を失った。


 彼女に後遺症はなかった。頭に怪我も残らなかった。


 彼女は笑って許してぐれて、彼女の兄は躱せなかったことを謝った。部の仲間は気にするなと言ってくれた。試合中のほんのアクシデントだ。気に病む必要はない。


 ――許せなかったのは、藤林大貴ただひとりだけだった。


 友人や監督や先生や両親。いつも誰かに合わせていた。誰かに依存し、誰かに倣い、それは【間違えないため】だった。それが全てで、それだけが望みだった。


 なのに、彼女に傷を負わせてしまった。けれど藤林大貴は責任の一つすら取ることができない。間違った事実を背負うことができない。人間なら、自分で犯した過ちを背負い、学び、戒めるはずなのに。


 そう思って、ようやく気が付いた。


 ――自分自身で何も決めてこなかった藤林大貴に、【自分】など存在しなかった。


 責任を取れる【自分】など、どこにもいなかった。自分は【藤林大貴】という名前の付いた人の言うことを聞く機械でしかなく、自らを律し考え行動する【人間】ではなかった。


 そんなものに彼女の許しと笑顔を受け取る資格など、あるはずがない。


 藤林大貴は【我】を強く意識するようになった。【人間になる】ことを強く望むようになった。


 【人であること】――【生き方】を探して、藤林大貴はやさぐれ、荒れに荒れた。求めていた回答が身の周りになかったからだ。この世界に答えがないのなら、別の世界に行くほかはなかった。


 藤林大貴は急いでいた。一刻も早く自分の在り方を見つけ、彼女の笑顔に見合う【人間】になりたかった。彼女の許しを受け入れる前に、自分の成すことに責任を持てる【人間】に。


 殴られたり蹴られたり締められたり投げられたり折られたり、一通りの痛みは体験した。


 だからこそ思った。


 モンスターのあの威圧には、一度だけ経験があった。この辺りをシメていた番長と喧嘩したときだ。後で聞いた話だが、やはり「危ない世界」に踏み込んでいた人間だったらしい。相対した時の気配が、ほかの取り巻きの学生とは一線を画していたことをよく覚えていた。


 それは、食べても食べても食べたりず、なにかに牙を突き立て食いちぎりたくて仕方ないという飢えた覇気だ。「暴力の熱」の延長線上にあるもの。心が大気に溶け込んで、強い意思、暴力の熱をナイフになつて周囲を突き刺して傷口を抉っている。


 それは、捕食者特有の【凄み】の正体だ。


 このゲームでは、それがあまりにリアルに再現されていた。


 大貴にそれは真似できなかった。「向こう側」の別の世界の人間にはなれそうになかった。


 以来、真面目に、真摯に物事と向き合ってきた。この世界で答えを見つけるしかないからだ。


 だが、答えには未だに出会えていない。


 もしかしたら、子どもっぽくて不細工で醜い本性の大貴に、まともな答えなど用意されていないのかもしれない。


 ――いつの間にか、大貴は路地の壁に体を寄せていた。


 呼吸が荒れている。空気が重い。鬱陶しい熱が周囲で巻いている。体が重い。【元の体】の感覚とアバターの感覚にズレが生まれている。上手く動かせない。


 苔は右肩まで迫っていた。右腕の感覚は既に死に、ぴくりとも動かせない。


 大貴はまだレベルが2桁にも達していない。総量の少ない大貴のゲージを食い尽くすのにはそう時間もかからないのだろう。


 路地を折れ、突き当たりに目を向ける。行き止まりだ。【KEEP OUT】の文字の黄色の帯が幾重にも貼り巡らされ、奥の扉が固く閉ざされていた。【黄泉路扉】だ。


 駆け寄ろうと地面を蹴ったが、神経ほどに体が回らない。どてっ、と受け身も取れずに石畳の地面にうつぶせに倒れた。


 鼻っ柱を思い切りぶつけ、しかし血は流れていない。大貴は左手で壁を探り、力も弱い足腰を立たせた。


 一歩、一歩、一歩。路地を進む。


 じっとしていたくなかった。痛みより、間違えることより、責任が取れないことより、答えが見つからないことより、この衝動さえも失ってしまうことが怖かった。


 震える唇をかみしめ、大貴はようやく理解した。自分の奥底に沈んでいた気持ちを、だ。


 水前寺絢音は【藤林大貴】のはじまりなのだ。今の価値観を、行動原理を、人格を形成したきっかけを与えてくれた人物だ。


 ――その絢音が蹂躙される。あの捕食者に。


 許容できるわけがない。想像もしたくない光景だ。


 だから進む。巧に制止されたとしても、捕食者の威圧に両膝が震えても振り払って突き進む。


 なにがそれを邪魔しても、この意思だけは鈍らせる訳にはいかなかった。他人から見れば、どんなに子どもっぽく、不細工で、我がままで、醜い姿でも。


 血反吐を吐き散らし傷だらけになってでも這い上がって、人間として土俵に上がらなくてはならない。


 そうでなければ、向き合ってやることができない。


 きっかけをくれた水前寺絢音に、大貴は何もしてあげることができない。


 ――今ここで、止まるわけにはいかない。


 止まれば大貴は戻ってしまう。ただ親の言うことだけを聞いていた時代に。絢音に会う前の自分に。自分でなにも言わず、聞かず、感じず、知らず、ただ従うだけの生き方に。ただの機械に。


 奥歯を噛み、足を踏み出す。手を長く伸ばし、強く、願った。


 ――誰でもいいから。


 ――力を、貸してほしい。


「ええ」「差し上げましょう」「あなたに」


 そして――。


 銀色が世界を包み込んだ。








 * * * * *








 グリーントータスの頭が揺れ、踏みしめる地面に細々とした亀裂が走る。


 陸亀の派生であるグリーントータスは【地】の特性を持っていた。


 特性とは、いわゆる属性だ。【地】とはすなわち大地であり、草木であり、岩石だった。


 【氷】より硬く、【雷】にも動じず、【風】にも飛ばされない。巧が今まさに叩き込んでいる【炎】でも、大地を焼き染めるのは難しい。


 つまり「そういうこと」だ。多くの属性に対し抜群の耐性を持ち、加えて堅い守りと高い体力値、そしてじわじわと根を張る状態異常の誘発。グリーントータスは持久戦にめっぽう強いモンスターだ。


 同時に、グリーントータスは癖の強い個体でもある。だが攻撃は苔による侵食を除けば近接攻撃ばかりだ。中・遠距離への有効打を放つのは苔をオミットされた亜種か、よりレベルの高い上位種のみである。


 平均レベルは30程度と巧より10は高いが、十分に距離を取れば討伐可能な個体だ。事実、そうしたレベルアップのテクニックが巷で小さく取り上げられていた。「苔に気を付けて叩き続ければ勝てる」と――あまりよく聞く攻略情報ではなかったが、聞いた覚えはあった。


 もっとも、それは相手の得意とする持久戦に持ち込むということであり、「巣穴」に行って戦うのではなく、増援がないことが保障される「はぐれ個体」を狙う戦法である。集団で攻め打ってきている今回は、あまり得策ではなかった。


 とはいえ、やはり、堅牢なグリーントータスを瞬時に削りきる火力は、巧にはない。削れるまでに増援が来ないかは、ほとんど賭けだった。


 グリーントータスの足踏みで小刻みに揺れる地面に足を取られ、巧のアバターの動きが鈍る。距離が必要なのはこのためだ。巧が鈍っている間にグリーントータスはにじり寄り、足元の苔は石畳を染める。身震いするグリーントータスから汗がはじけ、深緑の苔が辺りの壁や地面に星を作っていく。


「くっ……」


 繊細な操作が難しいキーボードを粗くたたいて操作し、石畳と共振する足を引っこ抜く。溜めていた炎を地面に向けてがむしゃらに打ち込み、つま先に触れそうなほど近づいていた苔を焼き払った。


 急いで後退しようとカメラを回す。視界は開けていた。巧と大貴が入ってきた場所だ。裏路地が終わっていた。


 ――マイナーな攻略情報のはずだ。


 火事に水鉄砲で挑んでいるような気分だった。苔に食われるプレッシャーに比べたら、見合ったレベルの猪でも狩っていた方がよほど効率的だ。


 いくら経験値が入るかなど知ったことではないが、時間対効果と精神的な負担を考えればまったく割に合わない。


 ズンッ――。


 スピーカーから重い地鳴りが耳を差した。グリーントータスではない。より大型のモンスターの足音だ。大貴を一度殺したグランゲイターか、それに類するまた別の大型種か。


「おい、大貴――ッ!」


 呼びかけても応答はない。プレイヤーのデフォルト機能である【通信】は、効果範囲はそう広くない。だが【黄泉路扉】までなら、まだ裏路地を出ていないこの位置ならば、ギリギリ通じる位置だった。


「大貴! どうだ!? 着いたのか!?」


 やはり応答はない。【黄泉路扉】に入れたのか。たどり着けたのか。力尽きたのか。今プログラムを実行して意味はあるのか。


 巧は生唾を呑み込んだ。ゲームオーバーになれば大貴と通信が出来なくなる。


 イベント中に許されるコンティニューは2度までだ。やり直すことは可能だが、大貴とある程度近づかなければならない。レベルも遠く及ばず、今まさに更に厄介なモンスターが近づいてきているこの場所にだ。


 なにより大貴がまたゲームオーバーになっていたなら、この路地を塞いでいるグリーントータスの討伐は必須になる。今苦戦しているこいつを、大貴を庇いながら倒せるか――?


「大貴!」


 聞こえているはずだ。まだ通信強度は保たれている。ゲームオーバーしていないはずだ。


 ――なら、なぜ応答がない?


 グリーントータスをかいくぐったときに苔に触れただろう。【潜った】状態で受けた生の侵食はそれほど深刻にプレイヤーの神経を削るダメージをフィードバックしているのか?


 バカな――巧は奥歯を噛み締め思考を殺す――これはゲームだぞ?


「ぎん……いろ」


 ふいに、大貴の声が耳をついた。意味はわからない。


 しかしこの状況下で無意味な通信を寄越すとは、とても思えない。


「なんだ? もっとよく――」


 グリーントータスが動いた。また足を地響きで掴まれかけて、さっと巧は飛び退いた。


 【マスター】が大通りに戻ってきた。同時にプツンと大貴との交信が途切れた。


 左右どちらの通りの奥にも大型種の姿は見えない。建物の向こう側なのか、もしくは――。


「ぢぃ――っ!」


 背後が爆発した。対岸の5階建ての建物が積み木のように崩れていく。


 なにかがぶつかったのだ。小綺麗だった大通りに煉瓦だったくずが散らばり、【掲示板】は砕け、かけらのいくつかが巧の脇を抜け、グリーントータスの甲羅に跳ねた。


 石畳に大きくクレーターを穿ったそれを、巧はすぐに理解した。


 おそらく建物を飛び越えようとしたのだろう。立ち高飛びでもするかのように。しかし高さは足りなかった。


 強かに体を建物に打ちつけたものの、比類なき質量を持ったその肉体でそのまま建物を押し倒して破壊したのだ。


 ――そして今、まさに、それは大貴を先ほど焼き消した大顎を広げている。


 口の開き方と視線で推測する。狙いは巧でもグリーントータスでもない。別の何かで――巧はほどなく、とばっちりで吹き飛ばされる。


「――イチかバチかだ。くそっ!」


 半ばやけになって、巧はプログラムを走らせた。開いた黒のウインドウに緑色の英数字がずらずらと綴られていき。


 モニターは炎で一杯になった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ