Part3 「この足跡はぼくのもの」その1
その日はすぐに目を覚ました。実に目覚ましのアラームが鳴る10分前だった。
朝の占いも高順位で、トーストの焼け加減も上々のキツネ色。紫のネクタイも一度でずいぶん綺麗に結べた。
気分は――決して良いものではなかった。
海原は「任せておけ」とも「必要なら呼び出す」とも言っていた。巧も「気にする必要はない」と断言していた。既に大貴ひとりの手に負えるような次元の話ではなくなっていることも理解している。
だが学校にも行かずに落ち込んでゲームに興じていた三好の姿が、大貴の脳の片隅からこびりついて離れない。
両親と軽く朝の挨拶と今日の予定を話し、さっと家を出ていった。そのまま徒歩で水前寺邸に向かう。
自転車は昨日学校に置いたきりだ。駅前のバスターミナルからならば水前寺邸の近場のバス停まで乗り継ぎ無しで行けるが、駅前は自宅から水前寺邸までの道のりの中間地点をとっくに過ぎている位置だ。昨日のタクシー代が財布に響いている手前、あまりお金を遣うのは気が引けた。
ゴールデンウイークでいつもの休日よりいくらか浮き足立っている街中を抜け、河川敷から野球場を横目に収める。黒い土色のダイヤモンドベースでは十数人の少年が揃いの白いユニフォームを着てキャッチボールをしていた。土手にはギャラリーが小さくまばらに固まっている。
おそらく今日は試合なのだろう。練習試合か地区大会かはわからないが、プレーに打ち込む選手達の活気は、離れた大貴にもじんと伝わってきた。
河川敷の先に見えた水前寺邸のチャイムを鳴らす。スピーカーごしに田中が「少々お待ちください」と返され、ほどなく堅く閉ざされていた門がのろのろと開け放たれた。飛び石に沿って中庭を抜け、ドアを引いて玄関をくぐる。
「いらっしゃい。ふじばやさん」
まず一番に絢音が迎えた。電動の車椅子に座り、白いワンピースの部屋着一枚という格好だ。座敷に上げてもらい、また先日と同じく居間に通される。
変わらず広々としたそこに、ほかの人間の姿はない。
少し意外に大貴は首をひねって、絢音は「ああ、お兄ちゃん?」と天井に指を伸ばした。
「昨日帰ってきてから部屋にこもりきりなの。また」
「また?」
インターホンで受け答えをした田中が迎えてくれなかったことを疑問に思ったのだが、すぐに打ち消した。1週ほど前に似たような事があったような覚えがある。絢音の手回しなのだろう。
「なんか最近はずっとそんな感じかな。ええっと、ぱっち……を作ってるんだって」
「ぱっち」
反芻して大貴はよく考える。パッチ。パッチワーク。プログラムの修正を行う作業のことだ。
昨日の会話が脳裏によぎる。もしかすると巧は、初心者の大貴の操作をサポートするようななにかを作っているのかもしれない。
随分前に趣味でプログラミングを勉強していたことは知っていた。そんなものを巧が作れるほどの技術があるのかどうかはわからないが――。
――できるのだろう。
大貴には「水前寺巧が本気で何かに取り組んで失敗する」という絵が漠然とさえイメージできなかった。
「ふじばやさんもゲームやってるんだよね?」
「そうだけど……巧が聞いたのか?」
「うん。すごくへたくそらしいぞ、って」
「あいつ……ッ」
嫌々しく大貴は顔をゆがませる。あまりに格好がつかないからふたりだけの時に話したのだが。
「それでね。きょうはわたしがふじばやさんにゲームを教えてあげようと思います」
えへんと絢音は胸を張った。強調された形のよい双丘を必死に意識の外に追いやろうと、とにかく会話のキャッチボールに集中する。
「……水前寺は得意なのか? ゲーム」
「パズルとか謎解きとかはよくやるんだけど、ああいうアクションゲームははじめて。だから慣れるのにちょっと時間かかったかな。もういくつもダンジョンをクリアできたし、レベルもいっぱいあがったんだ。でもやっぱりあんまり早く歩けないんだけど」
大貴が最初のダンジョンを行ったり来たりで一週間潰している間に、絢音はかなりこなれているようだった。うきうきとゲームの話を続ける様子を見るに、はじめの抵抗は見る影もない。
――買った本に書いてあった記述を思い出す。
【サイバーブルース】を介した【ヴァーチャルリアリティストラクチャ】によって構成された【仮想現実的電脳空間】での体験は、夢体験に近しい。仮想現実の技術は任意に夢を見る技術の派生であるからだ。
導く夢の世界を電脳空間の片隅に用意した共用スペースに指定し、人はそこでプログラム的に設定された常識の範疇で活動する。
動きを脳で考え、神経系に伝わる電気信号をインターフェースがキャプチャする。信号に則って電脳空間の自分が動き、動いた情報をまた脳に送り返し、脳は動いたことを知覚する。
【サイバーブルース】を使って電脳に接している限り、脳は決して休眠しない。常に情報の送受信を繰り返し、脳はそれを処理するよう頭を働かせては手足を動かすよう命令を下す。
――もしかしたら。それを読んで大貴は考えた。
巧が絢音にゲームを勧めた理由だ。絢音が歩けるように、練習の一環として用意したのではないだろうか。
大貴は絢音が歩けない理由を知らない。先天性かも後天性かも。聞いてはならないことのように思えたからだ。
だがその理由によらず、たとえ仮想現実だとしても、歩くという行為は絢音にとって価値あることのはずだ。事実、この技術の着想の大本は医療現場でのリハビリテーションだと聞いた記憶がある。
当時の技術ではシステムの開発にコストがかかりすぎることやシステム自体が大型化しすぎてしまうことなどの問題から実用化は見送られたが、家庭用のインターフェースとしてまでスリム化が進んだ今、本格的な導入が検討されているそうだ。
――もっとも、大貴に真意を確かめることはできなかった。
大貴はなにも知らない。絢音の車椅子の理由も歩ける見込みも、巧の考えも。
それらを受け止められるほど、大貴はまだ人間として強くない。
そしておそらく、彼らにとって、「藤林大貴の存在」も重くないのだろう。
「それじゃ、はじめてみようか?」
「わかった」
頷いて、大貴ははたりと気が付いた。絢音の遣う筐体のことだ。
以前、絢音を乗り込ませるのに巧は絢音を「抱き抱えて」いた。
生唾を呑み込む。
大貴は絢音の顔色を窺った。平然としている。
平然と――ひとりで筐体を開き、車椅子からシートによじ登っていた。
ひとりで。腕の力だけで。
「手伝わなくて大丈夫なのか……!?」
「んっ、まぁ……いい加減なれてきちゃった」
「そう……なのか」
はは、と乾いた笑い声を上げて大貴はがくりと肩を落として、はてと疑問に思った。
(……なんで残念がってるんだ俺)
大貴はこめかみをつついて首を捻る。おかしい。とてもおかしい。
今もそうで、昨日の三好のことなど特に顕著だ。
絢音にひどく「固執」している――ように思える。
絢音は好きだ。しかしそれは「人として」である。そのはずだ。
だが、それにしては妙だ。自分の理解を越えるほど深層から、実生活の最果てから。ふとした切り欠きが思考を絢音に結びつく。
意識しすぎだ。これでは、いまに――取り返しのつかない犯罪に発展してしまうのではないか?
「ふじばやさん、またぁ?」
長らく、およそ2・3秒程度の間の大貴の硬直の意味を知ってか、絢音は呆れたように肩をすくめて大仰に両手を広げた。
「なにをそんなに考えてるのか、わたしはわからないけれど、それ、そんなにだいじなこと?」
「大事かって、それは……その」
「すぐわかんないよーじゃ、きっとどうでもいいことだよ」
大貴が答えを窮したのは絢音が考えている領域とはまた違うことだ。
それを理解しつつ、しかし大貴は黙りこくることにした。
こうしたときの絢音は、ひどく勘がいい。こちらのあれこれの迷い・悩みの過程をすっ飛ばして、先にゴールにたどり着く方法を教えてくれているときさえある。
だが――ここで黙るのは、絢音の在り方を良しとしたからではない。
反論して答えを急かされても困るからだ。
「どうでもいいこと」。それは違う。それが大貴の大前提だった。
だが、それは、どう大事なのだろう――?
ひとりの当たり前の人間としてのごく一般的な倫理観に拠るものなのか。それは違う。であれば、世界はもっと平和に違いない。ヒトの中で生きているのに、こんなに人のことを意識して、そんな状態で、人間社会が正気で回るとは思えない。
それとも、ひとりの親しい友人に向けられる情念か。それも、いまひとつしっくりこない。たとえば海原だ。彼の部活に対する態度は、おそらくそうしたものと一つまみ程度の責任感が混ざり合って出来たもの。だから、責任感でガチガチに固められた三好とは、そもそものスタンスに些かのずれがある。
では、残るは、その二つともまたちがうものだ。
――たとえば、巧がたびたび持ち出すような。
長く、それこそ彼女に会ってからの2年の間、何度も自問し、そのたびに白紙を返してきた最大の難問だ。
答えは外のどこにもない。常に内側。自分の腹の底。
この世で最も複雑な迷宮の奥にいる。厳重に封をして、自分の醜悪な本性が、後生大事に抱いて眠っているのだ。
それを奪い取り、中身を検める。想像するだけで気が遠くなる行為だ。そっとしておきたい。
もしかしたら、それを正しく言語化し、藤林大貴が「認識」してしまったら。
それ以降、絢音とこうして顔を合わすことができるのか――それが不安だった。
――自分の支柱のひとつをノックしただけで、こんなにも自分が揺れてしまう。
なぜだ。
なぜ、こんなにも――「藤林大貴」は脆弱なのだ。
「よくわからないけど、やってみたらどうかな。ふじばやさん」
また思考の底なし沼に両足を突っ込んでいた大貴に、絢音はすっと手を差し伸べた。白く小さい、人形のような手のひらだ。
「ぜったいできるから。ふじばやさんなら」
「……そうかな」
「信じてよ」
じっと絢音が大貴を見つめた。自分の姿を見透かし溶かしてしまいそうなほど澄んだ瞳が、大貴の両目をぴたりと見据える。
大貴は、ただ黙って頷いた。絢音はすぐに笑って【エッグ】を閉じた。半透明の殻の向こう側から手を振ってくる。口が「向こうでまってる」と動いていた。
絢音はリクライニングシートに背中を寝かせ、頭はすっぽりとB級SF映画にでも出てきそうなヘルメットに覆われる。タッチパネルを指先で何度か叩いた後、それきり絢音は沈黙した。規則的な呼吸が胸を小さく上下させ、静かに眠りに入っている。
【エッグ】の外部液晶には【SYSTEM DIVING】の文字。絢音が電脳空間に『潜った』ことを表していた。
大貴は対岸のパソコンを点けようと、大型のモニターに近づいた。
――が。
いまいち勝手がわからない。
常識的に電源ボタンくらいは大貴にも容易に判別できる。しかしどうやら、この大型のモニターは多角的な使用方法を取っているようで、周辺には関連機材がごまんと積まれていた。
そのどれもこれもがらしいゴテゴテとした直方体の機材で、果たしてこの電源を入れればパソコンが立ち上がるのか家庭用ゲーム機が点くのか録画機器が点くのかテレビチューナーが点くのかケーブルテレビに繋がるのか、まるで見当がつかなかった。どうやら巧に聞いてみるほかなさそうだ。
(――「ぜったいできるから。ふじばやさんなら」――)
頭の中で、先の絢音の言葉が反響した。まさか、言った傍からパソコンも正しくつけられなかったとは。絢音の直感もその程度、ということなのだろうか。
居間を出て、大貴は一路に巧の部屋に足を向けた。訪ねたことは何度とある。途中すれ違った田中と簡単に挨拶をして、特別迷わず巧の部屋の前まで行き、ドアにかけられたインターホンを押した。巧が一時期の趣味で作ったものだ。
ドアの向こうからコンビニのセンサー音のようなメロディが流れ、ほどなくノブが回り、巧が顔を出した。目はにわかにとろんとしているが、妙な【凄み】を感じさせる光が目をギラギラとさせている。徹夜明けの人間特有の鬼気迫る生命の感覚。あと十数分後には燃え尽きているかもしれない輝きだ。
「おう。なんだ?」
巧はもしかしたら一瞬後にでも倒れそうな声を絞り出す。
「あー……その……」
――この弱った人間相手に「遊ぶからパソコン点けて」などとはさすがに切り出しにくい。
絢音には悪いが、巧を休ませるのを優先することにした。
「……調子悪そうだぞ? 無理してるのか?」
「ん、まぁ少し寝ればよくなるだろ。少し中、見ていくか?」
「えっ」
大貴の顔が「イヤだ」と歪み、巧の顔は「見ろコラ」と凄んだ。大人しく大貴は従って、巧の部屋にお邪魔する。
昨日、大貴に家へ来るよう自分から言っていたためか――部屋はそれなりに片づいていた。居間を思い返せばそこそこ常識的な広さのひとり部屋だ。朝の日差しが入りにくい西側にひとつ窓を備え、ロフトの上には布団が見える。
部屋の奥に置かれたパソコンデスクにどさりと座り、巧は半目を移して本棚に手を伸ばした。
棚には分厚い事典から薄い雑誌まで、難解な科学専門誌からうさんくさいゴシップ誌まで多種多様に陳列されていた。漫画本などは上下逆に入れられていたり3巻と4巻の間に別の雑誌が挟んであったり、大貴は持ち主の頭の中を一部分だけ垣間見えたように錯覚した。
棚から巧は専門誌を一冊抜き出してぱらぱらとめくり、大貴に目を向けニヤリと口元を緩めた。やつれた様子と相まって、どこか狂気じみた雰囲気を醸し出すそれに、大貴は心の中で震え上がった。
「以前、サーバーと自機とのデータ通信をフィルタリングするプログラムがあってな」
「はぁ」
「要はゲームサーバーから受け取ったデータをカットして通信速度を上げるプログラムだ。単純に、現実味のあるグラフィックをカクカクのポリゴンにしたり、究極的にはドット絵にしたりして処理を加速させるんだ。送り送られ、反映される情報が少なければ少ないほど処理は軽く早くなる」
「へー」
「【サイバーブルース】が一般化する前から、した今でもだが、それがネットゲーマーの常識のひとつだったんだよ。っても、バグや裏ワザや改造の趣味があるコアな層の話だけどな。オンラインゲームの管理と運営と開発は、不特定多数の愉快犯的なハッカーじみた行いを繰り返すユーザーとの熾烈な戦いでもあるわけだ」
「ほー」
「特に【サーバーブルース】の利用を前提とした【ヴァーチャルリアリティストラクチャ】を使ったゲームでのバグは直接的な人格攻撃に繋がる可能性もあるから、管理運営は非常に気を使っている。特に大手は躍起だ。可能な限りプログラムコードを最適化したり、基盤となるプログラム形態の仕様を工夫したりしてストレスのない処理の実現を目指したり、バグを起こしそうな場所は徹底的に抑え、不満になりそうな【ハッカーユーザー】を鎮めるために【公認パッチ】を定めたりしているところもあるんだ」
「なんとー」
「……興味ないのはわかったが、そう露骨にやらないでくれるか。結構ハートに来る」
「……ごめん」
「いや、悪かった。……掻い摘んで言うと手っ取り早く強くなれるプログラムを組んでるんだ」
専門誌を閉じて、巧はそれを本棚にねじ込んだ。座っていたキャスターのついたパソコンチェアを部屋の隅に蹴り飛ばし、フローリングに腰を下ろした。大貴を向かいに座るよう自分の手前をとんとんと叩く。
勧められるままに硬い床に座り込み、大貴は巧と同じ目線で会話を続けた。
「なんか凄いな。大昔にプログラミングをかじってたって話は聞いたけれど、そんなことまでてきるのか?」
「配布されているパッチの中身をいじっただけだ。一から作ったわけじゃないし、結構無駄も多い。もっと技術のある人間なら短時間で効率的かつ合理的に作れたはずだ。それに理論は専門誌で特集してたおかげでパッチの中身も割とすんなり理解できた」
専門誌、と言って巧はちらりと本棚を指し示す。はじめに大貴の前で開いていたものがそれに当たるのだろう。あまりに大貴が無関心だったせいで深く語る気は削がれてしまったようだ。
「本来は運営のサーバーから送られてくるデータ、他のプレイヤーの状況やフィールドの状態なんかだが、それを制限して処理速度を上げるパッチなんだ。それを今回、データを【削る】んじゃなく、別のプレイヤーに【配る】パッチに書き換えた」
「……それ、なにがどうなるんだ?」
「正直、処理が劇的に早くなることはない。配っただけで削っていないからな。同じ情報を共有するから連携が取りやすくなるくらいか。上手く働けばアバターのリモート操作もできるはずだ。お前みたいな初心者のフォローをしやすくなるから相当やりやすくなるはずだ」
いまいちぴんと来ないのか、大貴は軽く首を傾げ。
「サポートしてやるから、ちょっと絢音に良いとこ見せてこい」
――思わず咳き込んだ。