Part1 「藤林大貴のありふれた休日」その1
今日もまた、朝が来た。
夢と現実の間でぼんやりと瞼を開け、大貴は布団から体を起こした。窓の隙間から漏れ出る海のにおい。頭をがりがりと掻き毟って洗面台までふらふらと歩いていき、少し乱暴に顔を洗う。
にわかに目を覚ましかけた自分自身に駄目押しをするよう、歯磨き粉をつけすぎた歯ブラシを口の中にねじ込んだ。広がるミントの清涼感が一気に眠気の残滓を吹き飛ばす。
朝食を取ろうとリビングに出て、既に起きていた両親に朝の挨拶をする。「今日の予定は?」「学校で部活っす」「休みなのにか?」「山場ふたつ前だそうで、見学に」「そうか。成績、落とすなよ」「……はい」と朝刊から目を離さない父親と簡単に会話しつつ、大貴は食パンをトースターに差し込んだ。
パンが焼きあがるまでおおよそ2分。そのうちに大貴は席を外し、昨日の晩から充電器に入れたままの携帯電話を手に取った。着信はないが、メールは2件届いている。
うち1件の差出人は【板垣健吾】――部活の先輩だ。
折角学校が休みなのだから新入生の歓迎でもしたいところだが、公演が1月先に控えているためあまり余裕がないから勘弁してほしい。蚊帳の外で申し訳ないが、今日4月22日も朝から学校で部活をやっているから是非参加して雰囲気を知っていてもらいたい――という文面だった。
わざわざこうしたメールを送ってくれるあたり、彼の人柄がにじみ出ている。
簡単に了承の内容を書いて送り、大貴は次のメールに目を通す。
――愕然とした。
題名は「助っ人求む!><」。内容は【力を借りたいから今日の10時に砂浜公園に。あと今日は雨降るかも】という中身がまるで分らないもの。
差出人は――【水前寺絢音】。
大貴は数秒黙りこくり。
結局、板垣には続けて「急用のため午後から出ます」と短い断りの連絡を入れた。
チン、と小気味いい音を立て、トースターが仕上がりを告げる。大貴は携帯電話を通学鞄に放り、新父親の横に腰掛けた。
朝食はジャムたっぷりのトースト2枚と牛乳。それは、ミントでスースーした口の中を【まっすぐ】にする、大貴の毎朝のメニューだった。
テレビの天気予報では、今日は晴れるだろうと言っていた。
ブレザーの学生服に袖を通し、大貴は鏡の前で紺のネクタイの向きを正した。通学鞄を肩にかけ、履き慣れた白のスニーカーを踵にひっかけて外に出る。
空は青く、見える雲は白く、小さい。いい天気だった。朝に似合う健やかな雰囲気だ。肩にかけた荷物に反して大貴は体を軽く感じた。
弾んだ気持ちで潮風に誘われるようにして歩くこと十数分。砂浜公園に到着した。
ぐるりと公園を見渡せば、まばらに人の姿が確認できた。浜を縁取るこの公園は横に広く、ちょっとしたジョギングコースに使われることも多い。
【水前寺絢音】がどこに出てくるかは大貴にはわかりかねるが、ひとまずひとつの区画でじっとしていることにした。
袋ナットのような形状の事務所を横切り、海開きを3か月先の今ではまだ事務所が閉まっていることを確認する。大貴は傍の砂浜を囲む銀の手すりに両肘を乗せた。
春過ぎの暖かな陽光を一身に受け、浮かべた汗を潮風でぬぐう。大貴はポケットから文庫本を取り出した。植物図鑑。
ぱらりとめくると、ページの大半は写真で使われていた。青々とした茎。広がる葉。春を切り取ったような桃色の花弁。草花が息づく写真の端にその花の名前と簡単な出自が添えられていた。
大貴にも聞き覚えのある名前だ。昔、理科の教科書で見た覚えがある。多種多様な草花の中でもかなりベーシックなものに違いない。
【水前寺絢音】は――大貴は手元で移り変わる草花に目を落とし、ふと考える――こういうものに詳しいのだろうか。
詳しくても不思議ではない、とは思う。詳しいに決まっている、とはさすがに言い切れないが。
彼女はロマンチストだ。きっと大貴よりも多くの花を知っている。
仮に、もし仮に、花言葉を意識したプレゼントを送ったなら――。
ぱたん。
図鑑を閉じてため息を挟む。付け焼刃ではすぐにメッキが剥がれてしまうのは当たり前の話だ。
大貴は無造作にネクタイを少し緩めた。気持ちを切り替えようと目を閉じて、スゥ――と指の先から頭の奥まで、新鮮な海風で全身を洗い、細く細く空気を吐き出し。
「ふじばやさん?」
緩みきった瞬間、声を掛けられた。
垢抜けたソプラノの声。
聴きなれた――【水前寺絢音】の声だ。
思わず肺に溜まった空気でせき込みそうになるのを必死でこらえ、ほとんど抱きつくように手すりに捕まった。
一度二度と声の主の姿を探してきょろきょろとして、ほどなく「こっちですよ」と。すぐ後ろから聞こえてきた。動転しすぎて気が付かなかったのだ。
我ながら情けないと内心で悪態をついて、大貴はくるりと振り返った。
ゆったりとしたワンピースにジャケットを羽織っていて、海の潮風にセミショートの黒髪を揺らしていた。その傍らには、いつものように黒のタキシードをきっちりと着こなす白髪交じりの男性が控えている。
「よ……よっ、水前寺。こんにちは、田中さん」
「【絢音】でいいのに」
絢音はくすりと笑って見せ、その後ろで田中がぺこりと軽く黙礼を返した。
田中はお辞儀でずれた丸レンズのメガネを片手で直して「私はお気になさらずに」と微笑を浮かべている。大貴は薄く笑い返して肩をすくめ、絢音は上目遣いに首をかしげた。
「ふじばやさん、どうかしたの? なんかヘンだよ」
「えっ……と? そうかな? なんでもないかも」
とても「気を抜いていたからびっくりして」と正直に答えられない大貴だった。それはあまりに恰好悪すぎる。
「でもヘン」
絢音は田中を置いて、からからと大貴に近づいて来る。大貴の紺のブレザーの袖口をつかみ、じっと上目遣いに大貴を見やった。
銅色の大きな瞳。真実を見通そうとする目だ。大貴の背中がじんわりと汗ばんでいく。
「あー……水前寺。それで、何を手伝えばいいんだ?」
しどろもどろになりながら大貴は無理やり話題を変えた。絢音は小さく頬を膨らませ、しかしすぐに持ち直した。
乗り出した身を引いて軽く乱れた衣服を正しつつ、大貴と目線を合わせて言葉を漏らした。
「もしかして、わすれてる?」
「へっ」
「ばか。はくじょうもの」
ぷい、と絢音が顔をそらした。大貴はあたふたと視線を泳がせる。
そのSOSをしっかりと受け取って、しかし田中は微笑を浮かべたままだ。
「では、私は向こうに車を止めたままですので、先に」などと残し、空気を読まず(あるいは読んだうえで)どこかへ行ってしまう。ふたりを残したまま。
いよいよ当てがなくなって、大貴は無造作に頭を掻き揚げた。折れかけた気持ちが傾いて、どうにか一言、声に乗せた。
「ごめんなさい」
「誠意が足りてない。もっかい」
「ごめんさな、なさい」
「噛んだの、ごまかさない」
「ごめんなさい」
「それはごまかしたことに対して?」
「……ごめんなさい」
絢音は意地悪く笑って、んっ、と顎をしゃくった。少しだけわがままな態度。大貴は黙って従った。
絢音の背後にまわって手を伸ばし――黒いゴムグリップのハンドルに指をかける。
軽く力を乗せるとギッと軽合金のホイールを覆うラバータイヤがアスファルトに散らばる小石を蹴散らした。絢音を乗せた車椅子を押して、大貴は公園の中を歩いていく。
「……ほんとに忘れてる?」
「手帳を見れば思い出すと思うけれど……その、まさか……君の誕生日か何か?」
「半分だけせーかい、かな。おにいちゃんの誕生日。近いの。あさって」
「ああ、巧の? なんだ……」
「心配して損した」と大貴はがっくりと肩を落とした。そのリアクションが気に入らないのか、また絢音は頬を膨らませる。
「なんだってなぁに? 祝うときは【手伝いに行くよ】ってくれるって約束したのに! かっこわるいのーっ!」
「……ごめんなさい」
絢音に怒られ続ける大貴は、公園の敷地の向こうで停まった黒い車に視線を飛ばした。
車の傍に控える田中の微笑がはっきりと見て取れ――。
――大貴は少しだけ、むず痒い気分になった。
大貴は車椅子を押して街中を歩いていた。
田中の車まで辿り着いて、開口一番、絢音が「田中。私と藤林さんは歩いて向かうことになったから」などとはっきり言ったためだ。
大貴が口をはさむ間もなく田中はぺこりとお辞儀して、また迅速に車を出していってしまった。
大貴は少しばかり肩を落とすが、「おにいちゃんへのプレゼントを用意しなきゃ。そーでしょ? 手伝ってくれるって言ったよね?」という絢音に逆らえるような心はまったく持ち合わせていなかった。
水前寺の家は、このご時世で執事なぞを雇える程度に裕福な家庭だ。とはいえ古くからある「貴族的」な家ではなく、近代から取引で成り上がった実業家の家らしい。
とはいえ、成り上がった当初の「財力にものを言わせた悪どいあれこれ」の結果はそこそこ残っているらしく、様々な業界に細々と人脈が残っているーーというのは、件の水前寺家の長男・水前寺巧の台詞である。
それが本当かどうかは大貴の知るところではない。知ってはイカン感じがするのも本音である。
そして今、その水前寺巧にプレゼントを選ばなければならないーー。
一般市民の大貴にしてみれば、いくらか恐れ多い行為だ。しかしどうやら大貴の「安いプレゼント」を巧はそれなりに楽しみにしてくれているようでもあった。
相手が喜ぶ保証があるのだ。であるなら、贈るべき、いや、贈りたいと思うのが人情である。
なにより――この状況は役得のようにも思っていた。
まばらにシャッターを下ろしているアーケード街に目を広げる大貴をよそに「最近のおにいちゃんの好みってわかる?」と絢音がふいに切り出した。
「巧の? んんー……花札、は去年だったっけ。それから鉄道模型で、プラモデルで、空き缶回収で……利き茶、書道、競馬、ドラムでプログラミング……?」
「空き缶回収のあたりからちがう。プラモデルのあとは手品で、お手玉で、犬のさんぽ……あれ?」
人差し指で上唇をなぞり、絢音はちいさく首を傾げた。
巧は【趣味・人生】と恥ずかしげのなく断言するような男で、その【趣味】を謳歌するためか、日々様々な事柄に挑んでいる。熱しやすく冷めやすい性格ともいえる。
その彼が今現在にちょうど手を付けている【趣味】を言い当てるなど、大貴にとってはまさに雲をつかむような話だった。
ならば、と大貴は考える。
当てられない趣味を下手に勘ぐるより、彼の知らないアイテムを贈った方が喜ばれるはずだ。巧にしろ絢音しろ、それを期待している節もある。
スポーツ用品、生鮮食品、玩具、カメラ用品、各種惣菜、雑誌、豆腐、パン屋に花屋――ちらほらと開いている小さな店を物色しつつ、大貴と絢音は寂れたアーケード街を上っていく。
アーケード街の外れの大型のパチンコ店にまでいよいよ来て――はてさてどうしよう。いまいちピンと来るものがない。
この先、店舗は小学校の前の駄菓子屋くらいしかないが。
ちらり、と大貴は視線を落とした。吹き上がる海風に黒髪を揺らし、頬を押さえるようにして絢音は首を傾げている。その表情にはいくらかの陰りも見え隠れしていた。
はたして、それは兄への贈り物に関する憂いの色か、付近の小学校のグラウンドから聞こえてくる元気な喧騒によるものか、先ほど惣菜屋を過ぎた辺りからそわそわとして下腹部を撫でているのと関係があるのかーー。
大貴に絞ることはできなかった。
「水前寺。水飴って知ってる?」
とりあえず、と大貴は探りを入れてみた。まずは軽いジャブ。絢音改め水前寺代表の反応を見る。
「みず……あめ」アクセントからして既に少々違っていた。「ああ、キャンディの中に入っているあのべとべとしたあれのこと?」
「ありがとうわかった」
この【わかった】は絢音の指しているものに対して、である。
さしずめ、カラメルソースだのクリームだのジャムだの酒だの、欧米諸国のハイカラなあめ玉やらチョコレートやらの中に入っているものを思い浮かべたのだろう。
まぁ違う。水飴とはもっとーーと、情熱的に語れる程に詳しくない大貴は口をつぐんだ。
特にこの場合、下手に語るより見せた方が早いだろう。実物は目の前である。
「水前寺。この先にちょっと面白いお店があるんだ。そこで選ぼう」
「それ、さっきのとなにか関係あるの?」
「見てからの」
そう言って、大貴は緩やかな坂を歩いていく。車椅子を押して。