第1話 外れた予言
「あなた、三日後に毒を盛って身を滅ぼすのよ」
会ったこともない令嬢が、診察室の戸口でそう言い切った。
私は乳鉢の中で薬草を擦る手を止めて、声の主を見上げた。仕立てのいい春色のドレスに、櫛目の通った淡い金の髪。王立治療院の薬包みと血の匂いが染みついたこの部屋には、どう考えても場違いな娘だった。
どこかでお会いしただろうか。記憶をたどっても、社交の場で挨拶を交わした覚えはない。
「失礼ですが、どちらの方でしょうか。お加減が優れないのでしたら、先に受付へお回りください」
娘は私の言葉など聞いていなかった。両手を胸の前で組んで、久しぶりに会えた友人でも見つけたみたいに目を輝かせている。
「やっと会えた! あなたがシグリ・ノルドルムね。治癒術士の名家の、噂のご令嬢」
名前を呼ばれて、私は乳鉢を置いた。襟首のあたりがふっと強張ったのは、その名乗りにまるきり覚えがなかったからだ。私はこの娘を知らない。なのに彼女のほうは、長年の知己のような顔で私の名を口にする。
「忠告しに来たの。これから起きること、わたくし全部知っているから。あなたは三日後、想い人のために毒を用意して、それが露見して破滅する。そういう筋書きなの。お気の毒だけれど、決まっていることだから」
筋書き、と彼女は言った。芝居の台本でも読み上げるような口ぶりで。
毒を盛る、という言葉だけが妙に現実味を帯びていて、私はつい職業の癖で考えてしまった。誰に、何の毒を、口から入れるのか、それとも傷から入れるのか。馬鹿げた問いだと分かってはいる。けれど毒の扱いはこの治療院で私が一番心得ていて、心得ているからこそ、自分がそんな粗忽な真似をするとは到底思えなかった。
そもそも、なぜ会ったこともないこの娘の中で、私が毒で人を害して身を滅ぼす役回りに、勝手に仕立て上げられているのだろう。そんな筋書きに、私はこれっぽっちも覚えがないというのに。
「あの、想い人というのは」
「あら、まだいないの? おかしいわね」
彼女は形のいい眉を寄せて、初めて言葉を探すように口ごもった。
「……そう。まだ、なのね。だったらこれからよ。順番が、少し違うだけ」
ひとりで頷いて、彼女はもう私の返事を待たなかった。春色のドレスが翻って、診察室には薬草の青い匂いだけが残される。乳鉢の底では、擦りかけの葉が乾きはじめていた。
私は作業に戻ろうとして、なぜか手が動かないことに気づいた。
その日の午後、考える暇は別の形で奪われた。
廊下の奥から重い足音と、押し殺した呻きが近づいてくる。戸が乱暴に開いて、血の匂いのほうが先に飛び込んできた。若い騎士をひとり肩に担いだ大柄な男が、息を切らして立っている。担がれたほうは腿を布で縛っていたけれど、その布はもう用をなしていなかった。
私はもう立ち上がっていた。さっきまで動かなかった手が、嘘のように勝手に動く。
「そこの寝台へ。腿の付け根を上から押さえて、絶対に緩めないで!」
大柄な男は一瞬だけ私を値踏みするような目をしたものの、言われたとおりに部下を寝かせて、傷口の上を太い腕で押さえた。布をほどき、傷を洗い、糸を通していくあいだ、彼はずっと部下の手を握っていた。私の手元から目を離さないまま。
その視線は不躾だったけれど、不快ではなかった。手当てを見慣れない者の落ち着かない目ではなく、自分も幾度となく傷を負ってきた人間の、最後まで見届けようとする目だったからだ。
「演習中に落馬して、岩で打った。血が止まらなくて。こいつは、まだ十六なんだ」
低くて、必要なことしか言わないのに、最後の一言だけが余計だった。十六でも六十でも私のやることは変わらない。それでも彼は、その一言を言わずにいられなかったらしい。
縫い終えて手を拭くと、男はようやく長い息を吐いた。
「助かった。礼を言う。ヨーレン・ヴァト、第三騎士隊の隊長だ」
名乗られて、私はそこで初めて彼の顔をまともに見た。日に灼けた頬に、古い傷が一本。笑い方を知らなそうな、四角い顔をした人だった。
「ヴァト隊長。部下の方に無理をさせないでください。十六なら、なおさらです」
そう言うと、彼はなぜか虚を衝かれたように黙り込んで、それから妙に神妙に頷いた。叱られ慣れていない男が叱られたときの顔だ、と思った。騎士隊の隊長ともあろう人が、おかしな話ではあるけれど。
戸口で、彼は一度だけ振り返った。何か言いかけて、結局は言わずに、手の甲の擦り傷をそっと握り込む。私が気づいていないとでも思ったのだろうか。あれくらいなら放っておいても治るので、わざわざ口にするほどのことでもなく、私も黙って見送った。
それから三日。
何も、起きなかった。
毒を盛る予定など端からない私にとって、三日後はいつもどおりの三日後でしかなかった。朝に火傷の手当てをして、昼に熱を出した子どもを診て、夕方には騎士団から運ばれてきた捻挫を二件。誰も死なないし、誰ひとり毒に倒れたりしない。あの令嬢の予言は、見事と言いたくなるほど綺麗に外れた。
ただ、ひとつだけ白状すると。薬棚にある毒物の抽斗を、私はその日、一度も開けなかった。開ける用がなかったといえばそれまでだけれど、普段なら無意識に手が伸びる場所を、なぜか一日じゅう避けていたのだ。馬鹿馬鹿しい。会ったこともない娘の戯言に、私は確かに一度、足を取られていた。
その三日目の夕暮れに、ヴァト隊長がまた訪ねてきた。今度は誰も担いでいない。
「ノルドルム様。手の擦り傷が、その、膿んだ気がして」
膿んでなどいなかった。傷口はとうに塞がりかけている。それでも私は何も言わずに消毒の布を取った。隊長は寝台の端に律儀すぎるほど浅く腰かけて、棚に並んだ薬瓶を珍しそうに眺めている。
包帯を巻きながら、三日前の令嬢のことを思い出した。あの娘は私の名を知っていた。家のことも、私が治癒術士であることも。社交界で会った覚えなど一度もないのに、まるで昔からの知り合いのような顔で。
予言が外れたのは、構わない。気にかかるのは、そこではなかった。
会ったこともないあの娘は、どうして私のことを、あんなに知っていたのだろう。




