終章 名前の残り方
夕陽は、ピラミッドの縁から落ちるように沈んでいった。
王の間からの脱出は混乱の連続だったが、ユーナの攪乱とハリドの保安経路の知識のおかげで、三人は辛うじて地上へ戻れた。保全局は記録核喪失で対応に追われ、個々の追跡は甘くなった。奇跡みたいな、でも現実的な逃げ道だった。
地上へ出たとき、風が吹いていた。
日中の熱を失い始めた風。乾いているのに、どこか優しい。
サラはスフィンクスの影のふちに座り込んだ。
足の力が抜ける。
掌にはもう何もない。
なのに、軽くはなかった。
ユーナが隣へ座る。
少年は沈む太陽を見つめたまま言った。
「ごめん。もっと早く動けたかもしれない」
「謝らなくていい」
「でも」
「今日、君が来なかったら、私は一生、半分だった」
ユーナは唇を結び、それから小さく頷いた。
その横顔には、年相応の疲れが出ていた。
やっと子どもに見える。
ハリドが三本の温いボトルを持って戻ってくる。
砂漠で冷えた飲み物を期待するほど、彼はロマンチストではない。
「飲め」
サラは受け取って、一口飲んだ。
塩と柑橘の味がした。
喉の奥がじんとした。
生きている舌の味だ。
「これからどうするの」
ハリドが訊く。
サラは夕陽を見た。
ピラミッドの面が赤く染まり、巨大な石の一つ一つに影が溜まっていく。時間が形を持つ瞬間だった。
「追悼考古士は続ける」
「だろうな」
「でも、やり方を変える」
「どう変える」
サラは少し考えた。
言葉が、前よりも素直に出てくる。
「国家や制度が捨てた記録を拾う。名前のない人を、ちゃんと人として残す。ライルみたいに、“機能”だけで数えられた人を」
ハリドは短く笑った。
「面倒な仕事だ」
「知ってる」
「手伝ってやってもいい」
「貸しの精算?」
「半分はそれ」
サラも少し笑った。
頬がまだ痛い。泣きすぎたせいだ。
ユーナがボトルを両手で握りながら訊く。
「僕も、行っていい?」
その言い方があまりに真っすぐで、サラは瞬きをした。
「危ないよ」
「今日でもう知ってる」
「給料安いよ」
「今もない」
「朝、弱い?」
「強い」
そこで、三人とも少しだけ笑った。
ほんの少し。
でも確かに。
太陽が沈みきる直前、サラは風の中に目を閉じた。
砂が頬を撫でる。
遠くで観光ドームの夜灯が点き始める。
電子音楽と、売店の呼び声と、子どもの笑いが混じる。
世界は、誰かの喪失と無関係に、ちゃんと今日を終える。
それが前は、残酷に思えた。
でも今は少し違う。
終わるから、次が来る。
失うから、名を呼ぶ。
呼ぶから、残る。
サラは目を開けた。
夕闇の向こうで、ピラミッドは黒い三角になっている。
何千年も前の墓であり、未来の保管庫であり、今日だけは、ひとりの弟を見送った場所でもあった。
「ライル」
呼ぶ。
返事はない。
でも、もうそれでいいと思えた。
風が吹いた。
砂が足元を流れた。
流れて、止まらない。
サラは立ち上がる。
膝が少し笑う。けれど、ちゃんと立てた。
半分ではなく、全部で生きるのは、きっと痛い。
思い出すたびに痛いし、幸せになるたびにも痛むだろう。
それでも、その痛みを見ないふりしなければ、人はようやく前へ歩ける。
彼女はピラミッドに背を向けた。
ユーナが立ち上がる。
ハリドが歩き出す。
三つの影が、夜へ向かって伸びる。
誰かを失った日が、誰かと生き直す日に変わることがある。
奇跡ではない。
たぶん、それが物語のいちばん本当のところだ。
砂はすぐに形を失う。
でも、名前は違う。
呼ばれた名前は、
誰かの中で、明日へ残る。




