第六章 夕陽の選択
ライルの記録は完全な映像ではなかった。
輪郭は光で、声は風に混じる。
それでも確かにライルだった。
七年前に途切れた時間が、ここだけ息をしている。
『ねえちゃん、泣かないで』
サラは泣きながら笑った。
そんな器用なことがまだできるのかと、自分で少し驚いた。
「無理」
『そっか』
ライルが困ったように笑う。
その仕草まで同じだ。
胸が痛い。
でももう、目をそらしたくなかった。
『あのね、ぼく、ちょっとだけ分かるんだ。ここ、ずっといたから』
「ずっと……」
『でも、いやじゃなかったよ。こわいときもあったけど、おとうさんがいたし』
サラは目を閉じた。
父はいたのだ。逃げたのではなく、そこに残っていた。
『ねえちゃんは、ずっと自分のこと怒ってたでしょ』
返事ができない。
沈黙が答えだった。
『だめだよ。だって、ぼく、ねえちゃんにありがとうって言いたかったんだもん』
「なにを」
『いつも手をつないでくれたから。暗いところで、ぼくより先に怖がらないでいてくれたから』
サラの指先が震える。
石床に落ちた涙が、ひとつ、ひとつ、淡い灯りを映した。
『でもね、もういいんだ』
「よくない」
思わず言い返した。
子どもみたいな声になった。
「よくないよ。全然。私はまだ、一回もちゃんと謝ってないし、一回も守れてないし」
『守ってくれたよ』
「守れてない!」
王の間に、叫びが跳ね返る。
自分でも驚くほど大きかった。
「私は、あの日から、ずっと、あんたが死んだところで止まってるの。仕事して、ごはん食べて、笑うこともあるけど、全部半分で……半分だけ生きてるみたいで……!」
息が切れる。
視界が滲み、でもライルの光だけははっきりしている。
「なのに、もういいなんて、言わないで」
ライルは少し黙った。
それから、静かに言った。
『じゃあ、ねえちゃん。半分じゃなくなる方法、選んで』
ユーナが端末画面を見つめたまま口を開く。
「選択肢が二つある。記録核を中枢へ返せば、ライルの人格は長期保全される。その代わり、国家鍵として使われ続ける可能性が高い」
「もう一つは」
「ここで解放する。人格記録を砂層へ散らして、鍵機能ごと消す」
「つまり、死なせるってことか」
ハリドの声は低かった。
ユーナが苦しそうに首を振る。
「もう十分、死んでる。これは、その残り方を選ぶってことだよ」
王の間の外から、警報が聞こえた。
追跡部隊が近い。時間がない。
サラはライルを見る。
光の粒がまつ毛の代わりに揺れている。
抱きしめられない。
手も握れない。
それでも、目の前にいる。
「ライルは、どうしたいの」
少年は少し考えるみたいに目を上げた。
昔からそうだった。難しいことを言われると、天井を見る癖。
『ねえちゃんが、ちゃんと生きられる方』
その答えはずるい、とサラは思った。
優しい人はいつも、最後にずるい。
外の扉が衝撃を受け、鈍い音が響く。
ハリドが前へ出てスタンナーを構える。
「早く決めろ」
サラは記録槽へ手を伸ばした。
光球の熱は意外なほどぬるい。冬の朝、誰かが座っていた椅子に残る体温みたいだった。
半分で生きる。
痛みを避けるために、記憶を檻に入れる。
それとも、失うと分かっていて、なお手放す。
彼女は唐突に思い出した。
幼いころ、ライルが砂丘の斜面で転んで、膝を擦りむいた日。泣きそうなくせに、彼は痛い場所を隠して笑った。サラが無理やり見つけて、砂を払い、傷口を水で洗った。ライルはそのとき、べそをかきながら言ったのだ。
「いたいの、みないふりすると、ずっといたい」
サラは目を開けた。
「解放する」
ユーナが息を呑む。
ハリドは何も言わない。
ただ、そう言うと思っていたみたいな顔をした。
「ライルを鍵のまま残さない。人として終わらせる」
『うん』
ライルが笑った。
その笑顔に、ようやく七年越しの終わりが見えた。
「でも、終わりじゃないから」
サラは泣きながら言った。
「忘れない。忘れないで生きる。仕事も続ける。誰かの名前を拾い続ける。だから、行って」
外扉が破られる音。
白い照明。足音。怒号。
ユーナが解放手順を展開する。
サラは認証片へ掌を押し当てた。
血流を読む赤い線が走る。
人格記録解放、実行。
光球がふわりと膨らんだ。
砂嵐に似ていた。
でも怖くない。
ひとつひとつの粒が光で、あまりに静かで、きれいだった。
ライルの輪郭がほどけていく。
最後に、彼の声だけが近くなった。
『ねえちゃん』
「うん」
『ちゃんと、しあわせになって』
サラは泣きながら頷いた。
頷くしかできなかった。
光が弾ける。
王の間いっぱいに、金色の砂が舞った。
古代の石。近未来の装置。怒号。警報。全部がその中で一瞬だけ等しくなった。
その砂はサラの頬へ触れ、まぶたへ触れ、唇へ触れた。
しょっぱかった。
泣いている自分の涙と、区別がつかなかった。
ハリドが保全局員を押しとどめ、ユーナが回線を攪乱する。
サラは立ち尽くしたまま、光が消えていくのを見た。
なくなる。
本当に、なくなる。
でも、消えることと、なかったことになることは違う。
その違いを、サラは初めて、自分の骨で理解した。




