第五章 王の間の嘘
扉が開いたとき、まず匂いがきた。
乾いた石でも、古い金属でもない。
長いあいだ密閉されていた記憶特有の匂い。
紙に似ていて、でも紙ではなく、雨の前の土に似ていて、でももっと静かな匂い。
王の間は、想像していたよりも暗かった。
高い天井。中央に据えられた石棺型の記録槽。壁面には古代の継ぎ目が残り、その上へ後世の保全装置が格子状に巡っている。千年単位の技術が、ここでは無理やり同居していた。
ユーナが記録槽へ走る。
認証印を重ね、隠し鍵を差し込む。
装置が目覚める低い音が、床から足裏へ伝わった。
「あと一段階」
「急げ」
ハリドの声に緊張が混じる。上層で追跡が本格化しているのだろう。
だがサラは、装置ではなく壁際の記名パネルに目を引かれていた。
そこに、父の名前があった。
イーム・ナディーム
そのすぐ下に、もうひとつ。
ライル・ナディーム
指先が勝手に伸びる。
触れた瞬間、パネルが個人認証を感知し、小さく開いた。
中に入っていたのは一枚の記録片。
掌サイズの、古い形式のもの。
ラベルには乱れた字で書かれている。
サラへ
サラは息を吸うのを忘れた。
体が先に理解して、心が追いつかない。
「再生しろ」
ハリドが短く言う。
サラは頷き、記録槽の補助端末へ差し込んだ。
映像が立ち上がる。
父がいた。
七年前の、最後に見た年齢のまま。
制服の襟は裂け、頬に砂が張りついている。背後では警報灯が回り、誰かの叫び声が遠くで反響していた。
父はまっすぐこちらを見た。
その目に、サラは見覚えがあった。
弟が高熱を出した夜、母の遺体に最後の布をかけた夜、同じ目をしていた。耐えながら、決めてしまった人の目。
『サラ。これを見ているなら、たぶん私はもう、おまえの前に戻れない』
映像のノイズが走る。
サラの膝が震えた。
『時間がない。だから先に謝る。おまえから、父親である権利を奪ってしまってすまない』
「……なに、勝手に」
声が漏れた。
ひどく小さかった。
『ライルの事故は、自然災害だけじゃない。あの日、保全局は試験中だった。砂嵐粒子に記憶素子を混ぜ、広域保管する計画だ。だが制御を誤り、避難区画の子どもたちへ未調整の記憶波が流れ込んだ』
ユーナが息を呑む音がする。
ハリドの顔から表情が消えた。
『ライルは、その過負荷に巻き込まれた。体は生きていた。だが、別の問題が起きた』
父はそこで一度、目を閉じた。
開いたとき、瞼の裏まで疲れていた。
『ライルの脳内に、保全計画の中核鍵が定着した』
サラは意味を理解できず、ただ立っていた。
『子どもの適応率が異常に高かった。ライルは偶然、国が欲しがる“生きた鍵”になった。保全局は彼を回収しようとした。私は逃がした』
映像の向こうで警報音が強くなる。
父が一度だけ振り返り、また戻る。
『サラ、おまえは弟を見失ったと思っているだろう。違う。私が、おまえから引き離した』
サラの喉が焼けた。
息を吸っても空気が足りない。
『おまえはあのとき、ライルの手を離していない。最後まで離していない。離したのは私だ』
世界が、音を失った。
七年間、自分を責め続けた一点が、形を変えて目の前へ落ちてくる。
信じたい。
信じたくない。
どちらも同じだけ重い。
『ライルは泣かなかった。おまえの名前を呼んだあと、こう言った。“ねえちゃんは悪くないよ”』
サラの視界が滲んだ。
床の輪郭が歪む。
『私は彼を保全層へ隠し、鍵を分離する方法を探した。だが保全局は、彼を人として残す気がなかった。鍵として保存し、いずれ分解するつもりだった』
「嘘だ……」
『だから私は、ライルの人格記録を分割し、一部を封印した。全部を奪われないように。全部を国家のものにしないように』
映像が乱れる。
父の輪郭が砂みたいに崩れかける。
『その結果、彼の記録は公的には不完全なノイズになった。おまえに知らせれば、おまえまで狙われる。だから私は死んだことにした』
サラの頬を涙が伝った。
温かいのに、落ちるとすぐ冷えた。
『憎んでくれていい。だが、もし間に合うなら、今日、王の間の中心層を開け。そこにライル本人の最後の選択が残っている。決めるのはおまえだ。彼を鍵として残すか、人として終わらせるか』
映像が切れる寸前、父は初めて小さく笑った。
それは、サラがよく知っている笑い方だった。
嬉しいときの顔ではない。泣かせたくない相手の前でだけ作る、不器用な笑顔。
『サラ。生きろ』
暗転。
その瞬間、サラの膝が折れた。
石床へ手をつく。冷たさが掌に刺さる。
呼吸がばらばらで、涙が止まらない。
「……最低だ……最低だよ……」
許しを乞うには、遅すぎる。
隠すには、多すぎる。
守るというには、傷が深すぎる。
でも、弟の手を最後に離したのが自分ではなかったと知ったとき、胸のいちばん黒い場所が、音もなく崩れた。そこにあった自責が消えたのではない。形が変わったのだ。怒りと悲しみと安堵が、泥のように混ざった。
ユーナがそっと近づく。
「サラ」
「まだ、あるの」
「中心層の記録が」
サラは頷こうとして、うまくできなかった。
代わりにハリドが肩を支えた。大きな手。重い体温。
「立てるか」
「……立つ」
声は震えたが、嘘ではなかった。
ユーナが最後の認証を走らせる。
石棺型の記録槽がゆっくり開き、中央に小さな光球が浮かび上がる。
砂粒の集まりみたいな記憶核。
淡く、でも確かに脈打っている。
その中に、ライルがいた。
八歳のまま。
少し癖のある前髪。
笑う前に、必ず鼻先に皺を寄せる顔。
サラは一歩、近づいた。
喉が締まり、声が出ない。
やっとのことで名前を押し出す。
「ライル」
光球が揺れた。
少年が顔を上げる。
『ねえちゃん』
たったそれだけで、サラの心は壊れた。
壊れて、それでも立っていた。




