第三章 旅のはじまり
地下保守道の終点は、スフィンクスの西側顎下にある旧点検室へつながっていた。
ハッチを開けると、砂の匂いが一気に流れ込む。
外へ出たサラは、思わず目を細めた。スフィンクスの影が大地へ長く落ちている。巨獣のようでもあり、眠れない番人のようでもある。風が吹くたび、石の表面からかすかな粉が舞い、光の中で銀色にきらめいた。
観光区画から少し外れているため、人影は少ない。
遠くに見えるドーム列から、楽器の練習のような電子音が聞こえる。どこかの売店が、古代風の音階を観光用に流しているのだろう。
「ここから先は歩きだ」
ハリドが肩掛けバッグを渡してきた。中には簡易灯、解錠器、保存ジェル、水筒。
サラは水を一口含んだ。
ぬるいのに、喉には優しい。
飲み込むとき、自分が思ったより喉を乾かしていたことに気づく。
ユーナが前へ出た。
「王の間に入るには、まず旧中継室を通る。そこに保全局の副認証が残ってる」
「詳しいね」
「知ってるから」
言葉が短い。
秘密が短くなってきている。
時間がないのだろう。
三人でスフィンクス脇の保守路を降りる。
石段は長い年月で角が丸く、靴底のゴムが擦れるたび、乾いた粉が舞った。
途中、サラは立ち止まった。
壁面に、誰かが古い方法で彫った文字が残っていたからだ。観光用ホログラムではない。手で刻んだ、本物の傷。
「忘れられるのは死ではない」
指でなぞると、溝に砂が溜まっている。
ざらりとした感触が爪先に残った。
「古い避難民の落書きだ」
ハリドが後ろから言う。
「戦災期、この辺りは記憶保管庫の出入口でもあった。遺体を運び込む奴、生体データを預ける奴、家族の名簿を彫る奴。ひどい場所だった」
サラは手を離した。
石の冷たさが指先から抜けていく。
「ひどい場所だったのに、綺麗に見える」
「そういうもんだ。遠いものはたいてい綺麗に見える」
「人も?」
「さあな」
ハリドはそれだけ言って先へ進んだ。
サラは彼の背中を見た。
昔、好きだった。
いや、今でもたぶん、好きなのだと思う。
ただ、その感情にはいつも砂が混じっている。掴めば崩れるし、握れば痛い。
旧中継室は、岩盤をくり抜いた小部屋だった。
中央の認証台は割れている。壁沿いに並ぶ記録ラックの半分は空で、残りの半分には無数の薄板が眠っていた。風が入らないはずなのに、どこかから微かな砂の擦れ合う音がする。
ユーナが最奥の端末へ駆け寄る。
小さな手で手際よくコードを繋ぎ、認証印を浮かび上がらせた。
「ここまではまだ使える」
「まだ、ね」
ハリドが銃型スタンナーの安全装置を確認する。
穏やかな旅ではない。
その事実が、部屋の温度を少しずつ下げていた。
サラは記録ラックの端で、一枚の薄板を見つけた。表面のラベルが擦れてほとんど読めない。だが、かろうじて残る文字の形に覚えがあった。
NAD—
胸が、ぎゅっと縮む。
「サラ?」
ハリドの声が遠い。
サラは薄板を端末へ差し込み、再生を試みた。
投影はひどく乱れていた。
砂嵐のようなノイズの向こうに、男の横顔が見える。父だ。七年ぶりに見る、父の顔。頬が痩せ、目の下に影がある。誰かに向かって早口で何か言っているが、音声は途切れ途切れで聞き取れない。
ただ最後の一文だけが、不自然に鮮明だった。
「サラには知らせるな」
映像が切れた。
サラの中で、何かが硬く音を立てた。
期待が折れたのか、怒りが戻ったのか、自分でも分からない。
ただ、掌の薄板が汗で滑りそうになる。
「守るためかもしれない」
ユーナが小さく言う。
「知ってる」
サラは即座に返した。声が冷たかった。
「そういう解釈が一番、人を傷つけるってことも知ってる」
彼女は薄板を棚へ戻した。
乱暴に見えない程度に、少しだけ強く。
ユーナが端末を起動し、副認証路が開いた。
壁の一部が低い唸りを上げ、奥へ続く縦穴が現れる。
王の間へ至る古い保守シャフト。
熱い空気が下から吹き上がってくる。
石と鉄と、閉じ込められた時間の匂いがした。
サラは最後に一度、外を振り返った。
スフィンクスは相変わらず黙っている。
何千年分の別れを見ても、まだ黙っていられる顔だ。
「行こう」
そう言った自分の声が、少しだけ変わっていた。
朝の自分より硬い。
でも、逃げていない。
旅とは、遠くへ行くことじゃない。
戻れない場所へ、自分で足を向けることだ。




