第二章 転落の音
裏搬出口から外へ出た瞬間、熱が頬を打った。
保護ドームの下とはいえ、昼へ向かうギザ高原は乾いていた。光は粒の細かい刃物みたいに白い。観光軌道の向こうに、三つの大きな影が浮かんでいる。ピラミッドは遠くから見ると静かだ。巨大なのに、黙っている。黙って、何千年も誰かを見送ってきた形をしている。
サラは足を止めなかった。
「どこへ行くの」
「知り合いのところ」
「信用できる?」
「私よりは」
通路脇の補修用昇降機に飛び乗り、保全区外縁の整備層へ下りる。観光客の声は上の方で薄まり、代わりに機械油と温められた石の匂いが強くなった。
整備層の奥、古い船渠を改造した車庫で、男が一人、輸送バギーの下に潜っていた。
片腕だけが外に出ていて、工具が金属を叩くたび、甲高い音が響く。
「ハリド」
足だけが止まった。
「ああ、朝からろくでもない顔をしてると思ったら、おまえか」
車体の下から這い出てきた男は、サラを見上げて片眉を上げた。三十代半ば。日に焼けた肌。無精ひげ。左のこめかみから耳の後ろへ、古い火傷痕が走っている。昔より笑わなくなった目をしていた。
その目がユーナへ移る。
「拾った?」
「違う。追われてる」
「もっと悪いな」
ハリドは立ち上がり、布で手を拭いた。油の匂いが立つ。
「説明」
サラは短く事情を話した。
父の名前。弟の記録。夕陽までの期限。
ハリドは最後まで黙って聞いていた。
聞き終えると、サラではなくユーナに言った。
「おまえ、どこからその情報を持ってきた」
「保全局中央層」
「どうやって」
「入れる場所がある」
「誰の差し金だ」
ユーナは答えなかった。
黙り方が、ただの子どもではない。
ハリドの視線が細くなる。
疑っている。正しい。
サラも、もちろん分かっていた。
だが、疑いと同じだけ、胸の底に別のものがあった。
期待だ。
あってはいけないほど、強い。
「行くのか」
ハリドの問いはサラに向けられていた。
サラはピラミッドの稜線を見た。
白い光の中で、影だけが深く青い。
「あそこにライルの最後があるなら、行く」
「最悪の答えでも?」
「答えがないよりはいい」
ハリドは鼻で息を吐いた。
「それ、半分嘘だな」
サラは言い返せなかった。
彼は工具箱を蹴って閉じ、輸送バギーの後部ハッチを開けた。
「乗れ。正規ルートは封鎖される。下の保守道を使う」
「手伝ってくれるの」
「貸しだ。でかいやつ」
その言い方に、ほんの少しだけ昔が混じっていた。
サラの胸が痛んだ。
痛んで、少しだけ温まる。嫌な感じだと思う。
バギーが走り出す。
整備層の暗い通路を抜けるたび、照明がフロントガラスに流れて、ユーナの横顔を切り取った。まだ幼い頬に、眠れなかった影がある。
サラは不意に訊いた。
「あなた、ライルを知ってるの」
ユーナは窓の外を見たまま言った。
「会ったことはない」
「じゃあ、どうしてそこまで」
「会ったことがなくても、消えてほしくない人はいる」
その答えに、サラはしばらく何も言えなかった。
バギーが地下保守道へ滑り込む。
天井は低く、コンクリートの隙間から細かい砂がこぼれていた。タイヤが踏むたび、きゅっ、きゅっ、と湿り気のない音がする。
その音が、突然、あの日の残響を連れてくる。
砂嵐警報。
停電。
弟の手。
見失う瞬間。
それから、空白。
サラは前触れなく息を詰めた。指先がこわばる。
ハリドが気づき、片手で操作桿を握ったまま、もう片方の手を差し出した。
触れない距離で止める。
選ぶのはおまえだ、と言うみたいに。
サラは躊躇してから、その手首を掴んだ。
固い筋肉の上に、温かい脈が打っている。
たったそれだけで、視界の白さが少しずつ引いていく。
「大丈夫だ」
ハリドは前を見たまま言った。
大丈夫、という言葉は嫌いだ。
たいてい、大丈夫じゃないときにしか使われないから。
それでも、その声は嫌いじゃなかった。
バギーは闇を走る。
地上では観光客が笑い、土産の香料が売られ、遠い昔の王たちの名前がアナウンスされているだろう。
けれど地下では、忘れられた道がまっすぐ、王の間へ続いていた。
サラは手首を離した。
掌には、まだ彼の体温が残っていた。
転落には音がある。
でもその底で、人はときどき、まだ誰かの鼓動を聞く。




