第一章 幸福のかたち
入ってきた少年は、観光客には見えなかった。
年は十三か十四。
黒いフードつきの薄衣をまとい、喉元まで砂除け布を巻いている。靴は擦り切れていたが、姿勢だけは妙にまっすぐだった。見られることに慣れた子の立ち方だった。
「追悼考古士のサラ・ナディーム?」
「そうだけど」
少年は扉が閉まるのを確認してから、左の袖をまくった。皮膚投影の認証印が現れる。一般市民のものではない。管理階層の上位権限だ。
サラは眉を上げた。
「それ、盗んだ?」
「借りた。返す時間はない」
「正直ね」
「正直でいないと、今日が終わる前に全部消える」
声が震えていた。だが、泣くまいとして飲み込んだ痕が、喉の動きで分かった。
少年は卓上へ記録片を置いた。透明な薄板の中で、暗号が青く脈打つ。
「王の間の封印記録を開いてほしい」
サラの指が止まる。
「どこの王の間」
「大ピラミッド。中央軸、旧王室記憶層」
「冗談なら笑えない」
「冗談じゃない」
サラの背中に、薄い汗が滲んだ。
大ピラミッド中心部の記憶層は、一般考古士どころか保全局でも一部しか触れられない。古代の副葬情報だけではない。戦災避難時代に一度、国家レベルの記憶保管庫として再利用された経緯がある。そこには個人の追悼では済まない記録が眠っている。
「なんで私」
「あなたの父の名前があるから」
空気が、そこで一度止まった。
サラは少年の顔を見た。
少年は目をそらさなかった。
まだ幼いはずなのに、覚悟だけが年を取りすぎていた。
「……誰」
「ユーナ」
「名字は」
「ない。少なくとも、今は」
サラの指先が冷えた。父の名前。そこに続く、嫌な予感の輪郭が濃くなる。
「目的は?」
「ある記録を、今日の夕陽までに取り出すこと」
「誰の」
ユーナは一拍遅れて答えた。
「ライル・ナディーム」
サラの視界が揺れた。
机の端に置いていた金属スプーンが、カップの縁から落ちて、乾いた高い音を立てる。
その音だけがはっきりしていた。
体の中が、一瞬で白くなる。
「……なんで、その名前を」
「彼の記録が、今日で完全消去されるから」
「そんなはずない」
「封印記録の保全期限が切れる。移送前に不要データは切り捨てられる。彼の記録は公的には存在しないことになっているから」
サラは立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、耳障りな音が走る。
「公的に存在しないって、どういう意味」
ユーナは唇を噛んだ。
それだけで、まだ全部は言えないのだと分かった。
「あなたのお父さんは、七年前の砂嵐事故のあと、国家保全計画に関わった。そこで記録の取捨選択が行われた」
「父は保全技師だったけど、現場から消えた。うちを捨てて」
言ってから、舌が苦くなった。
何度もそう言ってきた言葉なのに、今日だけは妙に乾いていた。
ユーナは首を振った。
「捨てたんじゃない。たぶん、隠した」
「なにを」
「あなたを守るために」
サラは笑った。
喉だけで、刃物みたいに短く。
守る。
その言葉は便利だ。
いなくなった人間はだいたいそれで美化される。
「帰って」
「サラ」
「帰って!」
怒鳴った瞬間、胸が軋んだ。
ユーナはびくりと肩を縮めたが、逃げなかった。
そこへ、作業棟の外扉が開く音がした。
重い靴音。規則正しい足取り。
サラはその歩き方を知っている。
「保全局だ」
ユーナの顔から血の気が引いた。
次の瞬間、サラは自分でも考えずに、少年の腕を掴んでいた。
「こっち」
細い腕だった。熱があるみたいに熱かった。
作業棟の裏口へ走る。工具棚の横を抜け、冷却ダクトの狭い通路へ滑り込む。背後で正面扉が開かれ、人の声が重なる。「管理権限の不正使用」「未成年者の所在確認」。
サラはユーナを壁際へ押し込み、自分の体で隠した。
金属壁が背中に冷たい。
ユーナの息が速い。
肩が小さくぶつかって、震えが伝わる。
「なんで助けるの」
「うるさい」
「追い返したのに」
「うるさいって言ってる」
自分の声が荒い。
怒っているのか、怯えているのか分からなかった。
でも、分かっていることがひとつだけある。
ライルの名前を聞いた瞬間、サラはもう平穏な朝へ戻れなくなった。
靴音が遠ざかる。
数秒遅れて、彼女の心臓がどくんと大きく鳴った。
幸福は、壊れるときだけ形を持つ。
その朝、サラはそれをはっきり見た。




