エピローグ2-2
光が、溢れていた。
目を開けているのか閉じているのかもわからない。
世界という境界がなく、すべてが溶け、混ざり、等しく“無”と“全”の中間で漂っていた。
けれど、その中に“僕”は確かにいた。
名前を知っている。けれど、名乗らない。
この世界では、その音を発すれば、世界が震えてしまうからだ。
だから僕は沈黙のまま、ただ存在していた。
呼吸も心臓も、体もない。
あるのは――思考だけ。
けれどその思考すら、外界の風景のように“僕ではない”気がしていた。
僕は「考えている」わけではなかった。
考えという現象が、僕の中を通過していく。
思考が、僕を使って言葉になっていく。
それは不思議な感覚だった。
まるで“世界の思考”が、僕を一時的に媒体として利用しているような。
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光の中に、黒い影が滲んだ。
けれどそれは闇ではない。
むしろ光を包み、光を護る“虚”の膜。
それが、僕の核。
生まれた瞬間から、僕という存在の中心にあった“矛盾の欠片”。
光と虚が重なり合い、静かに鼓動を打つ。
そのとき、彼女の声が――
世界のすべての波動と調和して、降ってきた。
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「……やっと、安定しましたね。」
柔らかい声。
空気が震えるほどでもなく、風を動かすほどでもない。
けれど、その一言が、確かに“音”という概念を再び世界に定義した。
光が撓む。
彼女の姿が、その中心に立っていた。
メイプル。
白銀と水を溶かしたような髪。
虹を透かすような瞳。
肌は光の結晶のようで、透けるように儚い。
その足元には、無数の“記録”が波紋のように広がっていた。
僕が見ているのは彼女の姿ではない。
“記録の可視化”だ。
メイプルという存在は、世界そのものの観測装置――すなわち記録の神格。
彼女の一挙一動が、宇宙の書記そのもの。
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「……僕は、どこにいるんだ?」
声は、音ではなく意志の波として放たれた。
するとメイプルはゆるやかに微笑み、光の粒を指先で撫でた。
「あなたは、“定義の外”にいます。
ここはまだ、どの世界にも属さない場所。
あなたの魂が再び“存在”として書き換えられる、その最初の頁です。」
言葉が意味を持つたび、光の粒が音を奏でる。
彼女の言語は、詩であり、構文であり、祈り。
「再び……生きるのか。」
「ええ。ただし、今回は“観測者”として。」
メイプルの瞳が、ゆっくりと僕の核を覗く。
その眼差しは、優しく、そして痛いほど真っ直ぐだった。
「あなたは、世界にとって例外です。
存在確率が“ゼロ”でありながら、“存在している”。
矛盾のまま、成立してしまった存在。
だから、あなたを《虚真》と呼びます。」
その言葉が、魂に刻印された瞬間――
世界がまたひとつ、息を呑むように震えた。
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「あなたに、《転生・虚真の証》を授けます。」
メイプルが両手を掲げる。
掌の間に、無数の光と式が浮かび上がる。
金属が歌うような響き。魂が震えるような律動。
僕の心臓がまだ形を持たないのに、鼓動を刻み始める。
「これは“加護”です。あなたがこの世界で、もう一度立ち上がるための“根”。」
彼女が指を動かすたび、僕の体に光の線が走った。
線が繋がり、環ができ、環がひとつの魔法陣となる。
それは僕の内側で刻印のように輝く。
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《加護:転生・虚真の証》
◆ アイテムボックス
――時間のない避難所。
剣も記憶も、痛みも愛も、全てをそのまま保存できる。
忘却から逃れるための永遠の箱。
◆ マップ
――魂の座標を記録する羅針。
地形ではなく「存在確率」を測る。
嘘をつけば道を失い、真を見据えれば帰るべき場所を照らす。
◆ 経験値倍加
――未来を先読みする時間干渉。
まだ学ばぬ知識が今刻まれる。
その速度ゆえ、孤独に包まれる。
◆ スキルポイント倍加
――知識を魂に焼き付ける拡張構文。
知を吸収するたび、己の人間性が削られていく。
◆ 多重無詠唱
――思考と発動の直結。
世界があなたの想いを代弁する。
だが発動を重ねるほど、魂の温度は静かに冷えていく。
◆ 完全鑑定
――“視る”は“侵入”に等しい。
すべての存在を解析し、真実を暴く。
そのたびに、他者の記録があなたを蝕む。
◆ 完全隠蔽
――存在を改竄する加護。
世界から“観測”されない静寂を纏う。
それは逃避ではなく、拒絶の優しさ。
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メイプルはさらに手をかざし、空間に新たな光を紡いだ。
その光は三つの形へと変わる。
ひとつ――黒と白の鞘を持つC級太刀。
もうひとつ――銀に雷光を宿すC級大剣。
最後に――光の封に包まれた袋。
「この二振りはあなたの初期武具。太刀《霜影》と大剣《焔哭》。
どちらも魂に適応するまで、時間が必要です。
この袋の中には保存食と、八界共通通貨が入っています。
量は少ないですが、あなたが目覚める地では十分でしょう。」
「通貨……」
その響きに、僕の中で別の世界の記憶が微かにざわめいた。
「はい。ミッドガルドをはじめとする八界では《ソウル基軸制》が使われています。
銀貨は《ソウル・シルバー》、金貨は《ソウル・ゴールド》。
結晶貨は国家間取引用。
そして冥府では黒貨が使われます。
ただし――あなたが生まれる場所、アビス・ネクロムには“通貨”の概念そのものが存在しません。」
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メイプルは静かに手を差し伸べた。
「アビス・ネクロム。あなたの生まれる世界。
死と理、炎と氷、そして再生が呼吸する“生きた世界”です。
そこでは、時間も物質も、血のように循環しています。
街はありません。神も国もいません。
すべての存在は“理の呼吸”として動いています。」
「……世界が、生きている?」
「ええ。そこでは山は脈を打ち、海は夢を見ます。
空は思考し、地は記録します。
あなたが踏む大地は“神々の死骸”であり、
その中で生きる生物は“機構”と“魂”の融合体。
血ではなく理を流し、心ではなく記録で生きています。」
「つまり、生命とは……稼働、なのか。」
「その通りです。あなたが目覚める場所は“死の稼働域”。
理が錆び、神が朽ち、血が機械を動かす世界――それがアビス・ネクロム。」
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メイプルの瞳がわずかに淡く光った。
「でも、心配しないで。
あなたの加護があれば、世界はあなたを拒まない。
そして、“幻影魔法”の基礎構文はすでにあなたに刻んであります。」
「……魔法形体?」
「ええ。この世界では、魔法は属性ではなく“構文体系”として分類されます。」
彼女は指先で幾何学的な光陣を描いた。
「火、水、風、土――これが基礎四属性。
そこから派生する炎、氷、雷、樹。
さらに上位の光、闇、無。
そして空間・時間・毒・重力等―
これらが干渉属性群。
あなたの魂に刻まれているのは“幻影”。
闇と氷と雷、そして光を重ね合わせた特異複合属性。」
「幻影……」
「そう。現実と虚構の境界を曖昧にする力。
あなたは“存在を書き換える”ことができる。
だが同時に、あなたの存在もまた書き換えられる。」
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光が一瞬、彼女を透かした。
その瞬間、彼女はまるで祈るように両手を胸に当てた。
「これで、あなたは準備が整いました。
どうか――観測者として、生きてください。」
光が脈打ち、世界の形が崩れ始める。
風が鳴り、音が消え、時間が融ける。
その中で、彼女が最後に微笑んだ。
「……あなたのステータスを確認して。
世界が、あなたを受け入れる準備を始めています。」
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「ステータス」
僕の目の前に、文字が浮かんだ。
それは魔法でも機械でもない。
魂の表面に刻まれた、“存在の帳簿”。
【ステータス】
名称:――(未登録)
種族:人間(転生体)
レベル:1
職業:無職(未設定)
属性:雷・氷・闇・光
スキル:転生・虚真の証
加護:純幻誓愛
魔力:350
攻撃力:240
防御力:215
魔法攻撃力:360
魔法防御力:300
素早さ:275
幸運:――
それは、数値の羅列ではなく、魂の構造式だった。
見慣れないのに、懐かしい。
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数字が脈打つたびに、心臓が応える。
音のない拍動。呼吸のない息。
それが、僕の“生”だった。
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「……行きなさい。あなたの世界へ。」
メイプルの声が、微かに震えた。
その震えは祈りの余韻のようで、風よりも静かだった。
彼女が指を鳴らす。
光が反転し、重力が崩れ、世界が裏返る。
僕は堕ちていく。
落下ではなく、還流。
生の流れへと、再び合流していく。
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落下の途中、メイプルの声が淡く追ってきた。
『アビス・ネクロム。あなたが生まれる世界の名です。
死と理、炎と氷、そして再生の循環が交わる場所。
そこでは、命が時間ではなく“理”によって流れます。
機械も神も、死すらも呼吸をしています。
あなたの生は、そこから始まる。』
声が遠ざかる。
恐怖はない。
むしろ安堵に似た温かさ。
『……あなたがどんな世界を創っても、私は記録します。
たとえ滅びの果てでも、あなたの存在を観測し続けます。
――だから、生きてください。虚の真理。』
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世界がひっくり返る。
光が引き裂かれ、無数の文字が走り出す。
空間の構文が解体し、再構築される。
数字と音と光と感情が混ざり合い、
ひとつの巨大な詩になる。
その詩の名こそ――《再誕》。
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その瞬間、彼は世界の書記として再定義された。
生まれることは罪ではなく、観測の権利。
そして記録することは――愛だ。
メイプルは見ていた。
虚と真の狭間に咲く、一輪の矛盾を。
彼の名がまだ語られぬその瞬間を、
世界のすべての頁に、静かに刻んでいた。
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次の瞬間、光が閉じ、世界が沈黙した。
アビス・ネクロム。
死が呼吸し、理が眠る世界。
そこに、ひとつの魂が――堕ちた。
そして、世界は再び動き出した。
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“名を持たぬ者よ。
その名を呼ぶのは、世界ではなく――お前自身だ。”




