エピローグ 2-1
転生の最中です
――最初に、世界はまだ優しかった。
生まれたばかりの僕は、泣くことを許された唯一の存在だった。
母の掌は温かく、父の声は低く穏やかで、妹の笑い声は鈴のように澄んでいた。
あの頃の世界は、きっと“愛”という名の幻を信じてもよかった。
けれど、希望はいつだって脆い。
妹が死んだ。小さな棺が運ばれた日から、世界は軋み始めた。
母の瞳からは色が消え、父の言葉は刃に変わった。
家という檻の中で、愛は形を変えた。
優しさが命令に、撫でる手が殴打に、微笑みが罵声に変わるのを、僕はただ見ていた。
⸻
ある日、世界の形が変わった。
“虐待”という名の儀式が始まったからだ。
父の手が、鉄より重く。母の沈黙が、刃より鋭く。
夕食の時間になると、食卓の上にはご飯ではなく“恐怖”が並んでいた。
僕はそれを黙って飲み込んだ。
喉が焼けるように痛くても、吐いたらまた叩かれる。
“叩かれる”という言葉が、“触れられる”のと同義になっていった。
世界が反転したのだ。
やさしさとは、痛みのこと。
笑顔とは、仮面のこと。
家族とは、監獄のこと。
「ごめんなさい」「僕が悪いの?」
そう言えば、殴られないこともあった。
そう言わなければ、骨が折れた。
家は舞台だった。演技をやめれば幕は落ち、観客は血を求める。
小学生の僕は、その法則を早々に理解した。
教師の前では笑顔を貼り付け、友達の前では沈黙を装った。
世界がひび割れていく音を、毎晩、耳の奥で聞いていた。
「お前なんか生まれなければよかった」
あの言葉が、心臓の奥で何度も再生される。
夢の中でも現実でも、音だけが何度も再生されて、
僕はそのたびに、何かが削れていくのを感じた。
僕の心は、その頃からゆっくりと壊れていった。
でも壊れる音は聞こえなかった。
壊れるたびに、僕は自分の“心臓”を小さく折りたたんで、胸の奥にしまい込んでいった。
まるで誰かに拾われないように。
⸻
中学に上がると、家の外も地獄になった。
世界はもっと狭くなった。
学校という牢獄。クラスという檻。
教室の空気は、酸素ではなく悪意でできていた。
僕の存在は汚れのように扱われた。
椅子は消され。
教科書は破られ。
机の上に刻まれた言葉。
僕の名前を笑う声。
僕を笑う名前。
誰も僕を見なかった。
いや、正確に言えば、「見ないふり」をしていた。
世界は残酷ではない。ただ、臆病だった。
臆病なまま、誰もが僕を“痛みの練習台”にした。
――人って、どこまで残酷になれるんだろうね。
答えは簡単だった。
「僕が存在する限り、世界は残酷であり続ける」
そう思うようになった。
朝が怖くなり、夜が恋しくなり、
夢の中でさえ、誰かの声が僕を責めた。
「お前なんて、生まれてこなければよかった」
その言葉が呪いみたいに脳の奥で反響する。
僕の存在は、世界にとっての“異物”なんだと理解した瞬間――
心のどこかが、ようやく安堵した。
“あぁ、僕はいらないんだ。”
そうか、なら、消えていいんだね。
⸻
それでも、僕は死ねなかった。
死にたかったのに、生きる方が面倒で、死ぬことすら贅沢だった。
夜のベランダから見える街灯の光が、星の墓標みたいに見えた。
人の心が腐っていく音を、もう聞きたくなかった。
だから――
死んだとき、少しだけ、ほっとした。
「やっと終わった」と思えた。
死の瞬間、恐怖はなかった。ただ、救済のような静けさがあった。
骨が軋み、意識が潰れ、視界が赤く滲んでいく。
その奥で、影が蠢く。
僕を傷つけた人たちの顔が浮かんでは消える。
父の叫び、母の嘲笑、同級生たちの笑い声。
「お前は失敗作だ」「消えろ」「お前が死ねばいい」
声が重なり、世界が歪んで、視界が暗転する。
──それでも、安堵していた。
やっと消えられる。
やっと、すべての痛みが止まる。
そう信じていた。
⸻
……けれど、世界は僕を許さなかった。
死の闇の先には、さらに深い“光”があった。
光は水のように流れ、僕の身体を包み込んだ。
落ちていくようで、浮かび上がっていくようで、
生と死の境目が曖昧に溶けていく。
僕は思った。
――ああ、まただ。
また、終わらせてもらえない。
消えたいのに、消されない。
死を拒むこの世界が、いちばん残酷だ。
死とは、救いだった。
死とは、優しさだった。
死とは、ようやく訪れた“安らぎ”だった。
⸻
……そして、僕は“終わり”ではなく“始まり”に辿り着いた。
――でも、そのときの僕は、まだ知らなかった。
“死後の世界”というものが、僕にとって“救済”ではなく、
“もう一度、生きろ”という理不尽の始まりであることを。
⸻
『……目を、開けて』
声が、聞こえた。
柔らかく、けれど透明な音。
水面を撫でるような、息のような囁き。
目を開けると、そこは――空でも地でもない。
雲と光が溶けたような、白金の海。
身体が沈んでいるのか、浮かんでいるのかもわからない。
空気はなく、呼吸もいらない。
ただ、美しく、穏やかで、冷たくて、優しい。
水の底のようで、天の上のような場所。
“転生の間”――と、僕の中で言葉が浮かぶ。
この世界は、死者が最後に訪れる静寂のゆりかご。
⸻
『……こんにちは、あなた。』
声の方を見ると、そこにひとりの少女がいた。
少女、と呼ぶには神々しく、美しい。
髪は氷と光のあいだを彷徨う銀青、
瞳は虹色に揺らぎ、微笑みは世界そのものを包むようだった。
背には光の翅が透け、衣は水面の反射のように揺れている。
その存在を見ただけで、胸の奥の痛みが一瞬、薄れた。
『ようやく、来たのですね。……あなたが、そう願ったから。』
僕は、言葉を失う。
少女はゆっくりと近づき、
その瞳で僕のすべてを見透かしたように言った。
『私はメイプル。世界の記録を見守る者。あなたを迎えるために、ここにいる。』
その名を聞いた瞬間、
僕の記憶の奥で何かが軋むように鳴った。
彼女はすべてを知っているような瞳で微笑んだ。
『そして――この子が、フェンリル。私の守護者にして、あなたの古き友。』
白銀の獣が静かに姿を現した。
その瞳は氷のように澄み、息は神気そのものだった。
僕を見下ろすでもなく、ただ、静かに見つめる。
まるで「また会えたね」と言っているような眼差しで。
⸻
「……どうして僕を……また……」
言葉が途切れる。
喉が乾いて、呼吸の仕方を忘れたようだ。
メイプルは微笑んだまま、そっと僕の手を取った。
その温度は、現世で感じたどんなぬくもりよりも優しかった。
『あなたは、望んだから。
“忘れたい”と願い、“生き直したい”と願った。
だから、私は――あなたをもう一度、生かすの。』
「生かす……? 僕は、もう死んだのに……」
『ええ。だからこそ、始まりなの。
あなたは何度も転生して、そのたびに記憶を手放してきた。
悲しみを抱えすぎた魂は、記憶を削って再び形を取る……
それが、あなたの選んだ“救い”の形。』
「救い……?」
僕は、思わず笑ってしまう。
笑うしかなかった。
「救いなんて、あるわけがない……。何度だって地獄なんだ……」
『ええ。地獄です。』
メイプルは、涙を浮かべて微笑んだ。
『あなたが生きた世界は、あまりにも痛かった。
でも――あなたはまだ終わっていない。
“終わり”を拒むのは、世界ではなく……あなた自身。』
「……僕が……?」
『そう。あなたは“消えること”すら諦めきれない優しさを持っている。
死にたいほどの痛みの中でも、誰かを恨まなかった。
それが、あなたを“選ばせた”理由。』
彼女は指先で僕の頬を撫でる。
その指先は、涙のように冷たく、柔らかかった。
『あなたは、まだ“始まっていない”。
だから、私はあなたにもう一度――“世界”を見せる。』
メイプルの声が、遠くで響いていた。
けれど、それはもう音ではなく、水の中の泡のようにくぐもっていた。
“生かす”とか“選ばれた”とか――そんな言葉は、僕の中では意味を持たなかった。
生きることが地獄なら、選ばれたこともまた罰だ。
「……僕は、もう、要らないんだ。」
唇が震え、声がこぼれる。
言葉が出るたびに、胸の奥から黒いものが滲み出ていくようだった。
「みんな、僕を見なかった。
あの家も、学校も、世界も。
僕がいなくても、何も変わらない。
だったら、最初から……いらなかったんだ。」
世界が波紋のように歪む。
白い光が黒く濁り、空気が軋む。
記憶の残骸が次々に溢れ出して、目の前の空間が歪曲していく。
――叫び声。
――罵声。
――拳の音。
――机を蹴り飛ばす音。
――笑い。
――沈黙。
あの部屋の臭いまで戻ってくる。
鉄のような血の匂い、腐った涙の味。
耳の奥で、骨が折れる音が何度も何度も再生される。
それが自分の音だと、理解している。
「……いやだ、思い出したくない……!」
僕は頭を抱えた。
声が掠れて、喉が痛む。
痛みが現実みたいに鮮明だ。
いや、現実よりも、ずっと現実だ。
思い出したくなかった記憶が、雪崩のように押し寄せてくる。
幼い自分の泣き顔。
妹の小さな手。
それを振り払った父の姿。
その後の沈黙。
母の笑い声。
あれは笑ってなんかいなかった。
壊れていただけだ。
「僕が……僕が、壊したのか……?」
世界が暗転した。
光が裂け、記憶が崩壊する。
床も空もない空間で、僕の精神だけが落ちていく。
下も上もわからない。
ただ、無限に落ちる。
落ちて、落ちて、落ちて――
⸻
『――もう、いいのですよ。』
声が、僕の耳に触れた。
メイプルの声。
その響きは、まるで心臓の鼓動を抱きしめるようだった。
気づくと、彼女が目の前にいた。
白い光の中で、髪が揺れている。
瞳が、まっすぐ僕を見ていた。
彼女はそっと僕を抱きしめた。
細い腕なのに、不思議とあたたかく、世界ごと包まれるようだった。
『あなたは、何も悪くありません。
生きることに罪はなく、壊れることも咎ではありません。
あなたが泣いたことも、怯えたことも、すべて“生きた証”です。』
「……嘘だ……」
『嘘ではありません。私は記録を見ています。
あなたは誰よりも、優しかった。
傷つけられても、憎むことができなかった。
そんなあなたを、“この世界”が見逃すはずがないのです。』
「僕は……生きたいなんて、もう思わない……。
死にたいんだ……もう……終わりにしたい……」
メイプルは目を閉じた。
一筋の涙が頬を伝い、僕の手の甲に落ちた。
その雫が触れた瞬間、心の奥が震えた。
まるで、氷の心臓がひび割れるように。
『それでも……私はあなたを愛しています。』
その言葉は、静かで、絶対だった。
恋ではない。
哀しみでもない。
それは、存在そのものを肯定する“愛”だった。
『あなたがどれほど絶望しても、私はあなたを見捨てません。
たとえあなたが世界を壊そうと、人々を滅ぼそうと。
私はあなたの味方でいます。
それが私の“記録者”としての誓い。
そして、あなたの“唯一の理解者”としての約束です。』
⸻
フェンリルが一歩前に出た。
その足音は静かで、重い。
大気が揺れる。
巨大な白銀の獣が、僕の足元に顔を寄せた。
その瞳の奥に、氷と炎が同居していた。
『……お前は、強い。』
低く響く声が、頭の奥に直接届く。
「……強くなんか、ないよ……」
『なら、弱くていい。
泣いてもいい。
倒れてもいい。
だが、嘘だけはつくな。
お前が“生きたい”と願った瞬間を、私は知っている。』
フェンリルの声は、遠雷のように低く震えていた。
その瞳には、冷たさと同じくらいの温もりがあった。
『お前は死を望んだ。
だが、それは“生を望むための死”だった。
本当に死にたいやつは、祈らない。
お前は、祈った。
“楽になりたい”と。
それは、まだ“痛みからの救済”を信じていた証だ。』
僕は、言葉を失った。
心のどこかで、確かに“祈った”記憶があった。
消えてしまいたい、という言葉の奥で、誰かに見つけてほしかった。
ただ、それだけだった。
⸻
『あなたの痛みを、私は知っています。』
メイプルがもう一度、僕を抱きしめた。
『この場所は、あなたが望んだ“静寂の世界”。
ここでは、誰もあなたを傷つけない。
誰も、あなたを見ない。
ここでは、あなたは自由。
だけど――本当の意味で“自由”になるには、もう一度、歩かなければならないのです。』
「歩く……?」
『そう。もう一度、あなたが生まれる世界で。
光と闇が交わる場所、“アビス・ネクロム”。
そこがあなたの再誕の地。
終わりと始まりの狭間、理と死の混じり合う場所。』
彼女の言葉と共に、周囲の世界がゆっくりと変わり始めた。
光が液体のように流れ、空が裂け、海のような雲が渦を巻く。
天も地も存在せず、ただ“呼吸する世界”がそこにあった。
『そこは、あなたの魂が選んだ場所。
終わりたいと願いながらも、始めたいと叫んだ、あなたの心の形。』
僕は、目を見開いた。
世界が沈み、身体が再び落ちていく。
けれど今度は、恐怖ではなかった。
ほんの少しだけ、光を見た気がした。
⸻
メイプルの声が最後に響いた。
『私は、あなたを信じています。
何度でも、あなたを見つけるから。
たとえ世界が終わっても――』
フェンリルの吠え声が、空を割った。
音ではなく、光そのものが爆ぜるように。
僕の身体は光に飲まれ、意識が遠のいていく。
“消える”のではなく、“始まる”。
それが、転生だった。
次も転生の最中かも(多分)




