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スイレン  作者: アポクリファ=ヴェリタス


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エピローグ 1

現代主人公が生きていた頃の最後のお話です。

 目を開けた瞬間、世界は音で満たされていた。

 雨が屋根を叩く音、壁を這う水の流れ、外を走る車のタイヤが水を切る鈍い響き。

 まるで誰かが世界を泣かせているようだった。

 カーテンの隙間から見える空は、灰色でもなく黒でもなく、ただ「色のない空」だった。

 時計は六時二十二分を示している。

 けれど光は差し込まない。朝なのに夜のようで、夜なのに息苦しい。

 雨の匂いが部屋に染み込んでいた。湿気が肌に張り付き、布団の中も冷たい。

 生きていることに温度がない。目を開けても、何も始まらない。

 僕は今日も、同じ日をなぞるだけだ。


 この部屋には、色がない。壁紙の汚れ、剥がれた天井、濡れた畳。

 どれも昨日と変わらない。

 壁のシミは、もう僕の顔よりも馴染みがある。

 窓の外から、犬の遠吠えが聞こえた。

 きっとどこかの家では、温かい朝食の匂いがしているのだろう。

 でも、ここには何もない。音だけが生きていて、人間の気配はどこにもない。

 昨日の夜から続く喧嘩の声はもうしない。きっと、どちらかが疲れたのだ。

 父も母も、もう僕に言葉をかけない。必要ないのだろう。

 この家の中で僕は、家具と同じ位置づけだ。動くが、意味はない。


 リビングへ行くと、床一面に吸い殻が散らばっていた。

 空き缶が転がり、灰皿は黒く焦げている。

 父はソファの上で頭を抱え、煙草を口に挟んでいた。

 朝から酒の匂いが漂う。

 視線を上げると、テレビのニュースがぼやけて流れていた。

 「企業不正に関する続報です」

 その言葉に、父の眉がピクリと動く。

 彼の会社の名が一瞬だけ映った気がした。

 父は手を振って煙草の火を消すと、無言で立ち上がった。

 そして、テーブルの上に置かれた請求書を見て、溜め息をついた。


「……金、どうすんだ」

 誰に向けた言葉でもない。

 母は台所で無言のまま皿を洗っている。

 その背中は、もう人間の形をしていなかった。

 感情という名の熱が抜け落ち、ただ“動いている”。

 まるで壊れかけの機械。

 妹が死んでから、母は泣かなくなった。

 そして、笑わなくもなった。

 妹の写真だけが冷蔵庫の横に貼られ、僕の写真はどこにもない。

 母の手が止まり、振り返る。

 「いつまで寝てんの。学校、行くんでしょ」

 感情のない声。指示というより命令。

 僕は無言で頷き、鞄を掴んだ。

 その瞬間、父が僕を見た。

 空っぽの目。視線の奥には、過去しか映っていない。

 “息子”という記号は、もう消えて久しい。

 残っているのは「責任」という負債のような記憶だけ。


 玄関を出ると、激しい雨が叩きつけた。

 傘を差しても意味がないほどの雨量だった。

 通学路のアスファルトは鏡のように光り、遠くの街灯が滲んで見える。

 道路の水溜まりが波紋を作り、僕の影を飲み込む。

 傘を握る手が冷たい。

 通る車の水しぶきが制服にかかっても、反応する気力はない。

 世界の音は雨だけだ。

 まるでそれ以外の音を拒むように。

 傘の中で息をすると、湿気と自分の呼気が混ざって曇る。

 視界が霞む。

 それでも歩く。

 誰も待っていない場所へ。


 学校の門をくぐると、傘の列が僕を避けた。

 あからさまに。

 彼らの目は、僕を「見ていない」。

 その演技が完璧すぎて、逆に笑いそうになる。

 廊下に入ると、濡れた床に足跡が点々と続いていた。

 靴箱を開けると、上履きの中に黒い液体が注がれていた。

 インクのような匂いが鼻を刺す。

 周囲の笑い声。

 背後で誰かが囁く。「見ろよ」「まだ来てんのかよ、あれ」

 名前を呼ぶ者はいない。

 人間扱いされるほどの価値もない。

 インクの詰まった靴をそのまま履き、教室へ向かう。

 床を踏むたび、ぬるりとした感触が靴底から伝わる。

 その不快さすら、もう日常だった。


 教室の扉を開けた瞬間、全ての声が止まる。

 次の瞬間、嘲笑が弾けた。

 机の上には粉のようなものが撒かれている。

 チョークを砕いた粉か、小麦粉か。

 そこに書かれた文字は――「ゴミ」。

 単純で、残酷で、子どもじみた言葉。

 けれど、それ以上の意味を持っている。

 教師が入ってきても、誰も何も言わない。

 彼は黒板に出席を記し、僕の名前のところで一瞬だけ手を止めた。

 しかし、次の瞬間には何事もなかったかのように書き進める。

 “存在しない生徒”としての扱い。

 それがこの学校の「平和」だった。

 クラスメイトたちは笑い合い、連絡帳を回す。

 その中に、僕の名前はない。

 誰も話しかけない。

 誰も助けない。

 誰も覚えていない。

 それでも僕は席に座る。

 ただ、今日を“終わらせる”ために。


 午前の授業が終わる頃、雨脚はさらに強まっていた。

 窓ガラスを叩く音が耳に残り、教室全体が湿った空気で満たされる。

 休み時間、誰かが僕の机に水をこぼした。

 わざとだとはわかっているが、反応しない。

 すると笑い声が起きる。「ほら見ろ、また無視してる」

 机の上でペンが転がり、床に落ちる。

 拾おうとした瞬間、足が伸びてきてそれを踏みつけた。

 ――音がした。

 乾いた、軽い音。

 まるで“人間”ではない何かを踏み潰すような音。

 それを聞いても、何も感じなかった。

 怒りも悲しみも、もう存在しない。

 僕の中で、感情はとっくに死んでいた。


 昼休み。

 食堂に行く金がない。

 弁当もない。

 購買に行く気力もない。

 机に突っ伏して目を閉じる。

 誰も声をかけない。

 その沈黙だけが、唯一の優しさのように思えた。

 外では雷鳴が鳴り、空が裂けるように光る。

 雨はまだ止まない。

 まるで世界そのものが涙を流しているようだ、とふと思う。

 ――もしこの雨が、誰かの悲しみの形だとしたら。

 この街は、どれだけ泣き続けてきたのだろう。


 午後の授業。

 眠気と倦怠が混ざり合う。

 黒板の文字が歪み、意味を持たない線に変わる。

 教師の声は遠く、音だけが流れていく。

 視界の端で、クラスメイトたちが何かを書いて笑っている。

 机を蹴られても、椅子を引かれても、反応しない。

 僕の沈黙が、彼らにとっての娯楽だった。

 人が壊れていく過程を、笑いながら観察する。

 それが、彼らにとっての“青春”なのだろう。


 放課後のチャイムが鳴る。

 誰もが一斉に立ち上がり、明日への続きを話す。

 僕の時間だけが、そこで止まったままだ。

 鞄を持ち、静かに立ち上がる。

 机の上には、水で滲んだプリント。

 その上に書かれた文字は、もはや判読できない。

 けれど、そこに意味は必要なかった。

 今日も、生き延びた。

 ただ、それだけが僕の証明。


 外に出ると、雨はさらに強くなっていた。

 灰色の雲が空を覆い、世界の輪郭を飲み込む。

 傘を差しても無駄だった。風が横から叩きつけ、傘の骨が軋む。

 通学路の舗装は水に沈み、車のタイヤが水を巻き上げる。

 誰も歩いていない。

 ただ、僕と雨だけがこの街を歩いていた。

 街灯の灯りが水面に滲んで、まるで誰かの血の跡みたいに見えた。

 それでも、歩く。

 どこへ向かうわけでもなく、ただ歩く。

 立ち止まれば、心が音を立てて崩れてしまいそうだった。


 家の前に着くと、窓から灯りが漏れていた。

 けれど、それは温かい光ではない。

 煙草の煙で濁った、くすんだ橙色。

 ドアを開けると、湿った空気が肌を刺す。

 父がテーブルに突っ伏し、空き缶と灰皿に囲まれていた。

 母は台所の片隅に座り込み、指先で古い写真を撫でていた。

 妹の写真。

 その小さな笑顔だけが、この家の中で唯一の「生」だった。

 僕が部屋に入ると、二人の視線が同時にこちらを向いた。

 その目には、驚きも喜びもなかった。ただの反射。


「……帰ってきたのね」

 母の声は濡れた紙みたいに薄かった。

 父は煙草を咥え直し、短く息を吐いた。

 「学校はどうした」

 「行った」

 答えた瞬間、無言の時間が落ちる。

 父の手が伸び、テーブルの上の灰皿を掴んだ。

 それが視界の端で光る。

 空気が歪んだ。

 ――次の瞬間、何かが僕の頬をかすめ、背後の壁に当たった。

 灰とガラスの破片が飛び散る。

 煙の匂いと焦げた匂いが混ざる。

 「お前が生まれてこなきゃよかった」

 その言葉は、もう何度目か分からない。

 でも、今日の声には疲れがあった。怒りではなく、諦めに近い響き。

 僕はその違いを理解できなかった。


 母は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。

 手にしていたのは妹の写真立て。

 「ねぇ、どうして、あの子じゃなくてあんたなの」

 その声は泣きそうで、でも涙はなかった。

 写真立てが震えている。

 ガラス越しに映る僕の顔は、何の感情もなかった。

 母の腕が動いた。

 そして、音がした。

 割れる音。砕ける音。

 世界の音が、ひとつ増えた。


 僕は床に倒れた。

 痛みはなかった。

 あるいは、痛みを感じる力がもう残っていなかったのかもしれない。

 視界の端で、母が何かを叫んでいる。

 父は黙ったまま、煙を吐き出している。

 テレビの中では、誰かが笑っていた。

 その笑い声が、やけに遠くに聞こえる。

 世界がぼやける。

 光が滲む。

 僕はゆっくりと目を閉じた。

 まぶたの裏には、雨の音だけが残っていた。

 その音が、子守唄のように優しく響いていた。


 ――ようやく、終われる。


 そう思った瞬間、胸の奥の何かが解けた。

 絶望という言葉が、意味を失った。

 もう苦しくない。

 もう怖くない。

 ただ、静かに眠りたかった。

 世界のすべてが音になって、僕の中から消えていった。

 心臓の鼓動がゆっくりと薄れていく。

 意識が遠のく。

 呼吸が止まる。

 そして、世界はようやく静かになった。


***


 翌朝。

 ニュースキャスターの声が淡々と響く。

 「市内の住宅で、高校二年生の男子が死亡しているのが見つかりました」

 スタジオの照明が明るく、キャスターの笑顔はそのままだ。

 画面下のテロップが流れる。

 《家庭内暴力・学校でのいじめ 関連か》

 映し出されたのは、僕の家の玄関。

 黄色い立入禁止のテープ。

 傘を差した警官。

 近所の住人が、驚いた顔でインタビューを受けている。

 「まさか、あの家が……」

 「普通の家庭に見えましたけどね」

 言葉のひとつひとつが、薄い紙みたいに軽い。

 涙も怒りも、誰の中にもない。

 ただ、「事件」という言葉だけが独り歩きしていた。


 教師のコメントが流れる。

 「特に問題のある生徒ではなかったと思います」

 同級生たちの声。

 「いつも静かでした」「あまり話したことがなくて……」

 彼らの目はカメラを見ない。

 顔を伏せ、言葉を選びながら、何も語らない。

 誰もが責任を避けるように、慎重に言葉を並べる。

 ニュースの中で、僕はただの統計になった。

 「いじめ・家庭問題・死亡」

 その三つの単語で括られる存在。

 名前すら画面に出ない。

 モザイクの中で、僕は再び“無”になった。


 けれど、画面の片隅で、ある一枚の写真が映った。

 妹と並んで笑っている、幼い頃の僕。

 カメラを向ける母の声が、写真の中にまだ残っている気がした。

 その笑顔を、僕はもう思い出せない。

 ニュースは淡々と次の話題へ移る。

 「続いては、天候の情報です。今日も大雨に警戒が必要です――」

 その瞬間、画面の向こうで雷鳴が響いた。

 外の世界も、まだ泣き止んでいなかった。


***


 夜。

 ニュース映像を見ていた誰かが、リモコンを置いた。

 「怖い話ね」「本当、最近多いわよね」

 その会話はすぐに別の話題に流れた。

 この街の灯りはいつも通り。

 人々は夕食を食べ、笑い、眠る。

 世界は僕を喪っても、何も変わらなかった。

 それが正しい。

 この世界において、僕という存在は最初から“いなかった”のだから。


 雨は翌日も降り続いた。

 誰の記憶にも残らない雨。

 誰も傘を傾けない雨。

 その音だけが、僕の存在を静かに証明していた。

 どこかで、雷が鳴った。

 空の向こうで、何かが呼吸しているような音がした。

 そして、世界がゆっくりと反転する。


 ――ああ、そうか。

 終わりじゃないのか。


 閉じたはずの瞼の裏に、光が差し込んだ。

 それは太陽ではない。

 温もりでもない。

 それは、まだ誰も知らない“始まり”の色だった。

 雨の音が、静かに消える。

 代わりに、耳の奥で微かな囁きがした。


 ――「ようこそ、虚の果てへ」


 その声と共に、僕の意識は新しい世界へと沈んでいった。


***


 ニュースはその後も数日続いた。

 ワイドショーは家庭の闇を取り上げ、SNSでは「かわいそう」「ありえない」が並んだ。

 だが、一週間も経てば話題は薄れ、誰も振り返らなかった。

 事件現場は取り壊され、コンクリートで固められた。

 そこには小さな花束が一つだけ残された。

 雨に濡れた花びらが、光を吸いながら静かに散っていく。

 風が吹き、世界が何事もなかったかのように流れ出す。


 ――そしてそのすべてを、誰も覚えていない。


つぎの話で転生します

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