神社で口をすすいではいけない理由
※本エピソードには虫や生理的嫌悪感を伴う描写があります。苦手な方はご注意ください。
――皆さんは神社の手水舎を利用したこと、ありますか?
小屋みたいな建物の中に、水が溢れ出ている石の大きな桶のようなものが置かれているアレです。
多くの方は手を清めるために使用したとこがあるかと思います。
本来、手を漱いだ後に水を口に含んで吐き出すのが正しい作法です。
しかし、一部の人は抵抗感などから口の中を清めないのではないでしょうか?
かく言う私も、口を漱ぎません。
……いえ、昔はやっていたのですが、あることがきっかけで口にあの水を含むのが怖くなってしまったのです。
おそらく皆さんも、この話を聞いてしまうと私と同じ気持ちになるのではないでしょうか?
私が小学生の頃です。
当時都会と縁のないところで暮らしていて、毎日学校帰りは友達とよく自然の中で遊んでしました。
ある時は近くの林でかくれんぼしたり、またある時はこっそり田んぼに入ってイナゴを取ったり。
そんな毎日を過ごして、とても楽しかったのを今でも覚えています。
ある日、親友のミサキちゃんが放課後話しかけてきました。
「ねぇ、今日は例の神社で遊ばない?
今ね、アゲハがいっぱい取れるらしいよ!」
『例の神社』というのは、学校から徒歩五分の距離にあるとても古くて小さな神社のことです。
何年も前から神主さんがおらず、手入れもされていなくて荒れ放題の場所でした。
どんな神様を祀っていたのか、今でもわかりません。
しかし、その荒れ具合が当時の私達には最高でした。
なんだか秘密基地みたいな感じがして、わくわくしたんです。
いろんな虫や植物、そしてどこか寂しげな雰囲気……
そんな独特の風景の虜になっていたのです。
あまりにも人気すぎて、時には他の子と場所取りで揉めることをしばしばでした。
でも、勝負しているうちにいつの間にか仲良くなって、一緒に遊んで気づけば夕方になっている……
それが決まったオチになっていました。
その日特に予定もありませんでしたし、断る理由もありませんでした。
「うん、行く!」
私は即答しました。
ミサキちゃんは大喜びで、早速学校に密かに置いていた虫籠を取り出しました。
私も、先生にバレないようにロッカーに隠していた収縮可能な虫取り網を、自分のランドセルに突っ込みました。
そしてそのまま、遠足気分で町外れの神社まで向かったのです。
着いたとき、辺りは風の音と虫の鳴き声で溢れていました。
色褪せた鳥居をくぐると、いつもの荒廃した神社が目に入りました。
人影はいなく、どうやらその日訪れたのは私達だけのようでした。
「あ、ちょっと待って!」
開けたところに向かって荷物を置こうとした私を、慌ててミサキちゃんは止めました。
「いつもみたいに、心身を清めて神様に許可をもらわないとダメでしょ?」
「……そうだった、危ない危ない」
どんなに廃れていても、神社は神社。
小学生の間では、バチが当たらないように最初に手と口で清めてお参りしてから遊ぶのが通例となっていました。
手水舎は井戸水を引いているらしく、当時でも龍の口から綺麗な水が出ていました。
私達は既に屋根が崩れている手水舎に向かいました。
柄杓は流石にありませんので、水筒のコップをあふれ出ている水で軽く洗って代用しました。
そして左手、右手、最後に口という順で作法に倣ってお清めをしました。
その最中、ミサキちゃんが突然あっと声を上げたのです。
「――水、間違えて飲んじゃった」
ミサキちゃんは途方に暮れてしまいました。
当時作法の意味なんて理解していませんでしたが、水を飲んでしまうことはあまりよくないことだと何となくわかっていました。
ですが、もう後の祭り。
飲み込んでしまった以上、どうすることもできません。
「まぁ、大丈夫じゃない?
念のためもう一回口を清めたら?」
私の提案に、ミサキちゃんは乗りました。
ミサキちゃんはわざと飲んだわけではありません。
きっと神様も許してくれるだろうと、その時は考えていました。
その後いつも通りお参りをして、近くの草むらにランドセルを置きました。
そして持ってきた虫網を手にアゲハ蝶を追いかけ、取れたものはかごに入れました。
日が傾き始めたころには、かごの中が蝶でいっぱいになっていました。
少し観察した後、傷つかないようにそっと放してあげて、私達は帰路につきました。
しかし、そんな甘い思い出はとても痛々しいものに変わってしまいました。
翌日からミサキちゃんの様子がおかしくなったのです。
学校にいる時はいつものミサキちゃんでした。
優しくて、いつもニコニコしていて明るい、そんな感じです。
ですが私が異変を感じたのは、放課後何人かの男の子たちと一緒に川へ遊びに行ったときでした。
そこでみんなが水遊びをする中、ミサキちゃんだけ川岸で蹲っていたのです。
らしくないなと思った私は、体調が悪いのかと思いみんなの輪から外れました。
そして背中を向けている彼女に声を掛けたのです。
「ミサキちゃん、大丈夫……?」
「んん?」
彼女の声は、とても拍子抜けでした。
明らかに具合が悪いような感じではありません。
むしろ、どこか楽しげなように聞こえました。
気のせいかと思ってほっとしたのも束の間。
振り返ったミサキちゃんを見て、私は絶句してしまいました。
彼女の口から、細くて長いものが飛び出ていました。
――――アメンボの足です。
ミサキちゃんは、川にいたアメンボを捕まえて食べていたのです。
それも笑顔で美味しそうに、むしゃむしゃと。
思わず後ずさりした私を見て、ミサキちゃんはきょとんとしていました。
「どうしたのぉ?」
彼女はいつもの明るい顔をして、気の抜けた声色で話しかけてきました。
しかし、その口からは黒いものがちらちらと見え、甘い飴のような匂いが漂ってきました。
まだアメンボは生きているらしく、はみ出した足がぴくぴくと動いています。
それに構わず、ミサキちゃんは咀嚼音を立てながら頬張っていました。
あまりもの光景に、私は荷物を持って咄嗟に逃げ出しました。
家に着き自室に入った後鍵を掛け、その日は部屋から一切出られませんでした。
学校に行く時間になるまで、私は布団の中で半泣きの状態になっていました。
それ以降、ミサキちゃんの行動はエスカレートしていきました。
最初はみんなの前では普通だったのに、教室の中でも生きた虫を満面の笑みで食べるようになりました。
もちろん先生は厳しく注意しますが、それでも止めません。
やがて視点が合わなくなり、身だしなみも明らかに酷くなっていきました。
そしてある日を境に、ミサキちゃんは学校に来なくなりました。
ここからは大人になってから聞いた話なのですが、その後心配した両親が精神病院に連れて行ったそうです。
しかし原因が分からず、薬を渡されるだけで何にも解決しませんでした。
仕方なく、ミサキちゃんの両親は近くのお寺でお祓いを頼みました。
そこの住職さんにこれまでの経緯を説明した途端、険しい顔をされたようです。
「もしかして、手水舎の水を飲んだのではないですか?」
彼女の両親には、神社での出来事を話したことがありません。
恐らくミサキちゃん本人も、誰にも言っていないでしょう。
ですので、住職さんはそのことを一切知らずに言い当ててしまったのです。
その時のミサキちゃんの両親は、とても驚いたはずです。
住職さんが言うには、神社で手と口を清めるのは穢れを境内に持ち込まないためだそうです。
つまり清めた後の水には、洗い流した穢れが含まれているのです。
それを飲み込むということは、口にあった穢れを体内に入れることと同意です。
体内に入ってしまうと穢れは簡単に取り除くことができず、最悪の場合悪いものを呼び寄せて悪化してしまうこともあるそうです。
ミサキちゃんは意図せず、あの日穢れを取り込んでしまったのです。
そのせいでミサキちゃんはおかしくなり、何かを引き寄せてとりつかれたようになってしまったんです。
「この子の穢れは、体に馴染んでしまっている上にあまりにも厄介です。
理由はよくわかりませんが、虫を食べることでさらに穢れが強くなってしまっているようです。
全力を尽くしますが、正直助かる可能性は低いでしょう」
ミサキちゃんの両親はそれでも構わないと、住職さんにお祓いをお願いしました。
しかしそれは徒労に終わり、改善するどころか悪化してしまったのです。
ミサキちゃんはその後奇声を発するようになり、目に入る生き物を全部食べようとするようになってしまいました。
そしてとうとう近所の犬に嚙みついた頃、手に負えないと判断した両親はミサキちゃんを精神病院に入院させました。
その後ミサキちゃんがどうなったのか、私は聞く気にはなれませんでした。
今でも、ミサキちゃんが水を飲んでしまった時ちゃんとお寺や神社に行って相談すればよかったといまでも悔やんでいます。
もっと深刻に捉えて早くに対策を打っていれば、ミサキちゃんはこんなことにならなかったはずです。
ですが残酷なことに、どんなに悔やんでも時間を巻き戻すことはできません。
私はもう二度とこのようなことにならないよう、神社で口を漱ぐのをやめました。
作法にはしっかりとした理由がありますが、間違えて取り返しのつかないことになるのは元も子もありません。
もし皆さんが神社で口を漱ぐ機会があったときは、どうか水を飲まないように気を付けてください。