そんな深い理由はない
八割の霊感と二割の頭脳でものを書く。三流小説家である私が、ドストエフスキーの小説を模倣した作品「夜の空に響く運気の音」を発売するにあたって、読者の皆様に伝えておかなければならないことがある。
まずひとつ、この小説は彼のロシアの大文豪のパクリではない。たしかに主人公の青年は大学を中退するし、ある金貸しの老婆を殺害するが、これはどの小説にも出てくるありがちな設定である。それに私の主人公はコテコテの関西弁である。「せやかて」とか「なあ工藤」とかもうこれはどうしようもない大阪の匂いを漂わせた奴である。
次に、話の舞台にはネフスキー大通りや、ネヴァ河などがでてくるが、これもパクリではない。むしろ舞台をロシアに設定しているだけで、その外観に大阪人がすんでいる。つまり、行き交う大阪人のなかにロシアの街があるというわけだ。
最後に、私の小説にはロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは登場しない。私の主人公の名前は割崎英雄というれっきとした立派な名前をもっているのだ。
これらの点からみても、私の小説がパクリではないことは明らかなのである。それでも私の作品にケチをつける輩がいるのは悲しいことだ。しかしいつの時代も、はねっかえりはいるもので、私が気に病んだところで彼らの性向が直るわけでもない。我慢しなくてはならない。
しかし、ときどき考えるのだが、そのようなはねっかえりの頭を一振りの斧ですっぱり叩きわり、私がなんの罪悪感をもたずにのうのうと生きることができたなら、ナポレオンのような英雄になれたりするのだろうか。諸君どうだろうか?
暇なのでふざけて書きました。申し訳ない。