異知者記録抄:H-204《鋼の幻術士》【第一章:機械仕掛けの幻廊】
(異知者記録抄:H-204《鋼の幻術士》より)
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記録日:天正18年・十二月初旬/記録者:伊藤百野(越前学院 本草・記憶解析班)
地点:神聖ローマ帝国領 グラウツェンブルク旧城地下構造体 第3層“記憶迷路部”
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「……この通路、また曲がってる?」
百野は小さく呟いた。目印にしたつもりだった糸が、既に壁の構造ごと消えていた。
一行は越前学院から派遣された調査団、百野を含めて4名。残る3名は記録技師と構造解析士、それに語られぬ補助者〈ユーフ〉であった。
彼女の指先には、記録帳ではなく“心音を転写する帯”が握られていた。
これは、城の機構が**人間の感情と記憶に干渉して“通路を変化させる”**ため、記憶を物理化し逆照合する装置である。
「百野様、時間の流れが……断続的になっています」
語られぬ者・ユーフが囁いた。
彼女の瞳は、通常の時空構造に対する“歪み”に極端に敏感な特性を持っていた。
「脳波じゃない、“認識の周波”が揺らいでるのね……この廊下、構造じゃなく“概念”で構築されてる」
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廊下の床には、設計書の一節を“歩くことで読む”ように組まれた仕掛けがあった。
それぞれの足元には、精密な歯車とリベット構造で構成された機械詩のような刻印。
【歩数記憶共鳴機構|記憶が移動する限り通路は生成される】
【この地点を3回通過した者にのみ“扉”が現れる】
「つまり、3回“思い出した”者だけが、次に進める……
認知された“過去の記憶”だけが、この迷路に“実体”を与えるわけね」
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百野たちがようやくその“扉”に辿り着いたのは、体感で8時間後だった。
だが外部の記録装置は、“27分”しか経っていないことを示していた。
「……まるで、“記憶迷路”そのものが私たちの内面を編集している……これは幻覚じゃない」
扉の奥には、鉄製のアーチ構造をもつ巨大な部屋が広がっていた。
その中央、天井から逆さに吊るされた“歯車回廊”が静かに動いていた。
上下左右すべての壁面には、記号と設計の断片が浮かび、漂い、読者の脳に直接入ってくるようだった。
だが、読み進めるうちに百野は奇妙な“抜け”を感じた。
情報が、“読み手の記憶構造に依存して自動で補完”されるように変質していたのだ。
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「これは、設計書じゃない……これは“読者の頭の中に、未来の幻を建築する文体”」
歯車と配線の迷路に組み込まれていたのは、いわば“可読型自己設計AI”に近い概念。
**黒川真秀の時代においてもなお、実装されていない“機械による創発型設計”**だった。
その最深部、浮かぶ文字。
『この構造体は、過去に建てられたのではない。
あなたが思い出す限り、“常に建設中”である。
設計とは、未来を仮定して過去に接続する行為である――H-204』
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記録班の1人が、軽い錯乱を起こした。
“いつ来たのか”“なぜ来たのか”という前提が崩れ、内部の構造によって過去の動機さえ改変され始めたのだ。
ユーフがかすかに震えながら言った。
「この設計者……未来を記憶するだけじゃない。“記憶そのもの”を、現実として再現する……まるで、幻術士……」
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その名が、越前本部へ正式に記録されたのはこの時だった。
異知者H-204《鋼の幻術士》
――その技術は、構造工学と認知心理学と時間哲学のすべてを内包する“記憶操作型機構設計”だった。
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調査団は撤収の直前、塔の床に自動で記されていく設計図を目撃した。
誰も触れていないにもかかわらず、鉄の表面に文字が刻まれていく。
百野は震えながら読み上げた。
『記録とは、記憶のなかで最も強い幻影である。
記録されることで、人は“在った”と錯覚する――
ならば、私はいっそ記録されず、構造体の中に眠りたい。』
そしてその下、薄く刻まれていた署名。
――H-204
次は「第二章:設計書が語るもの」です。




