異知者記録抄:『F-013 赤髪の薬師』「補遺回想編」
灰の街 ――“失敗した未来”の記憶
「私は、そこにいた。そして、何もできなかった」
そう語ったとき、ユノの目はどこか遠くを見つめていた。
彼女の言葉に、誇張はなかった。演出もなかった。
ただ、淡々と、“目撃者”のように、記録者のように――そして罪人のように語り出した。
◇1 抗生物質の終焉
「私がいた未来――それは、科学が進みすぎて、そして、効かなくなった時代だった。抗生物質は、効かなくなった。ペニシリンも、セフェムも、最後の砦だったカルバペネムすら、すり抜ける菌が現れた」
(※注:現実世界では21世紀半ば以降「薬剤耐性菌(AMR)」の問題が深刻化している。ユノの世界ではそれが制御不能な段階に達していた)
「病院は、すべて“感染管理封鎖”の下に置かれた。隔離室には誰も近づけず、マスクと防護服と、消毒剤だけが支配していた」
「私は薬学者だった。大学の研究室にいて、新しい抗菌性タンパク質の設計をしていた」
「だが、それは遅すぎた。現場には届かず、患者は死に、家族は罵倒し、私は、それを“研究成果の欠陥”として処理するしかなかった」
◇2 爆発と風
「ある日、事件が起きた。
製薬施設のひとつが、抗菌薬の原材料に用いられていた試薬を大量に焼却処分した。それが、爆発した」
「熱と硝酸化合物。引火。化学工場の爆発は、感染区域を吹き飛ばした。灰と火と……その中に、患者たちの病室もあった」
「私は、それを“遠くの事件”として聞いた。でもその一週間後、あの子が死んだ」
彼女はその時、言葉を止めた。
その“あの子”が誰かは、けして明かされなかった。
だが百野は、尋ねなかった。
尋ねなくても、彼女の表情がすべてを語っていた。
◇3 封印という選択
「私は、もう一度、薬を作ろうとした。けれど、今度は“効きすぎる薬”ができた」
「毒にもなった。量を間違えれば、肝臓を焼き、神経を切断した。それでも、私はそれを記録して残そうとした」
「なぜって?未来には、“使える人”が現れるかもしれないから。――でも、“また誰かを殺す”かもしれないから。私はその狭間で、記録と封印を繰り返した」
そして――
「ある日、私は目を覚ますと、ここにいた」
◇4 記憶だけが残った
「私の服は汚れていた。靴もなかった。けれど、処方の記憶だけは、すべて頭に残っていた。火薬の配分比も、解毒剤の拮抗構造も、試薬の沸点すら忘れていなかった」
「私は、それを紙に書き写し、蔵に隠し、誰かが使う時を“待った”」
「私は、“あの世界で間に合わなかった知識”を、ここでは“誰かが間に合ってくれる”ことを願っているだけ」
◇5 それでも火は灯る
「私の知識は、不完全だし、失敗もした。でも、それでも私は、薬を作る。火薬を調整する。それは――私が“忘れたくない”から」
「あの子の死を、“無かったこと”にしないために。それだけが、私に残された資格」
最後に彼女は、こう結んだ。
「だから私は、名を名乗らない。知識は、“誰かのものであればいい”。けれど――この記憶だけは、私一人で持ってゆく」
そして彼女は、朝の霧の中へと去っていった。
百野の記録には、こう注記がある。
【ユノの記憶は、かつての“科学の墓場”そのものである。それは決して彼女個人の罪ではなく――“技術が追いつかれた未来”そのものの証言である】
黒川世界において“未来知識を持ちこの時代に現れた異知者たち”――彼らの来歴は、単なる「転生」や「タイムスリップ」ではなく、それぞれが異なる「過去の喪失」や「未来の課題」を抱え、そして“何かを償う/託す”ためにこの時代に現れた者たちです。




