表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/121

異知者記録抄:『F-013 赤髪の薬師』第六章「選ばなかった帰路」

その朝、鉾田の谷は霧に沈んでいた。

気配の輪郭も、足音の余韻もすべて吸い込まれ、

世界は、まだ夢と現の間にあるようだった。

伊藤百野は、小屋の前で、一通の文とともに置かれた茶色い革袋を見つけた。

袋には、馴染みある七折りの封がされていた。

文には、たった一行。

「私は、記憶を置いてゆきます。けれど、名前は置きません」

革袋の中には、あの“副作用帳”とは別に、

手描きの図版、染色された植物標本、そして試薬と金属粉の混合レシピが整然と納められていた。

丁寧な記録。消毒された包み。すべてに、「伝える覚悟」が宿っていた。

それでも、彼女はそこに名を記さなかった。

________________________________________

「彼女は、“帰らない”という選択をしたのですね」

越前へ戻る直前、百野は書簡で如月千早へそう書いた。

ユノには、学院で学問を伝える席が用意されていた。

真田志郎からも、技術部門への招聘が出されていた。

だが、彼女は答えなかった。

百野はその理由を、ひとつだけ知っていた。

________________________________________

「私が学院に入れば、“記憶”は肩書きに変わる。

でも、私が抱えてきたのは、肩書きじゃない。“赦されぬ選択”なの。

だから私は、学問にはならない知識を、旅の形で誰かに渡していく」

________________________________________

ユノは、“帰路”を選ばなかった。

この越前文明の内側に収まることを拒んだ。

その選択には、誇りでも諦念でもない、

ただ静かな意志があった。

「私は、誰かの教師にはならない。

でも、誰かが私の道を歩いたとき、

その足元に火が灯っていれば、それでいい」

________________________________________

その後、赤髪の薬師ユノは、幾つかの伝承に姿を変えて残る。

・豊後の山中で、麻酔術を用いた“腹切りの女医”

・加賀の谷間で、治らぬ毒を中和した“白布の影法師”

・南洋の島々にて、疫病にひとりで立ち向かった“火を運ぶ異邦人”

だが、どの地でも、彼女の名は記録されなかった。

ただ、書き残された処方、封じられた七折りの紙だけが、

“誰かがそこにいたこと”を告げていた。

________________________________________

百野はその後、越前学院の医薬科にて本草と錬金理論を講じるようになる。

ユノの帳面は、彼女の講義の中で**「記名なき記憶」として繰り返し参照された**。

彼女が学生に語った言葉は、いつも同じだった。

「この薬を作った人の名は、誰も知らない。

でもこの火は、今でも生きている。

だから私たちは――名のない知識にも敬意を払うのです」

________________________________________

それが、《異知者記録抄 F-013 赤髪の薬師》の全記録である。

彼女は、かつて大きな失敗をした。

だが、それを抱えたまま誰にも赦されずに、

ただ、渡せるものだけを残して、旅を続けた。

そしてそれは、名もなき知が、

名よりも深く人の記憶に根付くという、証明となった。



失敗した未来”の詳細な回想-すなわち、彼女がこの戦国世界に転じてくる以前の、かつて彼女が生き、そして喪った“科学が滅びかけた時代”を、彼女の記憶と語り口で綴ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ