異知者記録抄:『F-013 赤髪の薬師』第六章「選ばなかった帰路」
その朝、鉾田の谷は霧に沈んでいた。
気配の輪郭も、足音の余韻もすべて吸い込まれ、
世界は、まだ夢と現の間にあるようだった。
伊藤百野は、小屋の前で、一通の文とともに置かれた茶色い革袋を見つけた。
袋には、馴染みある七折りの封がされていた。
文には、たった一行。
「私は、記憶を置いてゆきます。けれど、名前は置きません」
革袋の中には、あの“副作用帳”とは別に、
手描きの図版、染色された植物標本、そして試薬と金属粉の混合レシピが整然と納められていた。
丁寧な記録。消毒された包み。すべてに、「伝える覚悟」が宿っていた。
それでも、彼女はそこに名を記さなかった。
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「彼女は、“帰らない”という選択をしたのですね」
越前へ戻る直前、百野は書簡で如月千早へそう書いた。
ユノには、学院で学問を伝える席が用意されていた。
真田志郎からも、技術部門への招聘が出されていた。
だが、彼女は答えなかった。
百野はその理由を、ひとつだけ知っていた。
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「私が学院に入れば、“記憶”は肩書きに変わる。
でも、私が抱えてきたのは、肩書きじゃない。“赦されぬ選択”なの。
だから私は、学問にはならない知識を、旅の形で誰かに渡していく」
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ユノは、“帰路”を選ばなかった。
この越前文明の内側に収まることを拒んだ。
その選択には、誇りでも諦念でもない、
ただ静かな意志があった。
「私は、誰かの教師にはならない。
でも、誰かが私の道を歩いたとき、
その足元に火が灯っていれば、それでいい」
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その後、赤髪の薬師ユノは、幾つかの伝承に姿を変えて残る。
・豊後の山中で、麻酔術を用いた“腹切りの女医”
・加賀の谷間で、治らぬ毒を中和した“白布の影法師”
・南洋の島々にて、疫病にひとりで立ち向かった“火を運ぶ異邦人”
だが、どの地でも、彼女の名は記録されなかった。
ただ、書き残された処方、封じられた七折りの紙だけが、
“誰かがそこにいたこと”を告げていた。
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百野はその後、越前学院の医薬科にて本草と錬金理論を講じるようになる。
ユノの帳面は、彼女の講義の中で**「記名なき記憶」として繰り返し参照された**。
彼女が学生に語った言葉は、いつも同じだった。
「この薬を作った人の名は、誰も知らない。
でもこの火は、今でも生きている。
だから私たちは――名のない知識にも敬意を払うのです」
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それが、《異知者記録抄 F-013 赤髪の薬師》の全記録である。
彼女は、かつて大きな失敗をした。
だが、それを抱えたまま誰にも赦されずに、
ただ、渡せるものだけを残して、旅を続けた。
そしてそれは、名もなき知が、
名よりも深く人の記憶に根付くという、証明となった。
失敗した未来”の詳細な回想-すなわち、彼女がこの戦国世界に転じてくる以前の、かつて彼女が生き、そして喪った“科学が滅びかけた時代”を、彼女の記憶と語り口で綴ります。




