異知者記録抄:『F-013 赤髪の薬師』 第五章「火を渡す資格」
夜の帳が下りる直前、百野は越前に向けた報告文とは別に、一通の個人的な手紙を書いていた。
宛先は――如月千早。
師であり、友であり、そして自分が“知を信じる”という生き方を教えてくれた人。
筆は迷いなく走ったが、文は何度も書き直された。
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【千早先生へ】
私は、F-013――ユノと接触しました。
彼女は、明らかに未来からの知を持っています。
それは間違いなく、黒川様と同等の密度で、しかし――“別の方向に燃えていた”。
ユノは、知識を悔いています。
そして、その悔いを薬として、記憶を火薬として封じ、何も語らずこの世界を生きていました。
私は、彼女から「知を継ぐべきか、それとも葬るべきか」を問われました。
先生、知識を“伝える”とはどういうことでしょう?
私は、この問いを今も揺らいでいます。
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その夜、百野は夢の中で、火のように揺れる帳面を見た。
ひとつひとつの処方に、赤い指跡がついていた。それはきっと、彼女の“赦されぬ過去”そのものだった。
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一週間後。返信が届いた。
それは、如月千早らしい端正で、しかし温かい筆致だった。
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【百野へ】
よく問いを持って帰ってきたね。
私は、それだけで君が「火を渡す資格」を持ち始めたと感じる。
かつて黒川様はこう言ったの。「知識とは火である。だが、その火を運ぶ者には“灰になる覚悟”が要る」と。
百野、君はユノの“痛み”を見て、それを燃え残りではなく“灯火”として見ようとした。
それは、とても尊いことです。
知識は、それを“どう渡すか”で、人を救いもするし、焼きもする。
だからこそ――私は、知識を一人で持つことを否とした。
黒川学院の理念は、“火を囲む者たち”を育てることなのだから。
ユノの知を、私たちの学問に編み込もう。
それは“記録”ではない。“祈り”に近いものになるでしょう。
火を渡すこととは、同時に、罪も希望も受け取るということなのだから。
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百野は、しばらくその手紙を膝の上に置き、火鉢の前で座っていた。
そして、懐からあの薬包帳を取り出した。
「……ユノ、あなたの知識は、もう一人きりのものじゃない。
私たちが、あなたの“副作用”を引き受ける」
筆を走らせながら、彼女は最後の一文にこう記した。
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【火を渡す資格とは、知識を重さごと受け止める覚悟である】
――伊藤百野
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その帳面はのちに、《越前本草金録・外伝部》として学院の奥書庫に保管されることになる。
だがそこには、著者の名も記されなかった。
それは、「誰かの知を、誰でも使える灯火にする」という意志の象徴だった。
次章の第六章「選ばなかった帰路」では、異知者ユノが再び旅立つ様子と、彼女が“誰にも属さぬ記憶者”として去る場面を描きます。




