外伝:『スエズに道を刻む者たち』11 ー開通式典 ― 未来の誓い
スエズの地を満たす風が、かつてないほど穏やかだった。
紅海から地中海へと繋がる一本の水の道。 人と人の手で切り拓かれたその運河は、いまや静かに光をたたえている。
式典の朝。 黒川真秀は、白装束に身を包み、スエズ港に立っていた。
その隣には如月千早、賀茂清之助、そして茶屋四郎次郎。 さらにはオスマン帝国から派遣された副総督ユスフ・バシャ、現地の子どもたち、職人、船乗り、通訳官、交易商人、あらゆる立場の者が一堂に会していた。
人種も宗教も立場も越えて、この地でただひとつの“成果”を見届けるために。
司祭の祈祷と、神官の祝詞が交互に奏でられた後、真秀が壇上に立った。
「……この地に、私たちは道を通しました。争いではなく、学びと商いと、そして希望の道を」
風が衣を揺らす。
「この道は、我々が望んだ未来への道です。ここを通るのは剣ではなく、穀物と書物、薬と道具、そして互いを結ぶ言葉たちです」
千早が一歩前に出る。
「この水は、人を分けるものではありません。繋ぐものです。東と西を、子どもと大人を、過去と未来を」
清之助が、手に持った信号旗を掲げる。
「ただいまより、開通式を開始する!」
――帆が張られる。
第一船、ヴェネツィア商会の軽帆船が、緩やかに運河へと滑り出す。
風を受け、船体が水面を割り、静かに進む。
拍手が起こった。
歓声が上がった。
誰かが涙を流し、誰かが笑い、誰かが空を見上げた。
やがて、その水の道を数隻の船が次々に通っていく。
陸上では、技術学校の生徒たちが木製の模型船を流し、紙で作った国旗を振っていた。
その最前列にいたのは、ハーリドだった。
「……僕も、船を作る人になるんだ」
千早はその頭をやさしく撫でた。
「なれるわ。あなたはもう、“未来を見た”から」
真秀は一歩後ろで、その様子を静かに見守っていた。
――夢が、またひとつ、現実になった。
その日、スエズの空は限りなく高く、雲一つなかった。
― ルイス・デ・ソウザ ―
風が吹いていた。
スエズの高台、朽ちた監視塔の陰から、ルイス・デ・ソウザは眼下を見下ろしていた。
水が流れていた。
「……本当に、やりおったか」
かつて彼が築こうとした東洋との交易路。 それをすべて奪った男たちが、今や“道”によって世界を繋ごうとしている。
「無血で、交易で、教育で……ふざけるな」
そう呟く声に、かすかに怒気が混じっていた。 だが、その指先は震えていた。
「……なぜだ、なぜ……私たちにはできなかった」
銃も、船も、金も、信仰も――あらゆる“支配の道具”を持っていたはずだった。
それでも、今、世界の中心に立っているのは――彼ではない。
ルイス・デ・ソウザの影は、砂の中に沈んでいった。
彼のまなざしは憎しみではなく、敗北と、ほんのわずかな尊敬の色を帯びていた。
― ハーリド ―
僕は、最初、あの人たちが怖かった。
火の出る鉄の獣。 違う言葉、違う顔、違う服。
けれど、千早先生は、僕たちに「火でなく水の使い方」を教えてくれた。
清之助さんは、僕の手をとって、工具の使い方を教えてくれた。
真秀様は、一度だけ、僕に言ったんだ。
「君の見た景色が、世界になる」
そのとき、よく分からなかった。 でも、今日。 運河を通る船を見て、やっと分かったんだ。
僕のつくった模型が、風にのって水面を走ったとき。
――世界は、大きくて、でも、つながっている。
先生、僕、船をつくるよ。
この川を越えて、人を運ぶ、僕の船を。
未来の話なんだ。
でも、ここから始めるんだよ。
このスエズで。
ぼくの、“はじまり”を。




