外伝:『スエズに道を刻む者たち』6 -砂上の政治交渉と試験通水-
砂漠に咆哮が轟いた翌朝。スエズの空は蒼く澄みわたり、しかしその地表には熱を孕んだ緊張が漂っていた。
阿形一号が掘り進める一方で、もう一つの戦い――『交渉の戦』が始まろうとしていた。
スエズ港近郊にあるオスマン帝国の管轄城塞。その会議室に、日本より訪れし代表団と、エジプト総督府より派遣された高官たちが向き合っていた。
黒川家を代表するのは、羅門昌次郎。言語に通じた黒川家の外交頭脳である。
彼の右手には、精緻なペルシア語の書簡、左手には阿形一号の設計書。そしてその背後には、如月千早と黒川真秀が控えていた。
対するは、オスマン帝国・エジプト州副総督、バシャ・ユスフ。 長い顎鬚を撫でながら、ゆるやかに口を開いた。
「……機械は見た。あれが“掘る”ものか、もはや我らには判じ難い。だが――なぜ、貴殿らはここに“道”を求める?」
羅門は答える。
「交易の道を拓くためです。この地には、かつて海と海を繋いだ夢がありました。それを我らが再び甦らせたい。剣を抜かずに、世界を繋ぐ道を」
ユスフは沈黙した。 そして、窓の外――阿形一号がゆるやかに土砂を掘り上げている様子を眺めた。
「……皇帝陛下におかれては、財政難とアラビア方面の反乱で頭を悩ませておられる。だがこの道が、我らに富と秩序をもたらすというのなら……考える余地はある」
ここで茶屋四郎次郎が進み出た。
「貴殿が懸念するのは、“誰が儲けるのか”という一点でしょう。ならば率直に申し上げる。我らはこの運河で得る利潤の半分を、御国の都市整備、港湾拡張、及び現地教育支援に投じる所存です」
「……現地教育支援?」
如月千早が一歩進み、巻物を広げる。
「これは現地語で記した“蒸気と水力の基本理論”です。将来的には、こちらで技術学校を建て、運河と共に“学ぶ場”を築きたい」
その瞬間、場の空気が変わった。
ユスフの横にいた書記官が顔を上げる。
「……砂漠の中に、学び舎を……?」
羅門が答える。
「運河は水だけを運ぶのではありません。“知”も運ぶのです」
ユスフ・バシャはしばし黙考し、やがて口元に微笑を浮かべた。
「よかろう。我らは“刃”ではなく“道”を見に来たのだ。ならばその道を、共に掘ろう」
この一言が契機となり、オスマン帝国と黒川家の間に暫定的な合意が成立した。
運河開削における現地行政の承認 ・収益分配の一部還元と人材育成 ・共同保安隊の設置と警備協定
これらが確認され、茶屋四郎次郎は深く頭を下げた。
「交渉とは、道を通す前の“地ならし”。これが済めば、あとは……鉄が吠えるだけですな」
千早は静かに頷いた。
「これで、未来が少しだけ近づいた」
その日、砂漠に吹いた風はどこか軽やかで、遠く紅海の波も、優しく揺れていた。
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三日間の掘削が終わり、試験通水の準備が整った。
スエズの熱砂を割オスマン連合の要員たちが並び立つ。
如月千早は、手製の傾斜測量器と水位センサーを見つめながら慎重に数値を読み上げた。
「……排水勾配、良好。地層の沈降も安定しています」
賀茂清之助が唸るように言った。
「あとは、“水”を通すだけだな。これで崩れたら、また一から作り直しだ」
真秀は頷きながら、海沿いの溜池の導水口に視線を向けた。 そこには簡素な水門と、蒸気式のポンプが設置されている。
「この水門を開けば、紅海の水が初めてこの溝を流れる。未来への第一滴だ」
千早が、目を伏せたまま囁くように言った。
「……水には“性格”があります。暴れれば破壊の元、導けば命の糧。 どうか、この水が、争いでなく繋がりをもたらしますように」
そして。
「水門、解放!」
真秀の号令と共に、鋼の水門がゆっくりと開いた。
ゴボッ……ゴオオオ……
黒い塊のような水が勢いよく流れ出し、乾いた溝底に吸い込まれていく。
ザァァァァァァ……
やがて、水は音を立てて溝を満たし始め、太陽の光を受けてきらめく帯となった。
千早がすぐさま水流センサーを確認し、叫ぶ。
「第一流、安定! 流速は想定内、堤防面無事!」
職人たちが歓声を上げ、オスマンの技師たちも思わず拍手を送る。
だが、清之助の顔は緊張のままだった。
「まだだ……問題は“終端”だ」
その通り、運河の先端では、予想以上の水圧が堤防の一部を押し始めていた。
「亀裂発見! 第十一区間、右岸側!」
「吽形、移動! 補修材搬送開始!」
吽形一号が唸りを上げ、現地職人たちが鉄製の補強板とパテを担いで走る。
千早が膝をつき、溝縁に手を当てる。
「……まだ崩れてない……でも時間がない」
清之助が地面に飛び降り、声を張り上げた。
「全員、持ち場へ! “ここ”を守れ! これは俺たちの“血流”だッ!」
約二刻――
亀裂の補強作業が完了し、流水は安定。 水面は鏡のように静かに波打ち、やがて……
「通ったぞ……」
羅門昌次郎が、呆然とした表情でつぶやいた。
「スエズの地に、“水”が帰ってきた……」
それは、人類がはるか昔に夢見た“東西を繋ぐ命の流れ”。
その最初の一滴が、戦国の知と技と意志によって成し遂げられた。
真秀は、濡れた靴を見下ろして呟いた。
「これが、我らの“新しい戦の形”だ」
砂の上に走る水路。 その輝きは、確かに未来を照らしていた。
ノリで、どんどん工事が進んでいます。現実問題、こんなに簡単にはいかないでしょう。周辺技術の蓄積が必要です。




