外伝:『スエズに道を刻む者たち』4 -ウオーターゲート 分水門-
天正十六年、初冬。スエズ地峡南端では、風が吹くたび、細かい砂が測量杭に絡みつき、吹き上げた砂粒が金属と布を擦って鳴った。
東洋人、西洋人、アラブ人が並び立つその地には、かつてなかった光景が広がっていた。
赤と白の旗が風に踊る。日の丸と昇龍旗が交互に揺れ、中央には黒川艦隊の旗艦「瑞鶴」より分乗された“建設団”の将校たち。
その前方――そこには、三角に尖った紅の測量旗が、しっかりと地に立っていた。
賀茂清之助が静かに呟く。
「……ここが、我々の“第一杭”だ」
傍らで、天測していた如月千早が手元の地図を見ながら頷く。
「起点座標、東経32度33分、北緯29度58分。」
「ここで、起工式を挙行しよう。」
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二日前、紅海南端・スエズ湾に、4隻の船が入港した。
「龍鱗丸」と艦名が書かれた船に積まれているものは、建設器具と大量の鋼板。
次いで「白鷺丸」と書かれた船が入港した。この船は設計事務局、仮設宿舎に当てられる。
そして「暁風丸」が入港した。この船は医療・給水などの専門艦である。
最後に入港したのは測量船「黒鶴丸」である。
船倉から次々と降ろされたものは、黒川が開発したまさに「未来技術の塊」であった。
船側からクレーンを使って降ろされたのは、回転式土壌掘削機、蒸気ショベル機、軌道敷設レールと木製トロッコ、手動プレス杭打ち装置、可搬式ボイラーと真空蒸留機、測深器などなど。
これらが列をなして、地峡を縦断し始めた光景に、トルコやアラブの長老たちは目を見張った。
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起工式が執り行われる。
黒川真秀とトルコの大臣、アラブ首長たちが臨席し、白い長袍をまとったイスラム法学者と、黒川館直轄の通商技官が共同で「起工の礎石」に名を刻んだ。
石には、七つの言語でこう刻まれている。
「此処に道を穿ち、世界の水を繋ぐ。人にして人を分かたず。火にして地を焼かず。言葉にして、争いを鎮めん」
その背後で、清之助が宣言した。
「建設予定総距離:163キロメートル。最大深度:9尋。全工程、五年計画」
千早が続けた。
「第一区間:南口掘削開始。」
ユスフ・ナーディルが眉をひそめた。
「五年……それは果てなき工事だぞ。砂は風で戻る。水は逃げる。信義も薄れる」
真秀は、起工杭の前に立って言った。
「だからこそ、我らが“掘り続ける姿”そのものが“条約”になる」
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【工事の日常】
日中は酷暑、夜は冷え込み。喉を焼く塩風と、肺を満たす土煙。
黒川建設団と現地労働者を繋ぐのは、言葉ではなく作業手順だった。
•「一掘三計」:3回掘るごとに地形再測量
•「夕刻巻電」:毎晩、短波通信で本国報告
•「和食二汁」:日本式の温食配膳により脱水・栄養失調を防止
•「砂柱通信」:無線機を高所塔に組み上げ、地峡全体に電信網を設置(工事用に限る)
特に無線通信機は、音と光の両方で信号を送れるよう工夫され、トルコ語・アラビア語の符号表も追加された。
子供たちがそれを学び、やがて各国の言語を通訳するようになる。
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地峡の湖と、古代のスエズ運河を測量調査していると、課題が見つかった。地峡中部にある古代遺跡群である。
その中心にある小丘は、「聖なる風の門」と呼ばれ、住民が今も祈りを捧げる場だった。
真っ直ぐ伸びた設計線では、そこを直撃していた。難工事を覚悟していた工区責任者たちが頭を抱える中、真秀が決断した。
「設計を曲げる。“聖地”は壊さぬ。だが、そこに“港”を作ろう」
清之助が驚いた。
「おい、勾配が狂う。水流が変わるぞ」
「変えていい。神の門を壊してまで通す運河に、未来はない」
千早が苦笑した。
「殿は時々、詩人になるわね。でもそれが……一番正しいのかも」
その結果、運河側が曲がった。
実際の史実でもチムサーハ湖のイスマイリアは港湾都市になっている。
その中央、聖地は“停泊所”として生まれ変わり、この世界ではのちにこう呼ばれるようになる。
「ミフターフ港」――アラビア語で“鍵”の意。
スエズ運河の“心臓”とされた港である。
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起工から三ヶ月。月が満ちる夜、清之助と千早は掘削線の端で、赤く染まる地平を眺めていた。
「……千早、あのとき黒川殿はこう言った。“火の時代は、技術で終わらせる”ってな」
「うん。私は思うのよ。“火”ってね、争いだけじゃない。“情熱”でもある」
清之助が照れたように笑う。
「じゃあよ。おれたち、砂の中で、情熱を掘ってるわけか」
「きっとね。情熱で繋がる水路よ」
二人の背後では、夜間作業用の投光機が音を立てて灯った。
未来を照らす人工の星が、かつての神殿跡を仄かに染めていた。
その下で掘られるのは、ただの水路ではない――
それは、「世界を分かつものではなく、世界を結ぶ『通用門』」だった。




