外伝:『スエズに道を刻む者たち』2 -パイソニアの眠る砂-
いよいよ。かつて失われた古代の夢――スエズ運河、その復活に挑む物語の冒頭章です。
時は天正十六年(1588年)―― 瑞鶴の旅は、紅海の先端にたどり着いていた。
東洋より始まった“知の航路”は、今、アラビアとアフリカの狭間――スエズ地峡へと至る。
乾いた風が吹いていた。
果てしない砂の地平線。その下に眠るのは、かつてファラオたちが夢見た“運河の痕跡”。
その地を、ひとりの日本人が見下ろしていた。
黒川通商産業院、外交工学団団長――賀茂清之助。
彼は手にした羊皮紙を開き、額に手をかざして言った。
「これが……“パイソニア運河”の跡地か」
後方から、琉球以来の旅を共にしてきた如月千早が、背負った水筒を下ろして肩を回した。
「……何もない、というより、“ありすぎて分からない”って感じね。砂の下に何があるのか、ぜんぶ掘らないとわからない。どこもかしこも遺跡のようだわ」
彼女の視線の先、浅い谷間のような地形のくぼみに、瓦礫と苔、そして古代ギリシャ語混じりの石碑が見えた。
《Κανάλι των Φαραώ(ファラオの運河)》
風化した碑文が、時を越えて告げていた。
「千年前、この地は海だった。そして二千年前、古代の王たちが紅海とナイルを繋ごうとした……だが叶わなかった」
「いまは我々がそれをつなぐ。火薬ではなく、技術と測量と協定でな」
清之助は、腰から取り出した新式の「黒川式水準測量器」を三脚に立てると、南を向けた。
そのレンズの先には、アフリカ内陸の空に揺れる熱気――
遥か彼方、ナイルと地中海を越えて、欧州へと至る夢の水脈が見えていた。
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紅海西岸、テント群が並ぶ臨時拠点では、黒川外交団と地元首長たちとの会談が始まっていた。
広間の中央には真秀が静かに座し、前方にはアラブ・オスマンの代表団が並ぶ。
その一人――オスマン帝国スエズ行政長官の代理、ユスフ・アル=ザファールが低い声で尋ねた。
「なぜ、東の果ての国が、この地に“運河”を望む? 貴殿らの航路は、既にアジアで確立されておろう」
真秀は静かに言葉を返した。
「だからこそです。我らは知っている。交易とは、“港”だけで成るものではなく、“つながる地”を求めるものだと」
「地を掘り、川を作る……それは、国を割る刃にもなりうるぞ」
「そう。だが、これを“剣”ではなく、“血流”と見なすことはできませんか? 世界の身体に、もう一度温もりを通わせる水の道を。火薬ではなく、水と知識によって――」
千早が地図を開き、静かに加えた。
「我々は航路だけを求めているのではありません。
その沿岸に灯台を建て、難民を避ける避難所を作り、海上電信線を通し、子どもに読み書きを教える場所を作りたい」
一瞬、部屋が静まりかえった。
ユスフは机に手を置き、低く呟いた。
「そのような言葉が、信じられる時代であれば……我らの祖父は剣を捨てていたのだがな」
真秀は微笑した。
「だからこそ、信じていただきたい。我らが今持つのは剣ではなく、測量器と、墨壺と、記録帳です」
その言葉に、老いたアラブの隊商主がぽつりと呟いた。
「ファラオが夢見た運河を、神が待ち望んだ“道”を……再び、人の手で掘る時が来たのかもしれぬな」
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その夜、真秀は独り、巻物に筆を走らせていた。
【工事計画書・第一稿】
・スエズ地峡南部よりルート確定
・湧水脈調査、地下水動線の観測
・アラブ・オスマン・欧州共同委員会の設置
・仮称:「光の運河」計画(通称:復スエズ計画)
そして巻末に、こう添えた。
「かつて火薬と十字架で占められたこの地に、今こそ“測量線と約束”を刻まんとす」
遠く、スエズの夜空には、星々が燃えるようにまたたいていた。
その下、地面の奥深くで眠っていた「文明の川」は、
いままさに、再び目を覚まそうとしていた。
(つづく)
時は、天正十六年、ところは、紅海南岸 歴史が動きます。




