第四章 第十話「南蛮勢力の逆襲」(後編)
【黎明の条約と光の外交】
天正十五年六月、ルソン島・マニラ湾では、戦いの音が去った海には、潮の香りと、焼け焦げた木と鉄の匂いがまだ残っていた。
波間に漂うのは瓦解した旧時代の残骸。そして、その上に浮かぶのは、新時代の旗――黒川率いる通産艦隊シンボルの昇竜旗だった。
南蛮連合艦隊の敗北は、瞬く間にルソン島全域へ伝わり、マニラ総督府を支える教会勢力とポルトガル商人たちに激震を走らせていた。
だが、黒川真秀は“勝ってなお強弁せず”、静かに、しかし確固たる意思を持って、使節団と共に上陸交渉を開始した。
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サンチャゴ要塞の臨時外交会議室、マニラにある石造りの要塞、その中央棟に設けられた小さな会議室の重い木扉が開き、淡い硝煙の匂いと共に、黒川使節団が現れた。
その先頭に立つのは、黒い直垂に羽織を纏い、腰に刀を差した男――全権の黒川真秀である。
その後ろには如月千早と通訳の羅門昌次郎、護衛として九鬼嘉隆と賀茂清之助が控えていた。
室内の中央には、スペイン・ポルトガルの国旗が掲げられ、スペイン・ポルトガル側の外交官団が座る。
ルソン島副司令アロンソ・デ・サンタクルスと、依然として顔に傷と怒りを残すルイス・デ・ソウザの姿もあった。
沈黙が落ちる。
如月千早が一歩前へ出て、書面を取り出す。
「我々は、戦勝をもって占領を目的とせず。貴殿らと、『通商と相互不可侵』を目的とした条約締結を望みます。」
ソウザが席を蹴りそうな勢いで立ち上がった。
「ふざけるな……! 貴様らが破壊したのは軍艦だけではない。われわれの尊厳と、信仰の威信だ! 条約だと? これは、屈服の印か?」
黒川真秀は、静かに首を横に振った。スペイン語で語る。
「否。ソウザ殿――これは『あなた方の選択肢』です。」
日本語でいう。
「今後、我ら日本は西洋の交易路にも進出する。だがそれは神の名を騙る征服ではなく、共存を模索するための前哨でありたい」
通訳を待ち、サンタクルスが声を潜めて問う。
「……貴殿らは、まさか本気でわれわれに対抗し「大航海帝国」を築くつもりか? この東洋から」
通訳する間を、思索の間にしているようだ。
「我らは帝国を望まぬ。ただ、我らの生きる未来に、戦のない海を望む」
真秀の言葉に、室内が再び沈黙した。
そのとき、羅門昌次郎が一歩進み、翻訳を終えたソウザをまっすぐに見た。
「ソウザ殿……貴方が憎むのは、我々の技術か、それとも“未来”そのものか?」
ソウザは硬直し、答えなかった。
如月千早が穏やかな声のスペイン語で重ねた。
「この条約が受け入れられれば、我らはこの島の港を共有させてもらいたい。」
「このマニラを交易の中継地とし、もちろん貴国の商人にも新たな道を保証する。」
真秀も続けてスペイン語で話す。
「ただし、教会の布教は、一定の区域で限定的に認める。が、いかなる軍事干渉も……二度と許さぬ」
「それが、貴殿らの言う“文明の灯”というわけか?」
サンタクルスが苦笑するように尋ねた。
「あなた方は、文明ではなく文化の違いを認めなければいけない。なぜ、明国人が貴報方を「南蛮人」と呼んでいるか分かるかな」
真秀は、懐から一枚の和紙を取り出した。そこには、未来の電信網の地図が描かれていた。
赤い点は、通信機を備えた港。青は、提携予定地。線は、すべて繋がっていた。
「これは、いずれ実現する“世界の語らいの網”だ。戦わずして繋がる時代が来る。だが、その最初の一歩がこの場で潰えれば――再び、火焔艦の夜が来る」
真秀の言葉に、ソウザが苦悶する。彼の拳は震えていた。彼は、彼なりの信念で戦ってきた。誇りを捨てることは、過去の自分を否定するに等しい。だが、彼はゆっくりと、肩を落とした。
「……この屈辱を、貴様らの慈悲と呼ぶならば――その未来、せいぜい信じてみせるがいい」
彼は静かに腰を下ろした。
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ルソン港通商不可侵条約が成立した。内容の概要は次の通り。
1.双方、捕虜および負傷者の無条件引き渡し。
2.マニラ港を東西共通交易地と認定する。
3.この港での布教と、兵站地化は双方とも禁止する。
4.日本艦隊、以後90日間のルソン停泊権を取得。
5.ルソン沖の水路・港湾技術を双方で共有。
6.新型の灯台システムと通信機を日本から提供する。
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その夜――艦隊上、黒龍の艦橋にて
「……これで、戦争は終わったんですか?」
千早が問いかける。
真秀は海を見ながら、静かに答えた。
「いや、始まったばかりだ。“勝ったあとに、どう生きるか”――それが、本当の戦だ」
賀茂清之助がぼそりと呟いた。
「まるで、終わりなき工程表だな……あの殿様の夢ってやつは」
「終わりがあるなら、夢じゃないでしょ」
千早が、淡く微笑んだ。
蒸気の煙が夜空に揺れ、船上の灯が静かに揺れていた。
――それは、まさに『黎明の灯』だった。
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【帰還と異国の風】
天正十五年七月・帰路、南シナ海――
戦は終わった。だが、海は、完全に静まり返ることはなかった。
砲撃の衝撃がまだ甲板に残る黒川艦隊の船団は、マニラから北上し、一路、琉球経由で日本を目指していた。
潮の匂いと、蒸気の白煙。そして、なにより空気に溶け込んでいるのは――世界が変わり始めたという確信だった。
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航行中の黒龍艦内の作戦室では、真秀、千早、清之助、嘉隆、羅門らが一堂に会していた。
机上には、マニラ条約の写しと、新たな海図。
それは『勝利』の戦利品であると同時に、『次の責任』でもあった。
真秀が巻物を見つめたまま、口を開く。
「ルソンは一つの始まりにすぎない。……我々が示した力は、敵だけでなく、味方の心にも波紋を広げるだろう」
賀茂清之助が、苦笑まじりに呟いた。
「日本に戻れば、また『訳の分からん殿様たち』が騒ぐな。『鉄の船が空を飛んだ』とか、『天狗の乗り物』だとか」
羅門昌次郎が煙管をくわえ、ぽつりと言う。
「いや、それよりも『恐れる者』の方が増える。信長公亡き後だからな、『黒川家は、もはや異国の神に魂を売った』と噂されるかもしれん」
九鬼嘉隆が、どっしりとした声で応じた。
「勝てば羨ましがられ、負ければ笑われる。だが、勝ちすぎれば恐れられる。そりゃ昔から変わらん」
真秀は静かに、頷いた。
「それゆえ……言葉が要る。剣ではなく、交わす言葉で未来を繋がねばならない」
如月千早が目を細めて尋ねた。
「殿、それは……新たな“外交戦”が始まるということですか?」
「いや、“内政戦”だよ」
真秀は艦内の木箱から一冊の帳面を取り出した。
それは、旅の始めから記してきた《未来工程図》――ただの設計図ではない。外交、航海、内政、信仰、教育……それら全てが一つの糸で繋がれた書であった。
「日本がこれから歩む道、それが本当に“平和な海”を保てるものか――その答えは、我らが“帰国後にどう語るか”にかかっている」
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数日後には琉球王国の那覇港に黒川艦隊が入港した日――
港には琉球王尚寧の使者が出迎えに立っていた。
「黒川様、王より“勝利の凱歌を共に歌うべし”との書状にございます」
その場で巻物を読んだ真秀は、小さく微笑んだ。
「よかろう。琉球の港を『東アジア交易の結び目』とする約束、今こそ果たすときだ」
千早が小声でささやく。
「……殿、これも“航路外交”の一部なの?」
「もちろん。港に祝砲を打ち上げれば、民は踊り、隣国は動く。“祝う”という行動は、戦わずして周囲を巻き込む外交手段だ」
清之助が舌を巻いた。
「祝い事すら計算に入れてるとは、恐れ入るわ」
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八月上旬、黒川艦隊が越前敦賀に凱旋すると、港は地鳴りのような歓声に包まれた。
「戻ったぞ、黒川様が帰られた!」
「鉄の船じゃ、海の鬼を退けたのじゃ!」
子どもたちが艦の模型を木で作り、男たちは港で一升瓶を掲げ、女たちは着物の裾を濡らしてでも手を振った。
だが、城下の武士たちの間には、どこか張り詰めた空気も漂っていた。
「あれが……噂の“黒龍”か。まるで怪物じゃないか」
「南蛮船よりも強い、などというが……信じてよいのか?」
「……いや、信じねばなるまい。だが、同時に“怖れ”ねばならん」
日本での今後の行動が、ますます大変になってきたなと苦笑する、真秀達であった。




