第四章 第十話「南蛮勢力の逆襲」(中編)
【マニラの陰謀】
ルソン島・マニラ、サンチャゴ要塞――
南洋の夕暮れは早く、空の端から茜色が静かに海へ沈もうとしていた。
だが、スペイン軍が占拠する要塞の石壁の内側では、まるで血の匂いが満ちているかのような張り詰めた空気が流れていた。
厚い石造りの軍議室。床は冷え、蝋燭の火は不気味な影をゆらめかせる。
その中央にて、将軍ディエゴ・ロンキージョは、軍用テーブルの上にマカオからの報告地図を叩きつけた。
「黒川艦隊が南下中――すでにルソン海峡に迫りつつあると?」
「はっ、偵察用の漁船より確認されました。黒き鉄船が三、四――いや、それ以上」
副官がそう答えると、部屋の片隅で腕を組んでいた男――
ルイス・デ・ソウザが舌打ちした。
「やはり、来たか。あの鉄の悪魔どもが……!」
かつてマカオの商館長だった男は、今やスペインとポルトガル合同艦隊の外交顧問としてこの要塞に身を置いている。
だが、黒川艦隊によって交易利権と威信を失った彼の心には、もはや理性よりも執念が巣食っていた。
「聞け、諸君。我々はこの“鋼の獣”どもとまともに戦っては勝てぬ。だが、弱点はある。“近づかれれば終わり”なのだ」
ロンキージョはゆっくりと頷いた。
「……つまり、接近を許さずに焼き払う。貴様の案、“火焔艦戦法”を用いるのだな?」
「そうだ。神に仕える者として誓おう。この“聖なる艦隊”によって、あの異端の船団を地獄へ送る」
ルイスの言葉に、一人の司祭が十字を切りながらうなずく。
「これは十字軍に等しい。黒川とは、悪魔が東洋に送り込んだヨハネの黙示録に記された“鉄の獣”にほかならぬ」
ロンキージョはやや眉をひそめた。
「……それにしても、火焔艦は本当に機能するのか? 我々の火船は遅く、方向も定まらん。風任せで突っ込む船に黒川の機械船が当たるか?」
ルイスは、にやりと笑う。
「ふふ……勝てると思っているからこそ、油断する。神の火は、思わぬところから吹き上がるものだ」
「よかろう。だが、作戦決行は黒川艦隊がマニラ湾へ侵入してからだ。それまで敵を引き込め」
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そのころ――マニラ旧市街の外れ
古びた修道院の壁の影に、一人の男が身を潜めていた。
黒川家密偵――羅門昌次郎である。
薄暗い小道の先、修道士のふりをした彼は、
手にした“黒川式木箱電信機”を抱え、壁の隙間から要塞の観測塔を見つめていた。
(……今夜が山場だな)
彼の使命は、ルソン沖に展開する黒川艦隊へ“火焔艦作戦”の開始時刻と出撃方角を知らせること。
だが、彼の通信手段は一つだけ。
単方向の、きわめて脆弱な初期の電信器。
要は、発信してしまえば隠れる時間はない――「一発勝負」である。
(この距離なら、疾風が拾える。奴らに火をくべる暇を与えなければ、勝てる)
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その夜――。
ロンキージョ将軍は艦隊指揮用の伝令馬を準備させ、部下にこう言った。
「“El Castigo de Oriente”を先頭に、突撃編成に移れ。火船“Reino de Dios”は双方向から突入。主力は本能的に防御に回るはず。そこを崩すのだ」
ルイス・デ・ソウザは静かに十字を切った。
「神の祝福を。我々は、時代を逆に戻す。日本の愚者どもに、西洋の鉄槌を」
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そして、マニラ湾――
湾内に隠れていた木造火焔艦2隻が、夜の霧の中、そろりそろりと動き出す。
艦体には油壺、火薬箱、そして殉教を覚悟した乗員たち。
火焔艦の甲板で、若き神父兵が静かに言った。
「……この身は、神に捧ぐ」
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その直後――。
マニラ湾の西、黒川艦隊の前衛にいた高速艦・疾風の電信室に、かすかな信号が届く。
「火焔艦 双進 22時出撃 湾内潜伏」
――発信:羅門
「千早さん! 羅門殿からです! 暗号一致、確実です!」
如月千早は即座に艦橋へ走り、武吉へ報告した。
「村上殿、火焔艦が出たわ。マニラ湾内から、左右に双方向!」
武吉の顔が鋼のように強張る。
「ふん、やはり来たか……」
彼は回頭命令を叫んだ。
「鳳凰丸へ連絡、左舷旋回。雷光、連装砲で迎撃体勢! 伊吹、前方に信号筒! 白煙展開、視界を制せ!」
電信、旗、霧、蒸気――
火焔艦は確かに恐ろしいが、“通信機”のない南蛮勢力は“同時にしか動けぬ”。
対して、黒川艦隊は秒単位の連携が可能な“時間で戦う艦隊”。
そして――
数分後、黒川艦隊の視界に火焔艦が浮かび上がる。
「敵影! 舳先角度、二時方向! 距離300、接近中!」
雷光の砲術士が叫ぶ。
賀茂清之助が叫んだ。
「火焔船だッ! 撃てぇッ!!」
轟――ッ!!
主砲の咆哮が、夜の海を切り裂いた。
火焔艦の艦首に正確に砲弾が命中し、火薬が誘爆。
夜空に、信仰と復讐と執念が混ざった火柱が、黙示録のごとく吹き上がった。
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羅門昌次郎は、炎を見ながら呟いた。
「……悪いな、ソウザ。あんたが信じた神と、俺が守る未来は、違ったらしい」
そして、彼もまた闇へと姿を消した。
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夜が明ける。
黒川艦隊は損害なく、マニラ湾の入り口を制圧。
海図は塗り替えられ、
“旧き時代の鉄槌”は、黒川の未来技術と知略に敗北を喫した。
だが――
「……だが、これは序章にすぎぬ」
燃え残る火焔艦の破片の中で、ルイス・デ・ソウザは歯を食いしばっていた。
「今に見よ、黒川……我らは二百年、世界を支配してきたのだ。たかが一度の敗北で終わるものか」
彼の瞳にはまだ、炎が宿っていた。
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天正十五年・ルソン沖、西方海域――
夜が明けた。
だが、その空は、青ではなかった。
低く垂れ込めた鉛色の雲が、まるで戦の前触れのように空を覆い、
水平線の彼方から吹き上がる微かな海霧が、陽をも遮っていた。
波は静か。しかしその下には、火薬と蒸気と信仰と野心が煮えたぎっている。
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【陣形展開】
午前七時。黒川艦隊は東から、西進してくる南蛮連合艦隊の主力を視認。
「艦影、十二――いや、十三。中央に巨大な帆船。ガレオンの旗を確認」
疾風の観測員が報告を叫ぶ。
旗艦・黒龍の艦橋で、村上武吉が地図の上に拳を置いた。
「ドン・ロンキージョ……来たか、旧き時代の覇王が」
隣で如月千早が測距器を覗き込む。
「距離、五千五百――まだ先。ですが、彼らは砲撃可能距離に入れば、ためらいなく撃ってきます。数ではこちらが不利、ですが――技術は違います」
武吉は静かに頷く。
「……ならば、見せてやろう。新しき時代の戦いをな」
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【敵艦隊:中央突破陣形】
西方、風を背に進むはスペイン・ポルトガル連合艦隊。
中央に巨大な帆船**“Nuestra Señora del Triunfo”。
その左右にInfanta de Goa**、San Juan Bautistaなどの中型ガレオンが展開し、さらにその背後からは火焔艦の残存1隻が突入の機を狙っている。
その旗艦艦橋にて、ディエゴ・ロンキージョ将軍が前方の黒煙を睨んだ。
「……黒煙。これが東洋の力か」
傍らの副官が問う。
「将軍、どうなさいます?」
ロンキージョは低く、重く答えた。
「殴る。全力で。正面からぶつかり、砲撃で主力を叩く。それしかない。我らには神と経験がある」
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*戦闘開始:午前八時
「距離、四千。敵中央艦、“El Castigo de Oriente”、砲門を開いた!」
「雷光、照準確認。砲門全開、撃て!」
――ドォン!!!
雷光の主砲が唸る。
榴弾が唸りを上げて大気を裂き、敵先鋒ガレオンの帆柱を切り裂いた。
「命中!」
その瞬間、敵艦の甲板が火を噴き、白煙が吹き上がる。
一拍遅れて、南蛮艦隊からも火が放たれた。
――ゴオオォン!!!
「鳳凰丸、被弾! 右舷、軽損傷! 火薬庫、無事!」
九鬼嘉隆が、焼けた甲板に立ち、吠えるように命じた。
「かすり傷だ! 反撃用意、左砲列、連射!」
鳳凰丸の砲口が火を吹き、連続して敵の中堅艦“Cristo del Mar”に打撃を加える。
如月千早は疾風の中枢で、即座に電信機を操った。
「黒龍へ信号、鳳凰丸右舷損傷軽微。敵旗艦との距離三千、進路予測開始」
武吉は受信と同時に号令を叫ぶ。
「雷光、旋回砲を敵旗艦に集中! 狙いは“帆”だ。奴らを動けなくしろ!」
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*戦術転回:午前九時
敵艦“Reino de Dios”が突入を開始。
火焔艦――残された最終兵器。
「火船だ! 接近してくるぞ、距離八百!」
羅門昌次郎が伊吹艦上から叫ぶ。
「千早殿、いま!」
千早はためらわずに送信する。
『 雷光へ:砲塔A、角度72、距離850、投射榴弾』
雷光の旋回砲が静かに、そして正確に火焔艦を狙う。
着火前に破壊できなければ、黒川艦隊の中核が焼き尽くされる。
「――撃てッ!!」
――ドオオォォォン!!!
榴弾が火焔艦の中央を直撃。油と火薬が誘爆し、巨大な火柱が海上に上がった。
まるで神の雷が下ったかのように、火焔艦は跡形もなく消えた。
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*敵、崩壊:午前十時半
三時間に及ぶ砲撃戦の末、黒川艦隊は一隻も沈まず、
敵艦隊は旗艦を含む三隻を大破、四隻が撤退。残りは漂流・投降。
ディエゴ・ロンキージョは燃える指令室で唸った。
「なぜだ……なぜ、鉄と神と火で戦った我らが……異端に……」
そこへ、海上を渡って届いた黒川艦隊の旗信号。
「降伏せよ。死は望まぬ。生きて、見るがよい」
ロンキージョは呆然と、昇る“黒き昇竜の旗”を見上げた。
「……あの旗に、敗れたのか……」
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【戦後】
夕暮れ、鳳凰丸の艦橋にて。
「終わったのか……?」
九鬼嘉隆が呟いた。
千早は首を横に振った。
「いいえ。始まったんです。これは、世界が“黒川の名”を知った日――」
遠く、沈みかけた太陽が赤く海を染めていた。
その上に翻るのは、
“世界の未来を背負った、鉄と煙の旗”――黒川艦隊の象徴だった。




